震災後初めて髪を切った美容師の気持ちは?岩手県釜石・妻を亡くした男の6年目 - 渋井哲也
※この記事は2017年03月15日にBLOGOSで公開されたものです
東日本大震災で津波が発生したとき、岩手県釜石市の鵜住居地区防災センターには200人を超える避難者が集まっていた。しかし、津波は防災センターをも飲み込んだ。その中に、美容師・片桐浩一さん(47)の妻、理香子さん(当時31)もいた。
新婚生活も間もない中、お腹には、4月に出産予定だった子どももいた。浩一さんの語りを中心に、防災センターで起きたことは、拙著「命を救えなかった: 釜石・鵜住居防災センターの悲劇」(第三書館)で記している。今年の3月11日は7回忌。片桐さんが美容室を初めて20周年でもある。翌日開いたイベントで、「あの日のままでいたい」と言っていた片桐さんが震災後初めて髪を切った。心境にどんな変化があったのだろうか。
釜石市は岩手県の三陸沿岸南部に位置する。3月12日、浩一さんは市内の釜石PITで、自身の美容室の20周年イベントをしていた。このイベント内で、震災をきっかけにつながったアーティストや格闘技家が浩一さんの髪を切ったのだ。その直前、「やっぱり、切らないという選択はあるのか?」と意地悪な質問をした。すると、浩一さんは真剣な表情でこう答えた。
「(切らないほうがいいかも?と)揺れているのは5%くらい。でも、こうしたイベントを開く形で背中を押されるのも一つではないか。切ったあとはどうなるのか。生き方が変わるのか。切って見ないとわからない」
20年前の1997年3月11日、浩一さんは釜石保健所から「美容所開設検査確認証」を発行された。つまり、美容室の営業許可を取ったのだ。「所在地」にあるのは、震災時までの住所だ。
「日にちのところ....。何かあるのかな」
美容室開設の許可が下りたのが、偶然、震災発生日と同じ日付だ。なにか因縁めいたものを浩一さんは感じていた。数日前、浩一さんは、自身の髪の毛の長さをTwitterにアップした。この髪を切るぞという宣言のようにも感じた。
震災から6年目の3月11日。亡くなった理香子さんと、お腹の中にいた子どもの7回忌を迎えていた。これまで、妻子を守れなかったと感じていた浩一さんは「あの日のままでいたい」とずっと考えていた。もちろん、あの日とは’11年3月11日。東日本大震災が発生した日だ。そのため、髪を切らないでいた。
髪を切らない理由について、かつて私の取材に対して、「自分の中でけじめがつかない」といい、また、「妻は、苦しみながら亡くなったと思う。でも、自分はその苦しみをしならい。それでいいのか」などと自問自答していた。そのため、震災当日の自分のままでいたかったのだ。
しかし、浩一さんは「周囲の復興のムードとギャップを感じてきた」という。釜石市内では復興工事が行われ、復興公営住宅も建ち、新しい店もオープンしている。そうした復興ムードとの違和感を抱いた。そのため、7回忌に、髪を切る決意をした。
「自分自身がお客さんの髪を切る仕事。自分が切らないでいいのか」という思いもあった。「髪を切ることは、過去を断ち切るという意味もある。自分が断ち切れていないということは、お客さんに失礼かな。あまりにも女々しいのかな、本気で仕事をしないといけない」という気持ちもあった。
会場となった、釜石PITは震災後に新しく開いた店舗の近くにある。そばには、やはり震災後にオープンした「イオンタウン釜石」や「ミッフィーカフェかまいし」がある。震災前後の風景とは大きく変わった。そこで、震災をきっかけにつながったアーティストや格闘技家たち、そしてそのファンたちがこの日のために集まった。もちろん、片桐さんを震災前から知る人もいた。
避難場所ではない防災センターになぜ逃げたのか
理香子さんが亡くなったのは釜石市鵜住居地区防災センターだ。鵜住居地区は市の中心部から北側に位置する。防災センターはJR山田線鵜住居駅の近くに立っていた。震災当時、理香子さんはセンター隣りの市立鵜住居幼稚園の臨時職員だった。
防災センターができたのは震災の一年前、'10年2月1日。同29日にチリ地震津波が発生した。そのときに34人が避難していた。防災センターは津波発生時の「津波避難所」ではない。災害の規模などに応じて開設し、中長期に避難生活をする「拠点避難所」だ。防災センター周辺の地域の津波避難場所は、徒歩で5~10分ほどの距離にある鵜住神社の境内だ。
しかし、地域では、避難訓練の参加率をあげるために、仮の避難所として防災センターを使っていた。そのため、地域ではいつしか“避難所”と意識づけられた。10年5月の避難訓練では68人、8月の避難訓練では130人、’11年3月3日の「津波の日」(昭和三陸津波の日)の訓練では101人が参加していた。震災の2日前の三陸沖地震のときも4人が避難した。
ただし、チリ地震津波のとき、防災センター内にある「生活応援センター」の所長が庁内メール連絡で、
「鵜住居センターは浸水地区内にあり、本当に大きな津波が来れば逃げなければないこと。したがって津波避難所に指定されていないが、今回は2階を使って避難者を受 け容れたがこれで良いか?」と送信している。しかし、この問題提起はスルーされ、検討されなかった。実践を想定し、庁内で防災センターへの避難を疑問に持った人がいたにもかかわらず、なぜ検討されなかったのか。震災後に作成された「釜石市鵜住居地区防災センターにおける東日本大震災津波被災調査報告書」では詳細には触れられていない。
