「20歳まで生きられればいいと思っていた」ある女性が援デリをやめ、居場所づくりに関わるようになるまで【生きづらさを感じる人々38~希咲の場合】 - 渋井哲也
※この記事は2021年08月12日にBLOGOSで公開されたものです
「20歳までに死にたいと思っていました。すべての法律で大人になってしまう。それが嫌で。とりあえず、20歳まで生きればいいでしょ?」
希咲未來(21、仮名)は、18歳のころからずっとそう思っていた。なぜ、「死」が頭に浮かんだのか。その理由のひとつは、彼女とつながりのあった援助交際デリバリー(援デリ)の元締めが自殺したことだ。アルコールや睡眠薬、精神薬のオーバードーズ(OD、過剰摂取)をしたことが原因らしい。このとき、希咲も死のうとしたというが、死ねなかった。
一般に、援助交際の場合は、客を探すのも、行為をするのも本人だ。しかし、援デリではマッチングアプリやSNSなどで別人が客を探す。例えば、探す人が男性の場合もあり、そのときは女性のふりをする。客を見つけると、援助交際をする本人に連絡が行く。これが「援デリ」だ。
希咲が「援デリ」をしていたのは18歳の5月から19歳の12月。歌舞伎町の出会いカフェで待機して、客が確保できたらスマートフォンに連絡が来る仕組みだった。希咲はこの〝仕事〟をしていると、なぜか死に近い感覚があったという。
「ここで死ぬんだろうなと思っていたんです。周囲に薬物依存の子もいたし」
「死にたい」という感覚は中2の頃からあった。その頃、希咲は児童相談所に一時保護されていた。保護されたとは言え、一時保護所は快適な場所ではなかった。そのため、一緒に保護されていた子と窓のロックを外して、3階から飛び降りた。死のうとしたのだが、未遂となった。
父からの暴力、母からの暴言
希咲は父親から虐待を受けていた。小学生の頃、思い切って、学校で相談したが、父親が虐待を否定したために、家に帰されることになる。
「物心がついたときには虐待を受けていました。小6の頃、『家にいたくない』と思って、先生に言ったんです。児童相談所へ行くことになりましたが、体の傷は見せませんでした。とにかく、『家がやだ』と言っていたと思います。そこで親が迎えに来て、父は〝おれは何もやっていない。娘、返せよ〟と否定したんです。このとき保護されていたら、違ったと思います」
父親から、どんな虐待があったのか。
「鍋に頭を打ちつけられることがありました。2階の階段から突き落とされました。そのルーティーンみたいな。逃げるけど、引きずられて、階段から落とされるんです。けがをしても放置されましたね。殴られたはずみでストーブにぶつけて火傷したこともありますが、病院にも連れて行ってくれませんでした。虐待されているのを見ていた弟は『お姉ちゃん、死んじゃうから、やめて』と言っていました。母親は見ているだけでした」
母親からは、暴力はないが、暴言を吐かれていた。
「『お前なんか産まなきゃよかった』とか、『うちの子にはいらない』『そんなふうに育てた覚えはない』と言われていました、母親は父親に逆らえず、殴られていました。母親も病院には連れて行かない人なんです。病気になっても、電話帳で『お前が調べろ。どうせ保険証がないし、診察してくれないよ』『お金ないし。みてくれるところあるわけねえじゃん』と言われました。今、思えば、ネグレクトでした」
父からの性的虐待をきっかけに始まった自傷
中学に入ると、父親から性的虐待を受けた。
「中1の春、父親に〝女になったのか?〟と言われたんです。生理のことを言い、女として見たんだと思います。性的なことは全部されました。すべてがどうでもいいなと思いました。(行為が)終わった後、『もう無理!何これ?』って思いました。父親からは〝言うなよ〟と言われましたし。のちに、児相に対して、母親は〝そんなこと(性的虐待)ありません〟と言いました」
希咲は助けられることがなかった。中1の頃からリストカットを始めた。理由は、父親からの虐待があったからだ。
「気がついたらしていたんです。近くのスーパーでカッターを盗んで切っていたんです。どうしてリスカを知ったんだろう?多分、スマホからアクセスしたネットを見ていて、知ったんじゃないかな。偶然…」
そんな環境下でも、希咲は学校へは通っていた。担任や学校には家庭のことを話さなかったのだろうか。
「言いませんよ。アンケートにも書きません。ただ、一度だけ、書いたことがあるんです。『家が辛い』とか『リスカしている』とか。でも、そのまま親に見せられちゃいました。中2のときに、部活の顧問に〝お前なんか必要ない〟と言われて、学校で思い切りリストカットしたら、大騒動になりました。そのときに、アンケートを親に見せていました」
虐待について書いてあるアンケートを、当事者の親に見せる行為はリスクを伴う。2019年1月、千葉県野田市の栗原心愛ちゃん(当時10)が虐待の末に父親が死亡させた事件があった。このとき、心愛ちゃんは学校のアンケートで「お父さんにぼう力を受けています」と書いていた。そのアンケートのコピーを父親に渡していた。そのことを後で知り、希咲は「一緒じゃん」と思ったという。
