大企業の肩書を捨て、第二の人生を謳歌している人はどんな人だろうか。栢木興太郎さんは定年目前で日本テレコム(現ソフトバンク)を辞め、大道芸人に転身した。「東京大学に入るよりも苦労した」という芸人の道を、なぜ選んだのか。ジャーナリストの秋場大輔氏が迫った--。

※本稿は、秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

写真提供=文藝春秋
日本テレコムを辞め、大道芸人になった栢木興太郎さん。「麻布十兵衛」の名で活躍している - 写真提供=文藝春秋

■ガマの油売りを披露する東大OB

「レディースアンドジェントルメン。プリーズカムカムヒヤ。おとっつぁんもおっかさんも寄ってらっしゃい見てらっしゃい。アイウィルショーユージャパニーズストリートパフォーマンス、ブルフロッグオイルセールね。これから日本の伝統芸能である大道芸であるガマの油売りをやりますよ」

ガマの油売りを「ブルフロッグオイルセール」と言うなど、日本語とブロークンイングリッシュを使って、銀杏並木を歩いている人に声をかけていたのは、東大OBの大道芸人、麻布十兵衛こと栢木(かやき)興太郎さんだ。

パフォーマンスが始まると、五十人ほどの観客が集まってきた。「さてこの黄色のカバーの中に何が隠されているか。黄金の山かはたまたゴジラの赤ちゃんか。カバーを外してみよう。ややっ。中にいたのは筑波山で捕まえた四六のガマ。フォーアンドシックスフロッグメイドインマウントツクバね。このガマちゃんから油を搾り取ってやる」

十兵衛さんはそう言ってしつらえた机の上に置いてあるガマガエルの人形を、内側が鏡張りになっている小さな箱に閉じ込めた。そして「鏡に映った自分の姿が恥ずかしくて、ガマちゃんが流した脂汗をかき集め、煮詰めて作ったのがこれだ」と言って、観客に怪しげなピンク色のクリームを見せた。

■取り出した刀を自分の腕に当てて…

「この薬がいかに優れたものなのかをお見せしよう」。十兵衛さんは「正宗」と呼ぶ刀を取り出し、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚」などと言いながら、正宗でティッシュを二つに切る。その上で切れ味鋭い正宗で自分の腕を切るゼスチャーをした。

腕には血糊が付いている。「うあああ。いててて。しかしドントマインド。ノーナースコールね。なぜならさっきのクリームがあるから。ほらご覧なさい」。そう言って腕にクリームを塗り、タオルで拭き取った。

見事切り傷はなくなっている。見ている大人はニヤニヤ。子供たちは少し不思議そうな顔をしている。「さあこれからが大事。大道芸人は投げ銭で生活をしているんです。お志をよろしくお願いします」。演じ終えた十兵衛さんがそう言って差し出したザルに、観客は百円玉や五百円玉、千円札を入れていた。こうして約20分の演目は終わった。

■大企業幹部、官僚…の横に「大道芸人」

「東大を出て、会社勤めをした後、大道芸人になった人がいる」。知人からそう聞いて、十兵衛さんに初めて会ったのは2018年秋のことだった。東大を卒業した人の職業選択はむろんさまざまだろうが、多くは大企業や官公庁、弁護士や医者、公認会計士といったところだろう。その中で企業への就職を選び、その後に大道芸人になったという人は、何をどう考えてその道を歩んでいるのか、強い興味が湧いたからだ。

十兵衛さんに連絡すると、取材を快諾してくれた。都合の良い取材場所はどこかと伺うと、「うちに来なさいよ」と言われた。住所を聞けば麻布十番という。なるほど。芸名の由来は分かった。

「なぜ大道芸なのですか。例えば学生時代に大道芸をやっていて、ビジネスマンを卒業して再び始めたとか」。そう聞くと十兵衛さんは「違う違う。大学時代は剣道部だったんですよ」と言って、書斎から剣道部のOB名簿を持ってきた。

名簿には名前、卒年次、学部、住所、電話番号などが書かれており、最後に肩書が記されている。さすが東大。現在50歳代、60歳代のOBの肩書はそうそうたるもので、多くは誰もが知る企業の上級幹部だった。

しかし70歳代以降になると肩書のところには空欄が目立つ。それをじっと見ていると十兵衛さんはニヤッと笑って言った。「70歳を超えて仕事を続けている人なんて、限られていることがわかるでしょ。開業医か弁護士、公認会計士ぐらいでしょ。それと……。大道芸人くらい」。確かに十兵衛さんの職業欄には「大道芸人(芸名麻布十兵衛)」とあった。

■新卒入社した会社がオイルショックで経営難に

ご本人とかつて日本テレコムで一緒に働いていた部下三人の話を踏まえて、麻布十兵衛こと栢木興太郎さんのビジネスマン時代をたどってみる。

栢木さんは1970年に東大経済学部を卒業した。海外駐在を強く希望していたこともあり、新卒一期生として、設立間もない三井海洋開発に入社した。

写真=iStock.com/chengwaidefeng
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/chengwaidefeng

海洋油田開発を手がける同社で、海外勤務の希望は叶った。15年間でシンガポールとアラブ首長国連邦の2カ所に駐在。しかし四十歳を前に転機が訪れた。二度のオイルショック以降、世界中で油田開発が相次ぎ、油価が下落。海洋開発のニーズが激減し、三井海洋開発の事業が先細りになったからだ。

「三井海洋開発は一度清算する」。親会社の三井物産幹部にそう言われ、再就職先を斡旋された。提示された複数の候補の中に三菱商事や三井物産、住友商事などの大手商社と松下電器産業(現パナソニック)などが立ち上げた国際電話事業者の日本国際通信(現ソフトバンク)があった。