そんな中で、’11年3月11日を迎えていた。地震が発生した14時46分、「預かり保育」で残っていた園児4人とともに園庭に避難した。そこで理香子さんが4人の園児をかばうようにしていた姿が目撃されている。
その後、14時49分、大津波警報が発令された。4人のうち2人の園児は保護者が迎えにきていた。15時14分、予想される津波の高さは6メートル、31分には10メートル以上、と次々と切り替わっていた。その間、消防関係者に「こっちへ」と誘導されて、園児2人とともにセンター2階に避難した。園児は奇跡的に助かったが、理香子さんは津波にのまれた。
産休手前だった理香子さん 市教委は訓練を指導せず
妊娠していた理香子さんだが、お腹の子のは、震災が起きた週の月曜日だった3月7日、性別が「女」とわかった。浩一さんが「陽彩芽(ひいめ)」と名付けたばかりだった。予定通りなら、12日から産休で、出産予定日は4月23日。いわば、出産前の最後の出勤だった。
前出の「調査報告書」は地域住民を対象にしたものだ。それによると、少なくとも地域住民248人が防災センターに避難している。しかし、あくまで住民対象の調査だ。この調査では幼稚園の避難行動は対象外になっている。同じく、地域外の人たちが同センターに避難しているが、その人たちの行動も対象にはなってない。
ちなみに、避難者の中には、学校にいた子どもたちに犠牲者が少なかったことで「釜石の奇跡」と称され、その代表的な扱いになった釜石東中の生徒も含まれていた。当日、風邪で休んでいたため、病院から自宅に帰る途中で防災センターに避難したと言われている。
もちろん、幼稚園でも津波想定の避難訓練をしていた。市教委によると、避難訓練は年3回行う。そのうち、津波想定は一回行われた。しかし、園は市教委には訓練内容を報告したが、点検・指導はなかった。この地域では、鵜住居小学校や釜石東中学校が、津波避難訓練で高台に走るなどを繰り返していた。学校にいた児童・生徒たちは助かっている。鵜住居保育園も高台に避難する訓練をしており、当日も訓練通りに避難できた。なぜ幼稚園だけが....と思うと悔やまれる。
6年目を前にセンター跡地に立つ浩一さん
一方、震災当日、浩一さんは市街地にある美容室で仕事をしていた。地震があったときに、従業員を自宅に返した。浩一さんも帰ろうとして外に出ると、津波が見えた。必死に「釜石のぞみ病院」に避難した。「理香子は大丈夫だ」と思っていた。子どもを守る仕事に従事していたことが最大の理由だ。しかし、理香子さんは津波にのまれ、6日目の朝に遺体で発見された。
震災後、浩一さんは仕事が休みの毎週月曜日に、幼稚園やセンターに理香子さんの遺品を探したり、手を合わせるために通っていた。財布がなかなか見つからずに、友人や知人らに呼びかけて、幼稚園の掃除をかねて、探したこともある。’13年3月、幼稚園の園舎が解体された。同年12月、防災センターも解体された。それまで、浩一さんらは、震災遺構として残して欲しいと言っていたが、地区住民からは解体の声が大きく、市は解体を決めた。ただ、センター跡地には「メモリアルパーク」が作られることになっている。
2月に取材したとき、浩一さんとはセンター跡地で待ち合わせた。震災後の風景とはまったく違うが、「このあたりだろう」とあてをつけた。まだ取り壊されていない建物と、山並みなどを位置関係から推定した。何度も訪れた場所なので、周囲の風景も覚えていた。当初のころは、「この場所にくれば会えるような気がする」と言っていた。しかし、月日が経ったためか、センターがないためか、「もう何も感じない。ここにはいない」と漏らしていた。
「切らなきゃよかったという後悔はない」
壇上で浩一さんの断髪式が始まった。アーティストや格闘技家が囲み、浩一さんの長い髪にハサミを入れた。70センチくらいだろうか。長い髪をばっさりと切り落とした。浩一さんは苦笑いを見せた。
髪を切り落としたあと、浩一さんは清々しい表情をしていた。
「重かったね。背負っているものが重かったのかもしれない。ここまでしないと、新たな一歩を踏み出せなかったのかも。ここまでいくと踏み出すしかない。(切るために)髪を持たれたときの力は強かったし、すごい思いがある。切られているというのはこういう感じなんだな。おれの仕事(美容師)って、すごいじゃん、と思った。髪ってすごいな。(切る行為は)そんなに人の気持ちを変えられるんだなあ」
髪を切るというのは、過去を切り落とすという意味だと言っていたが、
「新たな思いがある。それを(亡くなった)嫁と子どもと3人で作って行くんだなと思った。それは俺だけの中で存在する。なかった感じにはならなかった。髪を切ったら、過去がなくなるのか?と思ったら、そうではなかった。髪を切ったことで、すごい化学反応が起きている。切らなきゃよかったという後悔はない。ただ、いまは切った直後。その後はどうなるのかわからない」
と話していた。
今後はどう生きて行くのか。
「仕事に向いて行くだろう。自分は美容師をしていて、お客さんの髪を切っている。髪を切るのは、ときとして過去を断ち切ることを意味する。しかし、自分は切れてない。そんなんでいいのか、思っていた。お客さんに失礼かな?あまりにも女々しいかな?もしかすると、これも自分自身の中での風化なのかもしれない。でも、(妻と子どもに対しての)自分自身の向き合い方は変わらない。震災があって、家族を失った。でも、美容室は続いている。生き方が変わるわけではない」