作家・作詞家として活躍する高橋久美子さんによる暮らしのエッセー。東京と地元の愛媛で二拠点生活をしている久美子さんですが、今回は改めて一緒に暮らすことになった親との関係についてつづってくれました。

第65回「今から親と暮らすって…」

●40歳目前で実家を拠点にするのは珍しい?

前回、前々回と二拠点定住の暮らしについて書いてきた。現在、私は東京と実家のある愛媛での二拠点の生活を行っている。

先日、ESSEの同世代の編集者さんと話をしていたところ、

「拠点の一つをふるさとにするってすごい選択だと思います」

とおっしゃる。

「え! そんな珍しいことなんかな?」

確かに、二拠点で暮らし始めた友人たちも、ふるさとではない田舎を選んでいる。

「帰る人は、大学を卒業したあとすぐに地元で就職してますよね。ずっと東京で暮らしてきた人が40歳目前に実家に戻るってなかなかないと思いますよー」

おお…。言われるまで気が付かなかったが、けっこう面倒くさい道を選んでしまっているのだな、私。

まずは、親との面倒くささだと編集者さんは言う。子どもの頃のような、“親”と“子ども”という素直な関係ではいられない。酸いも甘いも経験し、互いに自我を持ったいい大人だ。しかも、20年以上離れて暮らしていたのだから、生活習慣や思想、大切にしていることだって、違ってきているだろう。互いにこだわりの半分は捨てなければ、ぶつかってしまうことは目に見えているのに親子だから言いすぎてしまうこともある。

 

●これからの親との関係で心がけること

私が心がけているのは、勝手にしないこと。「これ使っていい?」「今日のごはんはこれにする?」と迷ったら聞いてから行動する。後から来たのは私なのだから、自分の当たり前が父母の当たり前と思わないよう気をつけるようになった。

それから、分かりあえないことは、あまり追求しないこと。もう70歳にもなった親を説き伏せるなんて絶対に無理。言えば言うほど溝が大きくなるので、「へー。そうなんかー」くらいで聞き流す。突き詰めて討論する相手ではない。こちらが折れる寛大さを持つこと。今は親の方が子どもに戻りつつあるのだと思っておいた方がいい。

私は、農地がなければ実家には帰っていなかっただろう。子どもの頃から、祖父母や父母と米や野菜を作り、それを食べて成長した。畑や田んぼが自分の原風景だった。三姉妹で、一番遠くにいる私がなぜ帰らなくてはいけないのか。それは、私がこの土地を田畑のまま残したいと思ったからだ。この風景を残すには、父が元気な今、学ぶしかないと気づいた。

●私にとって親は師匠でもある

20年以上も別々に暮らしていた親と再び一緒に暮らせるのか…まだ未定だ。絶対にそうしなければいけないと、決断しすぎるとどんどんと自分を追い詰めてしまうので、動きながら無理なら新しい方法を考えればいい。別の家を借りるか建てるというのも考えたが、田舎の家はめちゃくちゃ広い。なんと我が家は11部屋もあり、民宿ができるほど大きいので、今のところ一人の空間を確保できる。

これはかなり重要なポイントかもしれない。自分の部屋が確保できないならば、他に家を借りていただろう。父とは畑でしか話さないもんなあ。互いのフィールドに踏み込まないのも大人共同生活のルールだと思う。

今はエネルギーが農業だけで精一杯なので、住まいのことを考えている時間がないというのもある。一日の時間は限られている。40歳にもなると体力だって限られていく。自分も親も無敵じゃないことが分かってきた今だからこそ、実家で暮らせるのかもしれない。父母の暮らしから学びたいことがあると気づいた。

師匠としてそこにリスペクトがあるのでやっていける。ある種、そのくらい淡々としたものだ。本やYouTubeでも、いくらでも農業や暮らしの知恵を学ぶことはできる。もちろん、それでいいとも思う。けれど、今になって父が当たり前に毎年育てている米の作り方や、母の味噌の味、そういうものを知りたいと思った。これは理屈ではない、本能的なことではないだろうか。祖父もその上の代の人達も守ってきた畑を続けてみたいという目的があるから、ここにいるのだ。

消去法で暮らしを選ぶよりも、ポジティブに何かに惹かれて移動する方が私はいいなあと思う。焦らないことだ。引き返したっていいのだから、覚悟は持ちつつもそのときそのときの気持ちに素直に進んでみよう。