※この記事は2017年03月12日にBLOGOSで公開されたものです

冬の厳しい寒さも和らぎ、春に向けて徐々にぽかぽかした天気になりつつある今日このごろではあるが、早くも夏に向けて1つの重大な問題が提起されている。それは学校教育における水泳の飛び込み事故という問題である。

今報じられている事故例で言うと、鳥取県内の町立小学校で昨年7月、12歳の女児がフラフープを利用したプールの飛び込みの課外授業を受けていた際に、プールの底に頭を強くぶつけ、今もしびれが残る状態となってしまった。

指導の中では教員が、今回事故にあった生徒とは別の飛び込みが下手な生徒に対して「腹打ち三銃士」「腹打ち女王」などと貶すような呼称をしていたことも発覚しているという。(*1)

今回は鳥取県での事故事例そのものを論じるのではなく、学校教育における水泳の授業での飛び込みの是非という話をしたいので、まずはいったどの程度の事故が起きているかということについて把握しておきたい。

名古屋大学の内田良准教授の調べによると、1983-2013年度の過去31年間に、全国で後遺障害を負った事故が合計で169件起きているという。だいたい1年に5件強発生している計算だ。(*2)

この数字はあくまでも障害が残った件数なので、運良く障害が残らなかった事故はもっとたくさん発生していることを意識するべきであろう。

こうした事故が続いていることに対して、東京新聞はソウルオリンピック背泳ぎの金メダリストである、スポーツ庁長官、鈴木大地氏にインタビューを行っている。(*3)

僕はこのインタビューを読んで、この問題についてはいくつかの問題が絡み合っていると感じた。

まずは「物理的な問題を指導という個人的要素で解決しようとする考え方」という問題だ。

鈴木長官は水深が浅いというプールの構図上の問題を把握している。にも関わらず「指導法が問題で、質の高い教員を採用することが大切」という認識を示す。

物理的な問題を人間の努力で補おうとするのは、日本人の美徳と言われるが、僕はまったくそうとは思わない。そこにあるのは、本来は責任を負うべき高い地位にある人間が、その責任を末端に押し付ける恥ずべき姿勢である。

個別の事故を事故を抑止する責任は現場の体育教師ではなく、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などという戦時のプロパガンダは、実際に事故が発生しているという現実の前には無力だ。

鈴木長官はスポーツ庁長官という極めて高い地位にあり、当然これまで発生してきた数多くの飛び込み事故に対応する責任を負っている。そういう人間が「質の高い教員が、質の高い指導をすればいい」というのは僕には無責任にすぎると感じられる。ならばそもそも「どのようにして質の高い教員を全国の学校に配置するか」ということを論じるのが、スポーツ庁長官としての責務であろう。

しかし仮にスポーツ庁が「全国の学校に質の高い教員を」と太鼓を叩いたところで、飛び込みが苦手な子が最初から上手に飛び込みできるようになるはずもない。学校には運動神経がいい子供だけが入ってくるわけではない。毎年必ず数人は「なんで?」というくらいに、運動神経がない生徒も入ってくる。

そうした子供たちを指導で上手にさせるには、何度も失敗させて、体の動かし方を覚えていってもらうしかない。ならば結局、飛び込みを教えるのであれば、飛び込みを失敗しても頭を打たないような深いプールを用意するしかないではないか。

しかし、プールが深ければ、飛び込みは安全になるかもしれないが、溺れる危険性が増える。子供たちの安全を守るためにも、主に子供が使うプールが浅いことが必然であるといえる。飛び込みの危険性と、溺れる危険性は、どうしたってトレードオフの関係にあるのである。ならば、水泳教育上、さほど重要ではないと思われる飛び込みを一律禁止にしようという結論に至るのは当然のことではないだろうか。

次に「学校で教育されるべき水泳とはなにか」という問題もある。

鈴木長官は飛び込みの禁止に対して「水泳はできないと、いざというとき生命の危険にさらされる。「水辺は怖いから近づかない」「飛び込みは危ないから全面禁止」では、もやしっ子を育てることになる」と述べている。

しかしこれはいささか乱暴すぎる論理展開ではないかと思う。

まず、飛び込みができないことは水泳ができないことではない。飛び込みは水泳の一部分ではあっても水泳そのものではない。

さらに、飛び込みの禁止ということに対して「水辺は怖いから近づかない」という言葉が全くつながらない。飛び込みの禁止は水泳や水遊びの全否定ではない。

それと、水泳ができないと命の危険にさらされるというが、それは本当にそうだろうか?

