※この記事は2017年04月01日にBLOGOSで公開されたものです

実家が引越しをした。父はもう亡くなっていて、僕と弟は東京に出ているので、実家は今、母と妹の二人暮らし。女手では大変だろうと手伝いに行ったら、すべての家具の配置を終えた一番最後に、テレビの置き場所を決めていた。これがとても印象的だった。

従来の感覚からいうと、テレビは一番最初に置き場所を決められていたアイテムだ。だいたいどこの家庭でも、まずテレビがリビングの一番目立つところに置かれ、それからソファや他の家具の配置が決められていった。「いつも自分はソファで寝転がってテレビを観るだろう」と考えるからそのような順序で配置するわけで、メインとなる生活スタイルと配置の優先度は非常に密接な関係がある。それが今や、ちょっとしたティーテーブルよりも後にテレビの配置が決められているだなんて…。最近の一人暮らしの家にはテレビがないと聞いて久しいが、実家レベルでさえもその存在感を薄めつつあることに衝撃を受けた。

テレビが壁掛けになって、場所を選ばなくなった。だから配置は後で考えればよい、ということもあるのだろう。しかし、あっけらかんと「音さえ聴こえてればいいから」と言う60代の母は、まるでテレビをラジオ扱いしているかのようで、なんだか斬新な感覚のように思えた。結果的に実家では、ダイニングの壁の片隅に小さめの壁掛けテレビが配置され、町場の食堂のような雰囲気になった。毎日、仕事から帰ってきた母と妹はそこから流れる音声をBGMに、テレビのないリビングでそれぞれスマホをいじっている。こうして新しい実家では、脈々と続いてきたいわゆる昭和の“お茶の間”が消えてしまうこととなった。

まだテレビがなかった時代の日本映画なんかを観てみると、リビングのわりといい場所にラジオが置かれていることに気づく。しかし、1950年代から60年代にかけて、そのリビングの一等地はテレビが取って代わるようになり、一方のラジオはそこから退場。部屋の片隅へと追いやられていった。そこからしばらくテレビの覇権時代は続き、00年代に入って薄型&大画面化して、ますますその存在感をリビングで高めることとなる。

ちょうどその頃、テレビ雑誌の編集者として、大画面化するといったいどういう視聴スタイルになるんだろうと、思い切って60インチのプラズマを買ってみたことがあった。ところが興味深いことに、だんだんテレビを見なくなるという結果になってしまった。まだスマホ前のガラケー時代の話である。

理由は明白だ。テロップやスタジオがギラギラしすぎていて、画面から感じる圧が高すぎるからだ(それに電気代も高い!)。テレビを点けるやいなや、パチンコ店に放り込まれたかのような気分になるし、友人を自宅に招いてもその存在感に圧倒されて会話がなくなって、居心地のいい生活空間ではなくなってしまう。あの色数の多いデザイン、明るすぎる照明。あの画面圧は20インチそこそこのブラウン管サイズなら程よいのであって(実際に、YouTubeなどの小画面で観てみるとちょうどいい感じがする)、大画面だと自己主張が強すぎる。つまり、テレビの作り方自体が、ブラウン管時代の感覚から変わっていないということなのだ。

小さいときは派手に、大きくなったら地味に。時代を問わずこのバランスが重要だと思うのだが、業界が硬直していて作り手が昭和の時代から変わっていないのだろうか? いろんな装飾にそれぞれの利権とまでは言わないものの、食い扶持があって、変えられない事情でもあるのだろうか?などといろいろ勘ぐってしまう。しかし、相も変わらず引き算をせずに、今まで通りの足す一方だったら、それこそ我が実家のように小さなテレビが選択され、部屋の片隅に追いやられてしまうだろう。それはきっとテレビ業界にとって広告収入の減少を意味することになると思うし、それ以上に、テレビにはそれぞれの家庭にある生態系を崩す存在であってほしくない。

僕に子供ができて、その新しい実家で育てたとしたら、その子の知るテレビという存在は、きっと我々の知るテレビとは違うものになるはずだ。それがどんなところに置かれて、どんな大きさで、周りにはどんなものがあって、どんな観られ方をしているのか。刻々と変わり続けるテレビと視聴者の関係性にもっと配慮して、生活と調和できるテレビ作りに期待したい。