「企業は救いの手を差し伸べない。差し伸べさせてはいけない」 - 赤木智弘
※この記事は2017年04月02日にBLOGOSで公開されたものです
多くの旅行者がまだ旅行を続ける中、突然の事業停止が発表された旅行会社「てるみくらぶ」。
旅行者たちが現地でホテル代の支払いを求められたり、帰りの交通を心配して右往左往する中、日本国内にもこの倒産で途方に暮れる人達が居た。それはてるみくらぶに就職内定をもらい、4月からの勤務に備えて一人暮らしを始めるなどしていた人達である。
報じられるところによると、てるみくらぶ内定者は約50人。彼らは3月27日に内定取り消しを通知されたという。
そうした中、困った人達を見かねたのか、内定者を無試験、無選考で受け入れるという企業がいくつか現れた。(*1)
また、JATA(日本旅行業協会)が、4月8日に内定取り消し者を対象にマッチングセミナーを行うと発表した。(*2)
こうした企業の動きを「救いの手」として絶賛する人達がいる。確かに、4月という数日後の就職を失ってしまい、期待される給料が得られないという立場に陥ってしまった人達にとって、こうした企業は救いの神に見えるのかもしれない。
もちろん、今回名乗りを挙げた企業さんたちは、それはもう立派な企業で、労働基準法の違反なんて1つもなく、すべての社員が心から「この会社に勤めてよかった」と感謝するような、真っ白なステキな企業であることは間違いないと僕は絶対に100%完璧に一点の疑いもなく、そう思っている。
しかし、もし、よしんば、仮に、ひょっとしたら、そうした素晴らしい企業の中紛れて、ホイホイ入ってきた人に恩を売って、過労死するまで使い潰すブラック企業が紛れていたら、それを内定を失った人達が見抜くすべはあるだろうか?
突然内定を失った人たちは、まだ混乱しているはずだ。突然船が割れて溺れている状態と同じである。そこで掴んだ救いの手の持ち主が、助けた瞬間に「命を助けてやったお礼に一生、俺の奴隷になれ。嫌ならまた海に叩き落とすぞ!」などといい出せば、溺れた人にそれを断る術はないだろう。
そもそも、就業というのはあくまでも会社と労働者の契約にすぎない。
本来であれば、会社は労働者を守る必要もなく、労働者は会社に忠誠を誓う必要もない。しかし企業が労働者を雇うことを「救いの手」だと認識してしまえば、労働者は命の恩人である会社に忠誠を誓うしかない。これは労使間における極めて不健全な関係性であるといえる。
本来、内定の消失だけにとどまらず、数多くの失業などといった問題が起きた時に、救いの手を差し伸べるのは国や行政の役割だ。
そしてその救いの手とは生活保護などの受給者の権利によって実現するべきものであり、決して仕事そのものを与えることではない。今回の事態を受けて、ハローワークが特別相談窓口を設置(*3)しているようだが、そもそもすぐにでも仕事が必要な人はてるみくらぶ内定者だけではないのだし、そんなことをしている暇があったら、求人票を信用して面接に行ったら、全く異なる劣悪な条件で雇用されるような問題を先にどうにかしたらどうだろうか。ハローワークがブラック企業の窓口になっているというのはよく聞く話である。
閑話休題。ともかく、仕事そのものを即座に与えようとするのでは、内定を失った人たちは冷静に仕事を選別することができない。そしてそもそも、企業は多くの正社員を年ごとの一括採用でしか取らないという現実がある。今の時期に正社員の枠が残っている企業は極めて少なく、今、就職先を決めることは、内定者にとっては選択肢が狭い中で、極めて不利な条件での就業を強要することに他ならない。
それならば、内定を失った人が、生活保護を受けたりアルバイトなどをしながら、しっかりと頭を切り替えて、また1年間の就職活動に勤しむことができる環境を国が与えることこそ本当の「救いの手」である。
そうした意味で、未だてるみくらぶ内定者に救いの手など差し伸べられていないし、今後とも差し伸べられることはないだろう。
仕事はあくまでも企業と労働者の契約であり、それそのものが「救いの手」と認識されるような国であってはならない。契約を「救いの手」と呼ぶことは、企業へ従業員の生殺与奪権を与えることを肯定することに他ならず、国民の生活が法の元に守られる、まっとうな法治国家の否定であると言えよう。
*1:「てるみくらぶ」内定取り消し50人 アディーレ、JSS、JALFが「無試験で採用」(J-CASTニュース)
*2:日本旅行業協会、「てるみくらぶ」内定取消の学生と旅行業界とのマッチングセミナーを4月8日実施(Impress Watch)
*3:株式会社てるみくらぶの内定取消者相談窓口のご案内(厚生労働省)