わが子を奪った“不慮の事故”の真相を求め、父の無念が生んだ「ドライブレコーダー」
「あおり運転」が注目されるにつれ、急速な普及を見せるドライブレコーダー。きっかけは26年前。長男を亡くした事故の真相が知りたい―父親がその一心で取り組んだ、手探りでの開発にあった。目指すはドラレコの普及率100%。事故防止と、悲しみに暮れる遺族がいなくなる日を目指して。
【写真】当時、啓章さんが乗っていたバイク。車体が激しくゆがみ事故の大きさを物語る
父のバイクを借りて塾に出かけた息子
今から26年前の、1994年8月3日の夜─。
気象庁の記録によると、当時の横浜市の気温は27・4℃。蒸し暑い真夏の、22時を越えたころのことだった。
同市金沢区の丘の上にある住宅街の一室で、片瀬邦博さんがいぶかしげに時計を見上げた。原付バイクで塾に出かけた息子の啓章さん(当時19)が帰ってこない。19時半にはとっくに帰宅しているはずなのに。
そのころ片瀬さんは大手電機メーカー・東芝に勤務。技術者として半導体開発部門で活躍したのち、企業向けの営業を担当していた。
23時半をまわったときだったろうか、自宅の電話が鳴った。受話器を取った片瀬さんの耳に女性の声が飛び込んできた。
“磯子警察です”
運命のあの日のことを、片瀬さんが語り始める。
「(啓章さんの帰宅が)遅くなっていたんで、速度違反かなにかで捕まったのかと思ったんです。今でも覚えていますけど、“啓章が何かやりましたか?”と聞きました。すると女性が一瞬、言葉を詰まらせて、“お亡くなりになりました”と……」
啓章さんが乗っていた原付バイクは、実は片瀬さんの通勤用のものだった。残業続きの毎日、たまには家族みんなで夕食でも食べようと、片瀬さんは早めに帰宅した。
家に父のバイクがあるのを見た啓章さんは、それを拝借。塾への通学に初めてバイクを使ったまさにその日、アスファルトをフル積載したダンプカーに、後方から追突されたのだ。
“警察まで来てください”
女性の言葉に、片瀬さんは取るものも取りあえず、妻とともに家から20分ほどの場所にある磯子署へ向かった。
「隣に座った妻が“お父さん、慎重に運転して、慎重に運転して”と言い続けていたのを覚えています。あとは頭が真っ白で、覚えていません」
ずっとのちに、片瀬さんは会社の同僚から“本当はあの日、1杯飲もうと、帰りに誘おうと思っていたんだ”と聞いた。もしも誘ってもらえていたら……。早く帰ろうなんて思わなければ……。何度、そんな思いが脳裏をよぎったことかしれない。
近所に住む元・同僚にして親友の馬場敬さん(78)は、当時の片瀬さんの様子をこう証言する。
「啓章さんの妹の美奈ちゃんが家に来て“お兄ちゃんが亡くなった”って言うんです。何を言っているのか意味がわからなくて、“もう1回、言ってみて!”と。それでここ(片瀬さん宅)に来て。(片瀬さんは)がっくりしていましたね。そのあとも慰めなくちゃと何回か来ましたが、来るたびに繰り返し話していました。“慎重な息子がダンプの前に立つことなど絶対ない。私はそう信じる”と」
国土交通省が2019年に行った調査で、98・9%が「知っている」と回答したドライブレコーダー。実用化へ向けた道筋は、この不慮の事故から始まった。
「息子にも原因があるんじゃないの?」
茫然自失の体で磯子署に到着した片瀬さん夫妻を、署員たちが出迎えて事情説明を始めた。だが、早く息子に会いたいと焦る2人に、職員たちはなぜかはぐらかすかのような対応をした。
啓章さんの死因は、後方からダンプカーに追突されたあと、タイヤに巻き込まれたことによる顔面挫滅。救急車がその場で搬送をあきらめたほど遺体の状態は悲惨だった。磯子署の署員たちも、片瀬さん夫婦に遺体を見せるのを躊躇したという。