学校教育における水泳は、特に災害対応としての水泳を志しているわけではない。水流のないプールで水泳に適した格好に着替えて泳いでいるのだから、それはスポーツの初歩としての水泳である。災害時にわざわざ海パンに着替えて水泳をする人はいないだろう。

一方で、災害時に必要な水泳は着衣水泳である。服が水に濡れて体が動かしにくい中でも、余り力を使わず、楽に泳げる方法を学ぶことが重要だ。そのためには平泳ぎくらいは学ぶべきだが、クロールや背泳ぎは必要ない。

そしてそもそも災害時に頭から飛び込む必要性など全くない。「頭から飛び込まなくては命の危険が高い」などという災害状況とはどういうものなのだろうか。鈴木長官に説明していただきたい。

「頭からの飛び込みは水泳教育上、さほど重要ではない」と先に述べたことにもつながるのだが、そもそも、なぜ飛び込みがさほど重要ではないと考えられるか。それは飛び込みというものが「タイムを縮めるための技能」だからである。

飛び込み台から飛び込み、水の抵抗をなるべく受けないようにして、自然とクロールなり平泳ぎなりの泳ぎ方に移る。それは競技会などで少しでもタイムを削るために必要な技能ではある。

しかし、小学校の体育において25m走でタイムが大切だというのは分かるが、水泳のタイムはそれほど重要だろうか。それよりも25m泳ぎきれるとか、ゆっくりでも沈まずに、正しい姿勢で泳ぎ続けるとか、そうした技能のほうが、災害を引き合いに持ち出すのであれば、より重要ではないだろうか。

特にタイムを需要視しなければ、水に入ってプールの側面を蹴ってスタートすればいい。災害時に飛び込む必要があるなら、深そうなところを見つけてお尻からジャンプで入ればいい。もやしっ子ではない昔の子供だって、そうやって海や川に飛び込んでいたはずだ。

他の部分でも鈴木長官は「なんでもかんでも危険だからと全面禁止」などと飛び込み問題について述べているが、根本的な部分で勘違いをしているのではないか。

飛び込みを禁止するべきではと主張している人たちは、別に水泳の授業を禁止しろとか、学校からプールをなくせなどとは言っていない。「なんでもかんでも「なんでもかんでも禁止だ」と言っておけば批判を回避できる」と思うのは、あまりにも問題を軽視しすぎている。

小学校など、幼い子供に対する飛び込み指導を禁止してほしいという要望は、決して「なんでもかんでも禁止」などという狭い了見で主張されているわけではない。実際に長年に渡って年に5件強の後遺障害事件が発生しているという負の実績が存在するからである。そしてその実績は頭からの飛び込みを禁止しない限り積み上がっていくであろうことは間違いがないのである。

年に5人以上の後遺障害事故という、子供ひとりの人生を台無しにしかねない犠牲を払い続けてまで、頭からのプールへの飛び込みを禁止しない理由は、一体どこにあるのだろうか。その点を鈴木長官には明確に説明してもらいたかった。

*1:飛び込み苦手児童「腹打ち三銃士」 プール事故時の教諭 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
*2:くり返されるプール飛び込み事故 底に激突 頭頸部の重度障害 まずは保健体育の指導の見直しから(Yahoo!ニュース個人 内田良)
*3:<ストップ プール事故>「飛び込み禁止 どうなのか」 鈴木大地・スポーツ庁長官(東京新聞)