中国が支配するディストピア 香港の大量国外脱出「英国だけでも5年で最大83万人超」予測 - 木村正人
※この記事は2021年08月02日にBLOGOSで公開されたものです
[ロンドン発]民主化運動を弾圧する香港国家安全維持法(国安法)が昨年6月末に施行されて1年以上が経過した。自由を求めてイギリスに逃れた香港市民の定住を支援する慈善団体「英国港僑協会」は、英政府が発行する「イギリス海外市民(BNO)」ビザ申請者は現時点ですでに10万人に及び、2025年までの5年間で最大83万2500人に達するだろうと予測する。
香港市民のエクソダス(大量国外脱出)はいったい何を物語るのか。
エアビーアンドビーに滞在 香港を逃れた理由は
7月30日午後4時、ロンドンの観光名所トラファルガー広場にある美術館ナショナル・ギャラリー前に香港から脱出してきた家族連れや若者ら約25人が集まった。英国港僑協会が6月に続いて開いた2回目のロンドンウォーキングツアーだ。地元ガイドの案内でトラファルガー広場や官庁街ホワイトホール、サマセット・ハウスまで2時間半かけて散策した。
約1カ月前に単身渡英し、ロンドン北部イズリントンの民宿(エアビーアンドビー)に月800ポンド(約12万2千円)で宿泊する公認会計士エリーさん(32)は「香港から自由が急激に失われている。誰にも気兼ねせず自由に物を言えなくなった。常に誰かに監視されているような気がして脱出を決断した」と打ち明けた。
他の家族はエリーさんのような不安を感じなかったため、香港にとどまった。国安法強行で香港返還から「50年不変」とされた「一国二制度」は反故にされ、中国共産党の意を受けた香港政府・警察によって自由と民主主義は無残に踏み潰された。エリーさんは抗議デモに参加したことはあるものの、ごく普通の香港市民で、熱心な活動家ではなかった。
エアビーアンドビーなら賃貸住宅に入居する際に求められる敷金や、所得証明など支払い能力の査定もない。エリーさんはエアビーアンドビーを使って部屋を間借りしているのが実態だ。
BNOビザには2年半と5年の2種類があり、1997年の香港返還前に生まれたBNO資格を持つ香港市民とその家族計540万人が申請できる。イギリスに5年間居住すれば永住の道が開ける。ビザ申請の際、6カ月滞在できる資金力があることを示さなければならない。単身なら2千ポンド(約30万5千円)、夫婦と子供2人で9200ポンド(約140万3千円)。
英市民が無償で受けられる公共医療サービスを利用するのに5年滞在で大人3120ポンド(約47万6千円)、子供2350ポンド(約35万8千円)の支払いが求められる。2年半滞在ならその半額だ。BNOビザがあれば自由に就労も就学もできる。
それほど英語が達者ではない香港脱出者
エリーさんは「香港での公認会計士資格をこちらに切り替え、仕事を探している。何か良いツテがあれば教えてね。香港のことを忘れず取材に来てくれてありがとう」と笑顔を見せた。ツアーに参加した人は想像していたより英語が上手くなかった。日本人とどんぐりの背比べの英語力ではイギリスで仕事を見つけるのは難しいと正直、思った。
英高等教育情報誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーションの世界大学ランキング200位以内に入っている大学は日本(人口1億2500万人)では東京大学36位、京都大学54位の2校。これに対して人口756万人の香港は香港大学39位、香港中文大学、香港科技大学各56位、香港城市大学126位、香港理工大学129位と5校がランク入りしている。
世界最大級の語学学校EFの英語能力指数によると、英語力の世界ランキングはオランダ、デンマークなど欧州勢が上位を占め、香港は33位、日本は55位にとどまる。イギリスの植民地支配が155年続いた香港からの脱出者の英語力がそれほど高くないのはどうしてか。
英国港僑協会創設者で、ツアーで英語から広東語への通訳を務めた元在香港英国総領事館職員のサイモン・チェン氏(30)は「香港を脱出してくる人たちが、英語が流暢なエリート層だけでなく、ごく普通の家庭、市民に及んでいる証拠だ」と解説する。まさか香港を脱出することになるとは夢にも思わなかった人たちが堰(せき)を切ったように大量脱出し始めているのだ。