「写真は見せてくれたんですけど、横から写したものなんです。挫滅があるとはわからない。それで写真を見せてもらいながら“顔が腫れている”と言ったら、警察官は“う〜ん”とうなって、何の説明もなくて。今にして思えば、こちらへの配慮だったとわかるんですが……」
片瀬さんがわが子と対面できたのは、事故の翌朝、死体検案の場だった。
「そのときには、もう葬儀社の人の手で(遺体の)修復されていました。だから、われわれが見たときには、擦り傷やアザはひどかったけれど、鼻とか目はきれいで傷はついてはいませんでした」
啓章さんの死亡で、事故について証言できる当事者は、加害者であるダンプカー運転手のY氏のみ。Y氏が語った事故の概要は、以下のようだったという。
《自分が運転していたダンプカーの前に赤い車があって、ともに赤信号で停止した。信号が青に変わって赤い車が発進、自分も発進したところ、車の下からギーギーという音がした。何かと思ってドアを開けて下を見たら、(啓章さんのバイクの)ミラー等が転がっていた。それで初めて事故とわかった》
前方不注意は認めたものの、一方で《事故は啓章さんの割り込みが原因である》と証言したのだ。
父親である片瀬さんいわく、「クソまじめで正義感が強い」反面、「気が小さくて、思い切ったことがなかなかできない」性格だったという啓章さん。そんなわが子が、あの大きなダンプカーの前にバイクで割り込むことなどしただろうか……?
考え込むばかりの両親を置き去りにするように、5日に通夜、6日には葬儀と、時ばかりが駆け足で過ぎていく。
ダンプカー運転手の言葉は信用できないと繰り返す片瀬さんに、前出の親友・馬場さんがこう声をかけた。
「“ここでそんなことを言っていても解決しないよ!”と。“真実を知りたいのなら、プラカードでも立てて事故があった交差点にでも立ちなさい!”。そう言ったんです」
片瀬さんが言う。
「そのひと言を聞いて、事故現場である(横浜市磯子区)中原の交差点にプラカードを持って立ち、目撃者捜しを始めたんです。事故後、2週間目あたりのことでした」
馬場さんが振り返る。
「今になって思えば、むごいことを言ったものだと思います。でも片瀬くんがそれを実行してくれて。雨の日も風の日も、2か月間だったかな、ずーっと立っていた」
片瀬さんが事故からわずか2週間で目撃者捜しを始めた背景には、今も解消したとは言いがたい、捜査に対する被害者家族のやりきれない思いがあった。
“一体、何が起こったのか?”“真実が知りたい”。
遺族はそう思い続けている。しかし、警察に尋ねても詳しい話はしてくれない。
「被害者と加害者、どちらにもくみしないとはいいますが、保険会社などには、少しはリークしているものなんです。ところが、われわれ被害者には話してくれない。私に限らず当時は全国一律、被害者の家族はそうした状態だったんです」
事故から26年たった現在でも、片瀬さんには忘れられない光景がある。
啓章さんの事故には、実はたった1人、目撃者がいた。日本へ就労にやってきた、日本語も不自由なボリビア人女性で、事故の瞬間、反対車線側にある公衆電話で電話をしていた。そこから事故の様子を目撃していた。
「事故被害にあった当日のことです。警察署に行ったら、目撃者の彼女と私、加害者Yの雇い主の3人がいたんです。今でも覚えていますが、警察の事務机のところですよ。左側に彼女がいて、警察官が事情を聞いていた。その2人の横に雇い主がいる。そんな状況でヒヤリングをしているんですよ」
たまらず片瀬さんは注文をつけた。
「“雇い主は隣のやりとりが聞こえるじゃないか。あとで私にも、目撃者に話を聞かせてくれ”と。警察からは“はい、わかりました”と言われたけれど、私たちの聴取が終わるとすぐに、目撃者を帰してしまったんです」
片瀬さんが抗議すると、警察官からこんな言葉が返ってきた。
