近代経済学の父と言われるアダム・スミスだが、その評価は二分している(写真: kevinj/Getty Images)

格差拡大やグローバル化などさまざまな課題に直面する現代の経済社会において改めて注目されているのが、人間への深い洞察に満ちた「近代経済学の父」アダム・スミスの思想の持つ普遍的価値である。にもかかわらず、アダム・スミスが誤解されやすいのはなぜなのか。イギリスの現役国会議員で研究者でもあるジェシー・ノーマンの著書『アダム・スミス 共感の経済学』から一部を抜粋・編集してその理由を考察する。

「最も理解されていない思想家」

今日アダム・スミスを持ち出すと、往々にして正反対の反応を引き起こすことになる。とくに1980年代以降、スミスは経済学、市場、社会を巡るイデオロギー的な論争の中心人物となった感がある。

政治的に右寄りの人にとっては、アダム・スミスは近代の礎を築いた人物であり、経済学者中の経済学者だ。共産主義と社会主義のユートピア幻想から覚醒した世界にあって、個人の自由の雄弁な擁護者であると同時に、国家の介入に対する頑強な反対者でもある。

一方、左寄りの人にとってのアダム・スミス像はかなりちがう。いわゆる市場原理主義の元祖であって、その著作は、ジャーナリストのナオミ・クラインに言わせれば、「現代資本主義の教科書」だ。世界を蝕み、人間的価値の根源を脅かす物質主義イデオロギーの提唱者であると同時に、富と不平等と利己心の擁護者であり、おまけに女嫌いということになる。

とはいえ、1つたしかなことがある。経済学者と経済学がかつてない影響力を持つこの時代にあって、これまでに存在した中で最も影響力のある経済学者はアダム・スミスだということである。無作為抽出した経済学者299人を対象に、2011年に行われた調査によると、引用回数でスミスは他を断然引き離しての1位だった。スミスの221回に対して、2位のケインズは134回である。

しかもスミスの場合、学問的な評判は経済学界にとどまらない。主に英語で書かれた学術雑誌の総合データベースJSTOR(ジェイストア)を使って1930〜2005年に発行された雑誌全文の詳細分析をしたところ、スミスは経済分野における「偉人」として引用される例がきわめて多いことがわかった。最新の合計では、「偉人」と表現された回数はマルクス、マーシャル、ケインズを足し合わせたよりも多く、且つ現代の経済学者の合計の3倍を上回ったのである。

アダム・スミスの思想は幅広い分野にまたがっているだけに、その影響も広範だ。過去2世紀にわたり、哲学から政治学、社会学まで多くの偉大な思想家にスミスの何らかの痕跡が認められる。

たとえばエドマンド・バーク、イマヌエル・カント、G・W・F・ヘーゲル、カール・マルクス、マックス・ウェーバー、フリードリヒ・ハイエク、タルコット・パーソンズ、ジョン・ロールズ、ユルゲン・ハーバーマス、そして最近ではアマルティア・センがそうだ。

よい税金に関するスミスの4つの格言は世界の税制の基本となっているし、あの有名な「見えざる手」は講演やメディアのそこここに登場する。またアダム・スミスの名を冠した機関、専門誌、ソサエティの類いが世界中にあり、プーシキンの小説の中ではエフゲニ・オネーギンもスミスを勉強している。イギリスでは20ポンド紙幣の裏面に長らくアダム・スミスの横顔が使われてきた。

だが称賛や批判とは別に、並ぶ者のないスミスの名声を自分に都合のいいように援用する例が後を絶たない。

現代を予見!? 伝説化されるスミス

スミスの残した知的偉業があまりに豊かで、多面的で、引用しやすいがために、多くの人がむやみに引用したくなったり、都合のいいようにねじ曲げて解釈したくなったりするのだろう。

実際、最大限の拡大解釈をすれば、スミスは現代の出来事を驚異的な精度で予見していたと読めなくもない。たとえば、「セレブリティ・ポリティクス」の台頭がそうだ。情報技術の発達と金持ちや権力者を称賛する人間の気質とが結びつき、そこに互いに共感しやすい傾向が加われば、有名人の政治家が誕生しても不思議ではないが、なんとスミスは『道徳感情論』の中で技術についても気質についても論じているのである。

もう一例挙げるなら、イギリスが欧州連合(EU)から離脱する可能性も、そうだ。スミスはアメリカ植民地について論じた箇所で、イギリスは厳然たる二者択一を迫られると述べた。