「総領事館で働いていただけでスパイ容疑をかけられた」
チェン氏自身、2019年8月、中国深セン市に出張した帰り、中国公安当局に17日間も拘束された。その後イギリスに逃れ、政治亡命が認められたものの、1年後には外国勢力と結託して国家の安全に危害を加えたとして国安法違反容疑で指名手配された。「総領事館で働いていただけなのにスパイ容疑をかけられ、身に覚えのない買春を自白させられた」と言う。
「ツアー参加者が香港からの脱出者か、在英中国大使館の指示で潜り込んだスパイなのか、どのようにして見分けるのか」と尋ねると、チェン氏は「常にその懸念はある。だから一般市民でも参加できる普通のイベントを企画している。私たちは何一つ違法なことはしていない。正々堂々と活動している」と答えた。
英政府は今年1月、BNO資格保有者に永住の門戸を開く新しい枠組みをつくった。1~3月に3万4300人からビザ申請があり、5600人に付与された。チェン氏によるとビザ申請者は8万5750人、取得者1万8千人、亡命申請者121人、それ以外1万4千人。ビザ申請者が全員渡英しているとみると、すでにイギリスにいる香港脱出者は「10万人にのぼる」という。
今年から25年までの5年間で香港脱出者は中央シナリオで25万7200人、最大シナリオで83万2500人に達する可能性があるとチェン氏は分析する。6歳と10歳の息子、妻(42)とともに渡英したアレックスさん(45)は香港では学習塾の教師をしていた。抗議デモに一度も参加したことがないというアレックスさんは語る。
「香港政府は政治、教育、自由など多くのことを変えた。それで1年半前に期限が切れていたBNOビザを取り直した。1カ月前、表現や思想の自由を求めて家族で香港を脱出した。2ベッドルームの賃貸住宅を月1500ポンド(約22万9千円)で借りて暮らしている。地元の役所を通じて子供たちの小学校も紹介してもらった」
「今はイギリスで生活の基礎を固めることを最優先にしているため、まだ仕事は探していない。先にイギリスに移住した友人もいるので、今のところ大きな問題はない。香港の自由はどんどんなくなり、香港政府によるコントロールが強まる。教育や選挙も急激に変わるだろう」とアレックスさんは表情を曇らせた。
凍結された英大手銀行HSBCの口座
前出のエリーさんと話していると気になることを漏らした。英大手銀行HSBCの銀行口座が凍結される恐れがあるため、香港脱出者はお金を他の銀行に移し始めているというのだ。
英国港僑協会のチェン氏が背景を解説してくれた。昨年12月、香港警察は渡英した民主派の許智峯前香港立法会(議会)議員と家族の口座を凍結するようHSBCに要請し、HSBCはこれに応じた。「容疑はマネーロンダリング(資金洗浄)だが、政治的な動機に基づいているのは明らか」とチェン氏は言う。
資産が凍結され、廃刊に追い込まれた香港紙・蘋果日報(アップル・デイリー)が発行した最後の新聞を手にチェン氏は「住居から仕事、教育まで問題はたくさんある。しかしイギリスではコロナ規制が解除され、経済が正常化されたら、賃貸住宅に入居しやすくなる。購買力が戻ってくれば仕事も見つけやすくなるだろう」と希望を抱く。
香港脱出者にはBNOビザがあるものの、中国の習近平国家主席の「戦狼外交」が生み出した「政治難民」だと筆者の目には映った。
「難民の移行期は困難を伴う。しかし難民はイギリスに来くれば安全を確保できるが、香港脱出者の場合、国安法が国境を越えて追いかけてくる。政治的緊張はこれからも増す恐れがある。そうした不安を和らげてやる必要がある」。チェン氏は英国港僑協会を通じて定住、英語学習、メンタルヘルス、履歴書の書き方など就労、教育を支援していくという。
英作家ジョージ・オーウェルがディストピアSF小説『1984年』で描いた「ビッグ・ブラザー」が支配する世界が私たちの目の前で蘇りつつある。言論と表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由は完全に抹殺される。秘密警察とテクノロジーによる監視と同僚や友人、家族の密告を恐れなければならない「自由なき世界」が扉を開けたのだ。