“息子さんにも悪いところがあったんじゃないのか? 加害者ばかりを責めることはできない─”。
事故が起きた1994年は、情報提供や相談といった犯罪被害者に必要な支援を定めた犯罪被害者等基本法が制定される10年前。片瀬さんら遺族への対応など、当時はその程度のものだったのだ。
「何があったのか、真実が知りたい」
8月のお盆のころから、片瀬さんの目撃者探しが始まった。初日は馬場さんも交差点で付き添った。当時の親友の様子を振り返って言う。
「僕が助かったのは、片瀬くんも奥さんも1粒も涙をこぼさなかったこと。気持ち的にはすごく落ち込んでいるのがわかるんだけど、もし泣かれていたら、返す言葉がなかったと思う」
片瀬さんが胸の前に抱えたプラカードには、“8月3日の夜10時20分ごろ、この交差点で交通事故がありました。見た人はいませんか?”という一文と連絡先があった。パチンコ店の店頭や銭湯、コンビニにも同じ内容の張り紙を貼り、電柱には針金でくくりつけた。
「目撃者捜しで街頭に立っていたら、ある人が“この奥に団地があるのを知っていますか? そこの住民は、この交差点を通って通勤しているんです”と教えてくれて。今だから言えますが(苦笑)、それで会社のコピー機で200枚ぐらいバーッとコピーを取って。かみさんと手分けしてポスティングもしました」
いつ連絡がくるかと、一日千秋の思いで待った。電話のベルが鳴るたび、“もしや……!?”と胸が高鳴る。事故を知った地元の人が現場に花を供えてくれたり、飲み物を差し入れてくれたり。見知らぬ人々の善意に片瀬さんは思わず胸を熱くしたが、目撃者が名乗り出ることはついになかった。
事故の翌年の'95年6月、ダンプカーを運転していたY氏へ、刑事裁判の判決が下された。結果は、免許取り消しと罰金わずか50万円─。
唯一の目撃者だった前述のボリビア人女性が、啓章さんのバイクがダンプの前に割り込んだと証言。バイク側の過失は8割、ダンプカー側は2割と判断されたがゆえの量刑だった。
「ですが、ダンプの真後ろに止まっていた乗用車の運転手さんの証言では、“ダンプの左側には駐車車両があってバイクが通るスペースはない。割り込んだとしたら右側からになりますが、その記憶はありません。見ていません”と言っているんです」
さらには、運転手(Y氏)を呼びつけて話を聞くと“バイクがどこにいたのかわかりません”と話す。“じゃあ、何をやっていたの?”と聞いたら、“(信号待ちの停車中は)伝票を見ていました”と言うんです」
わが子を奪われた親にとって、とても受け入れられる判決ではなかった。調書を読んでも、事故直後に巻き尺片手にみずから作った事故現場の見取り図を眺めても、裁判所の判決には納得できない。
そんな片瀬さんの脳裏に、長野県に赴任していたとき隣に住んでいた、保険会社勤務の知人・Aさんのことが浮かんだ。
「彼に連絡してヘルプを頼むと、同期を紹介してくれたんです。いろいろ相談していたら、保険会社が契約している長谷川久二弁護士を紹介してくれました。長谷川弁護士は話を聞いてくれて、“民事裁判を起こしましょう”と。それで1996年に裁判が始まり、その進行中に、“工学鑑定をやったらどうだろう?”という話になった」
長谷川弁護士が当時について、こう述懐する。
「片瀬さんは息子さんのために一生懸命やっていらっしゃいましたね。刑事裁判で裁判所が下した判決に、納得いかなかったんでしょう。工学鑑定にも積極的でした」
片瀬さんらは啓章さんの事故について、資格を持った専門家に自動車事故の工学鑑定を依頼。何が起こったのかを科学的に分析してもらおうと決めた。
片瀬さんが言う。
「当時、私は『全国交通事故遺族の会』(現在は解散)に入っていて、いろいろな活動をしていました。大会には有識者などをお呼びして話を聞いたりするんですが、その際に会った方に大慈彌さんという人がいて、名刺交換をしたことがあったんです」