アメリカときっぱり縁を切るか、帝国の連合を形成するか、いずれを選ぶにしても主権は最終的にはアメリカに移り、それに伴って政府の所在もアメリカになることは避けられないという。これ以外にもたくさんの例を挙げることが可能だ。

なぜか一面だけ捉えられがち

こうした過剰な引用や解釈の結果、誇張され、歪曲されたアダム・スミス像が拵え上げられ、さまざまな伝説がまことしやかに伝えられている。この種の神話まがいの伝説はスミス本人についてはほとんど何も語らず、話し手の関心の対象を雄弁に語るだけだ。

スミスの解釈や研究でも同じパターンが見受けられる。たとえば19〜20世紀の自由貿易の問題を論じるときや、近年の行きすぎた専門化、とくに数学との関連が強くなった経済学の方向性を問題にするときなどには、「経済のスミス」、すなわち『国富論』の著者であるスミスにフォーカスする。

この場合、ひょっとすると「政治のスミス」と呼んでよいかもしれない存在、具体的には権力、財産、統治の相互作用や商業社会の性格と影響を『国富論』と未発表の『法学講義』で論じたスミスや、「道徳のスミス」、すなわち道徳や社会規範が社会においてどのように形成され維持されるかについて驚くほど現代的な説明を『道徳感情論』の中で示したスミスは、脇に追いやられてしまう。

スミスの一面だけを都合よく取り上げる姿勢は、経済学者にも見られる。ミルトン・フリードマン(編集部注:マネタリズムを主唱した新自由主義を代表する経済学者)は、ノーベル経済学賞をとったばかりの1977年に「アダム・スミスの今日的意義」と題する著名な論文をチャレンジ誌に発表した。

フリードマンから見たアダム・スミスは、あの時代としては「過激で革命的」だった──当時のフリードマン自身と同じである。スミスは社会の「規制が多すぎる」と感じており、従って政府の干渉に反対だったが、これもまたフリードマンに通じる。

さらにスミスの「見えざる手の原理」は、人間の同情は当てにならず、限りがあるせいで出し惜しみされるのに対し、自由市場は幸福の創出に寄与するという見方の表れだという。スミスの長い学究生活はこうした思想の追究に捧げられたのだが、これもまさにフリードマン自身と重なる。

だがこうした基本的な考察を示したところまではよかったが、フリードマンはここで困難に突き当たる。というのも、スミスはいま挙げたことと矛盾するように見える主張もしているからだ。

この点は否定できないとフリードマンは認める。たとえば金利に上限を設けるべきだと主張したし、国家にはある種の公共事業を実施し公的機関を運営する義務があるとも述べた。そこにはおそらく道路、橋梁、運河建設や学校運営が含まれるだろう。だがこうした主張はスミスの本質とは異なる瑕疵であって、全体の評価を押し下げるには当たらないとフリードマンはいう。

フリードマンは的外れ

(だが)フリードマンの主張の多くはまるきり的外れなのである。アダム・スミスは過激ではないし、革命家を自認していたわけでもない。それに、「規制が多すぎる」とも感じていなかった。この言葉が何を意味するにせよ、当時イギリスの植民地だったアメリカに該当しないことは間違いない。


さらに、見えざる手を「原理」であるなどとはつゆほども考えておらず、それどころか市場の働きを司る単一の原理があるとも考えていなかった。そもそもスミスは、市場がつねに人間の幸福に資するとも考えていなかった。さらに言えば、人間の同情や共感が本来的に限られているとか、だから出し惜しみする必要があるとも考えていなかったのである。

今日の世界では、先進国か発展途上国かを問わず、どの国も多くの経済的社会的課題に直面している。経済成長をいかに生み出しいかに維持するか、グローバル化と拡大する不平等の問題にどう取り組むか、歴史も社会的関心も宗教も異なるさまざまな社会同士が理解し合うにはどうすればいいのか……。

スミスの思想は、いまなおその大胆且つ明晰で単刀直入な着想と幅広い視野によって私たちを驚かせる。今日の世界が抱える課題に取り組むにあたっては、スミスの思想を広く深く理解することが欠かせない。スミスが何を考えたかだけでなく、なぜそれがいま重要なのかも理解し、彼の鋭い洞察を今日そして明日の問題に応用すべきだと強く感じる。

(ジェシー・ノーマン : イギリス下院議員)