「ここにいたら死ぬ」家出した少女が始めた援助交際
父からの虐待は激しくなっていく一方だった。そして希咲は家出をした。
「決意をしたときは、ものすごい暴力を振るわれて、『私、ここにいたら死ぬ』って思って、雨が降っている夜中に、部屋着のまま、裸足のまま2階から飛び降りて家を出ました。親から一瞬でも解放されたのは嬉しかったですね。」
最初の家出はすぐに父親に連れ戻されたそうだが、結局、希咲は家を出た。その後は、出会い系サイトや掲示板で男に出会い、援助交際をして、泊まる場所を確保した。
「初めての援助交際は、14歳の頃です。3月に掲示板で知り合った男性と漫画喫茶へ行きました。五千円をもらいました。このとき、『五千円ももらえるんだ』というか。その〝代金〟はメイク代と、歌舞伎町までの交通費に消えました。はじめて儲けたお金でした。その年齢でその値段はないだろうと思い、のちのち値段をあげていきました。罪悪感はありませんでした」
このとき、「私でも抱きしめてもらえるんだ」と、若年女性を支援するNPO法人にメールした。このとき、男性スタッフにこんなことを言った。
「どうして体目当てじゃないの?」
スタッフは「そんなことをする大人が悪いんだよ」と答えた。
どうして希咲がそんなことを聞いたのか?それは、ある性被害が関係している。15歳のとき、新聞で知った支援団体に連絡を取った。すると、理事の一人が家の近くまで話を聞きに来てくれたという。希咲は、その理事から性的被害にあっていたという。
仕事もない、身分証もない。やがて始めた仕事は・・・
この頃、希咲は支援団体とやりとりをするなかで、自分がいじめられていたことに気付いた。内容は暴言や無視、靴を隠すといったことに加え、「裸の写真を撮られることも普通にあった」という。
「私にとっては当たり前すぎて、いじめと気づきませんでした。つらいし、しんどい。でも、親に知られたら、もっとぶん殴られるんじゃないかと思いました。あるとき、テレビでNPOを見たんです。『ここなら親に知られない』って思って、メールで連絡しました」
以来、このNPO法人とは繋がっている。そして、1ヶ月に一度は、同法人の代表と会っている。その後、結局、保護されて、児童自立支援施設へ行くことになる。児童福祉法による施設だが、児童養護施設とは違い、不良行為をするおそれのある児童や、家庭環境等から生活指導が必要な児童が入所、または通所する施設だ。18歳または義務教育終了の年齢までの児童が対象となる。その後は長ければ22歳まで自立援助ホームに入所する。
「県立の児童自立支援施設だったので、少しは自由がありました。高校もやめ、施設内の学校へ行くことになりました。ルールは厳しく、ミニスカート禁止でした。理由を聞いたら、〝おしゃれをするところじゃない〟と言われました。ルールはおかしいと思ったんですが、職員さんは頑張っていました。厳しい施設には行きたくないし、早く出たかったので、いい子にしていました」
18歳を過ぎたが、自立援助ホームに空きはなく、歌舞伎町へ行った。措置中だったため、保護され、結局自立援助ホームへ入った。携帯は没収。仕事もない。身分証もない。結局、児童相談所の所長が保証人になり、一人暮らしを始めた。希咲は歌舞伎町へ行き、風俗店で働いていたが、ホストに『仕事を紹介する』と言われて、ネットカフェに住みつつ、援デリするようになった。
「援デリの報酬は、ホストに使いました。1日で10万円を稼げました。ホストって、楽しかったです。歌舞伎町の光じゃないですか。シャンパンタワーをすれば、〝大好きだよ〟って感じで接してくれるし、認められたと思うこともありました。そこにいたから出会えた子もいる。私にとっては大事な場所だと今でも思っています。でも、今思えば援デリの元締めには利用されていたと思います」
「無関心を変えたい」社会貢献にかかわる理由
希咲が援デリをやめたのは19歳の12月。元締めが自殺したとの連絡がInstagramのDMに入った頃だ。この頃、「20歳までに死にたい」と言っていたが、そんな中で、テレビで知った支援者に連絡をとったところ、「死ぬなら一回、沖縄へ来い」と言われて、会いに行った。
「19歳くらいまで自傷行為をしていました。両腕全部と両足全部です。でも、20歳まで自傷をしているのはダサいと思っていたんです。だから、何かしら、社会活動をしてみたいと思っていたんですよ。人とのつながりは、自傷的な行為をやめる理由になっていったんです」
現在は、生活を立て直すため、アルバイトをしている。そして、社会貢献に関わるため、居場所事業のボランティアに顔を出している。そこで、10代の話し相手になっている。
「無関心を変えたい。それに、歌舞伎町で知り合って今でも繋がっているのは、もともと虐待などの被害者です。でも、加害者に利用され、いつしか自分も加害者になったりする。そんな現状を伝えたい。将来的には、親を頼れない子たちの、シェアハウスでもシェルターでもない、『ホーム』を作りたい」