ドラレコ開発の歯車が、少しずつ、回転し始めた。
事故鑑定のプロとの運命的な出会い
大慈彌雅弘さんは、東京・蒲田にある『日本交通事故鑑識研究所』の代表を務める人物。これまでに4000件を超える交通事故鑑定を手がけた、この分野の第一人者だ。
1999年、片瀬さんは大慈彌さんに、事故の工学鑑定を正式に依頼した。
大慈彌さんが当時をこう振り返る。
「片瀬さんは、遺族の会でもベスト5に入るぐらい熱心に活動されていましたね。片瀬さんが真夏の暑い中、目撃者を捜すためプラカードを持って毎日交差点に立っていると聞いて、私も“これはなんとかしなきゃいかん”と思ったのを覚えています」
打ち合わせを重ねるうち、大慈彌さんは片瀬さんに意外な話を切り出した。
「遺族の会を通じて、片瀬さんのように大事な息子さんや娘さん、お父さんを亡くされた方を100人ぐらい知っていました。それで長年、“何かいい方法はないだろうか?”と思っていて、ドラレコのような記録装置の開発を考えていたんです。国内外のいろんなメーカーに打診しましたが、担当者は“それはなかなかいいですね”と言ってはくれるものの、2〜3か月たっても音さたなしといった状況でした」
事故鑑定のエキスパートの見識と、大手電機メーカー営業マンの人脈がここで結び付き、スパークする。片瀬さんもまた、同じことを考えたことがあったのだ。
「目撃者捜しで中原の交差点に立っている間、通る車を眺めながら、“誰かが偶然、ビデオで撮っていてくれたらよかったのに……”と思ったことがあったんです」
片瀬さんが続ける。
「目撃者は出ないし、あてにできない。警察も何も話してくれない。そんななかで、どうしたら真実を知ることができるのか? ビデオで撮って残しておくしかない。それにはどうしたらいいんだ? と考えていました」
ビデオのように運転や事故の様子を記録し、後日再生できる装置─。それがあれば事故の瞬間、何があったかを客観的に知ることができる。
実は、ハンドルやブレーキ操作を数値やグラフで記録する装置は、そのころすでにあった。だが、あくまで自動車教習所などの法人が運転特性の分析を目的にしたもので、個人が気軽に買えるような値段ではなかった。
今では1万数千円から購入できるドラレコの誕生は、わが子を亡くした電機メーカー技術者と交通事故鑑定人の、真実を知りたいという強い思いがあったからこそ実現したのだ。
4年間、2億円かけて実用機が完成
そこから試行錯誤の日々が始まった。
「会社の仲のいい技術者のところに行って、“実はこうしたことがやりたいんだけど、力を貸してくれ”と言ったんです。すると、試作品作りの開発会社・D社を紹介してくれた。社長と女性のほぼ2人で経営の、神奈川県川崎市にある小さな町工場でした」
と、片瀬さん。D社に依頼したのは、運転席のフロントに設置するカメラと記憶媒体の一体型装置。事故の様子を記録する記憶媒体にはメモリを使うことにした。この装置に、事故前12秒と事故後6秒を記憶させようというのだ。
長年にわたる事故調査や鑑定の経験から「(記録される秒数が)それぐらいで十分ではないかと考えました」と、大慈彌さんは話す。
1999年秋、ドライブレコーダーの開発が本格始動した。当時、メモリの容量は最大でも64メガあまり。写真のパノラマサイズ(89×254mm)の容量が1メガほどというから、ちょっとしたサイズの写真ですら64枚しか残せない計算になる。
これでは事故検証をするうえで必要な連続映像などの記録は、メモリ容量が足りず不可能だ。そのため1秒間に5コマ撮影できるように工夫した。
記録の仕組みは、64メガのメモリカードAとBの2枚用意、トリガーをはさんでつなげる方法をとった。メモリAは1秒5コマの割合で常に録画と上書きを続けるが、事故が起きて衝撃を受けるとトリガーが起動。メモリAに記憶されていた事故前12秒と事故後6秒間の記録がメモリBに転送される。万一のときは、それをパソコンで確認するというものだ。
2年後の2001年4月、およそ600万円の予算をかけて試作品が完成した。
今でこそ記録されるコマ数はより多くなり、記録時間も飛躍的に増え、映像として撮影する機種も珍しくないが、ドラレコの原型は、このスタート時点ですでにできあがっていたといっていい。
大慈彌さんが「やっとできたか」という思いで試作機の画像を見ると、いま市販されているレコーダーとも遜色ない。「これならいける」と片瀬さんもひと息ついたが、いざ販売するとなると、レンズの性能は十分か、システムがきちんと動くかなど、実用に足るものか検証しなければならない。そうなると数千万円単位の費用が必要だ。
ここで大慈彌さんが、資金面でひと肌も二肌も脱ぐことになる。開発費に私財を4000万円も投入したのだ。大慈彌さんは「金額でいうと、販売までに2億円ほどかかっていますね」と、こともなげに言う。
'03年12月、2億円の予算を投じた実用機『Witness』が完成。これを片手に大慈彌さんがタクシー協会を通じて働きかけたところ、大阪タクシー交通共済がタクシー5000台への搭載を決定。さらに東京のタクシー会社・練馬タクシーは全車へ搭載することに。
「タクシーが事故に直面すると、タクシー側の過失を疑われることが多かった。本当に自社タクシーに非があるのかを知りたい、何かその手段はないものか、と探していたところだったそうです」
と、大慈彌さん。片瀬さんは「ともかく事故を記録することだけを考えていました。ところがタクシー会社では、記録した画像を安全教育に使ったというんです」と、驚いて話す。
時速30キロ制限の道路を40キロで走っていたり、一時停止をしていなかったり……。練馬タクシーではドラレコの記録を通して、人間の認識がいかにいい加減かを目の当たりにした。それによりドライバー同士で議論が起こるなどして、結果、重傷事故が搭載前に比べ7割も減ったという。
ありのままを映し出すドライブレコーダーがもたらした、予想外の収穫であった。
一般車への普及を目指しプレゼンに奔走
重傷事故7割減─。この驚くべき成果を、めざといマスコミが見逃すはずがない。新聞やテレビ各社が一斉に報道。タクシーなどの運輸業を中心にドライブレコーダーの認知度が高まり、続々と採用されていく。
大慈彌さんに負けじとばかりに、片瀬さんも動きだす。 タクシー各社が続々と搭載を決めても、一般車両でははかばかしくない。目標は、日本で走る自動車すべてへのドライブレコーダー搭載だ。
『交通事故遺族の会』の取り組みの一環として、パワーポイントで自作した資料片手に、国土交通省や警察、検察、保険協会へドラレコ搭載をプレゼンしてまわった。
'09年には国内最大手の自動車メーカー・トヨタ自動車にも働きかけた。遺族の会の会員で、株式を1株だけ保有する“一株運動”を起こし、株主として株主総会に出席。その場でドライブレコーダーのプレゼンを行ったのだ。
同会・元理事の中島朋子さん(74)が言う。
「警察署や関係省庁に直接言いに行っても埒が明かなくて。それじゃあメーカーに行こうという話になったんです。手をあげたら指名されて。それで私がドラレコの説明をすることになったんです(笑)」
だが、片瀬さんの努力や大慈彌さんの尽力、遺族の会の思いに反して、一般車両への搭載はなかなか進まなかった。
状況を打破するきっかけは、国交省が動いたことだった。片瀬さんによれば、
「『交通事故問題を考える国会議員の会』という、国会議員の有志の集まりでプレゼンをしたら議員さんたちの反応がよくって。参議院の常任委員会のひとつに決算委員会があるんですが、その席で政府に質問をしてくれたんです。それが契機になって、国交省が動いてくれました」
まずは国交省が主導してドライブレコーダーを開発。それをバスやタクシーなどの営業車に搭載させ、効果を検証させたのだ。
データから確かに効果があることを確信した国交省は、ドラレコ普及に向けた支援を本格化させる。カードから画像を取り出しチェックするためのプログラム開発を後押ししてくれたのだ。
しかし、営業車両はともかく、一般車両への搭載は遅々として進まないまま。のちに片瀬さんらが驚くほどの変化が訪れ、世間一般への認知が大きく広がったのは、社会問題となった“あおり運転”がきっかけだった。
「息子は喜んでくれていると思う」
“運転の邪魔をされてむかついた”“クラクションを鳴らされて頭にきた”など……。些細な出来事が発端になって起こる、あおり運転。
その危険性を強く印象づけたのは、'17年6月、東名高速道路下り車線で家族4人を死傷させた事件だろう。これに前後して加害者は、同様のあおり運転による強要未遂事件を2件起こしていた。
さらに'19年には、ドライブレコーダーの有効性を決定づけた事件が発生。ショールームから借用した高級車で、常磐道をはじめ3県の高速道路であおり運転を繰り返した当時43歳の男が逮捕された。
こうしてあおり運転に注目が集まる中、ドライブレコーダーの販売台数は急増。一般社団法人『ドライブレコーダー協議会』などの統計では、ドライブレコーダーの国内出荷数は'19年度でおよそ483万台。'16年度の145万台から3倍に膨らんだ。
現在では、およそ半数にあたる45・9%が“すでに搭載”という状況にまで普及してきた。
とはいえ、片瀬さんに言わせれば、まだまだ不十分との思いが強い。
「メーカー出荷段階や、車検のときにはこれがなければ通らないとか、そういうふうにしてほしいと思いますね」
前出・長谷川弁護士は「ドラレコがあれば、いいにつけ悪いにつけ事故の経緯が明確になりますよね。普及率が高まったので過失割合を考えるうえですごく参考になっています。設置を義務化していいと思います」と、その意義を強調する。
大慈彌さんも異口同音に言う。
「国民の義務として100%の車につけるべきです。事故が起きるのはたいてい夜だったり雨が降っていたりで、事故の痕跡も残らないようなとき。どちらの言い分が正しいか証明する方法は、ドラレコ以外にありません」
ドラレコは、いまやドライブシーンだけにとどまらず、予想外の方面にも力を発揮している。
「(前述した)タクシー会社が安全教育に使ってくれるだけでなく、犯罪の抑止や防犯にも使われるようになりました。むしろ最近では、事故の記録自体よりも、そちらのウエートのほうが高くなってきている。それをすごくうれしく思っていますね」
交通安全のみならず、地域の安全にも多大に寄与した父を、天国の啓章さんもきっと喜んでいるだろう。
「と、思うんですけどね……。かみさんとよく言っているんですが、どちらが先に逝っても、まず聞きたいのが“おまえ(啓章さん)のときは一体、何があったんだ?”ってことですね。“こんなものを作ったよ”と報告するのは、そのあとの話です」
どれほどテクノロジーが発達しても、人は間違いを犯すし、失敗もする生き物だ。だから片瀬さんは願ってやまない。ドラレコのさらなる普及を。安全運転を。悲しみに暮れる遺族がいなくなることを。この世から交通事故がなくなる、その日まで─。
取材・文/千羽ひとみ(せんば・ひとみ) フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。企業広告のコピーライティング出身で、人物ドキュメントから料理、実用まで幅広い分野を手がける。『キャラ絵で学ぶ! 地獄図鑑』『幸せ企業のひみつ』(ともに共著)ほか著書多数