栢木さんは「海外で働きたいと思っていたから社名に『国際』と付いている会社が良い」と思って入社した。この人の話はどこまでが本当で、どこからがネタなのか分からない。

■「何をやっても右肩上がり。楽しかったですね」

発足間もない同社は海底ケーブルを敷く、宮崎県に陸揚げ局を作る、東京のお台場にテレコムセンターを建設するなどインフラ整備が目白押し。栢木さんは監督官庁である郵政省(現総務省)やNTTなどとの折衝や用地買収の交渉に明け暮れていた。

「会社は出来たばかりで何をやっても右肩上がり。だから楽しかったですね。もちろん忙しかったけれど、それでもいろいろな部内行事がありました。栢木さんは全てに参加していたと思います。そういう場で人を楽しませることが好きだったみたい。今の大道芸人に通じるところがありますね」と元部下の松葉和子さんは言う。

もっともその頃あたりから会社全体の経営環境は次第に厳しさを増していた。国際電話事業が過当競争に入ったためで、会社の資本構成は何度も変わった。

日本国際通信は1997年、日本テレコムに吸収合併され、存続会社の日本テレコムには1999年、ブリティッシュ・テレコムとAT&Tが資本参加した。2000年に日本テレコムの子会社だったジェイフォン買収を目論んだ英ボーダフォンが大株主として浮上する一方、ブリティッシュ・テレコムとAT&Tは離脱。2001年にはボーダフォンが日本テレコムの経営権を握った。

資本構成の変化はこれで終わらない。日本テレコムの親会社は2003年に米系ファンド、リップルウッド・ホールディングス傘下に入り、2004年にソフトバンクが買収した。

■上司に突き付けられた「会社を辞めてくれ」

大株主が毎年のように変わるなか、栢木さんは横浜支店であげた抜群の営業成績が評価されて執行役員に昇格。広域営業部門長に就き、地方にある企業との法人営業を統括する立場になった。

部下の一人、山本佳樹さんは、栢木さんに2002年5月から2年間仕えた。二人でしばしば地方出張に出掛けたという。「今にして思えば大変な時期でした。大株主が変わるたびに営業方針が変わったわけですから。栢木さんは相当苦労していたと思いますが、偉かったのは上司から方針転換が告げられると顔を真っ赤にして反発していたのに、僕らにあたったりすることなく、常に前向きな姿勢を取り続けたことでした。頼れる上司でしたね」と語る。

写真=iStock.com/Robert Daly
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Robert Daly

栢木さんと上司が対立したのは、営業をかける相手を巡ってだった。上司は収益性を考えて大都市にある大企業を追えば良いと主張した。対する栢木さんはそうした虫食い的な営業に反対した。通信は重要なインフラ。全国どこでも同じサービスが享受できるユニバーサルサービスを展開すべきとの自説を曲げなかった。

当時、どちらの考えが正しかったのかは分からない。しかし2005年、栢木さんは上司に呼ばれ、「向こう一年分の給料を払うから、会社を辞めてくれ」と言われた。おそらく大都市特化戦略に異を唱え続けたからだろう。当時59歳。突然の退職勧告だった。「悔しかったね。何とかして見返してやろうと思ったよ」と本人は言う。

■「毎日パチンコを打つ生活じゃないでしょうね」

屈辱的な勧告が大道芸人誕生のきっかけとなるのだが、伏線がその二年前にあった。

57歳になった栢木さんにある日、奥さんはこう言った。「定年退職をしたらどうするの? 毎日パチンコを打つ生活を送ったりするんじゃないでしょうね」。そう言われた栢木さんはこれまでの人生を振り返った。

子供のころ、運動会ではからきしだったが、学芸会では必ず声がかかった。物怖じせず、大きな声を張り上げることができたからだった。舞台が終わればみんなに褒められる。人前で演じることが楽しいと思った。

そこで高校では落語同好会を作った。芸名は三田亭楽大。古典落語の演目の一つである「芝浜」は、夫婦の愛情を暖かく描いた人情噺として知られるが、これを得意とした三代目桂三木助のテープを何度も聞いて真似た。三田高校の同好会メンバーは十数人を数えるようになり、後輩にはプロの落語家になる人も出た。

「パチンコ三昧じゃないでしょうね」という奥さんの一言で、それまでの人生を振り返った栢木さんは、「定年後は人を喜ばせることに専念しよう」と考え、日本古来から伝わる大道芸を学ぶ「大道芸研究会」に入会し、芸を磨くことにした。

■演目を増やし、ライセンス取得へ

約150人の観客を前に初舞台を踏んだ十兵衛さんは、その後も大道芸を磨いた。レパートリーはガマの油売り、南京玉すだれ、地獄絵の絵解き口上以外にも増えた。バナナの叩き売り、大道芸の古典と言われている外郎(ういろう)売りの口上、昭和30年代に露地でしばしば見かけられた万年筆売りの口上、皿回し、傘芸など。全部で十演目を数えるようになった。

芸を磨く一方で、資格取得も始めた。退職後すぐに筑波山ガマ口上保存会口上士となり、2007年には江ノ島でのパフォーマンスライセンスを取得した。その中で最も苦労したのは東京公認のヘブンアーティストになることだったという。

秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)

ヘブンアーティストは2002年に石原慎太郎元東京都知事が「東京をパリのようにしたい」という思いから創設したもので、合格した大道芸人は上野公園や舎人公園など、東京都が指定した場所で芸が披露できる。第一次審査は志願書と自身の芸を撮影した映像を提出、これをパスすると実技の第二次審査が待ち受ける。十兵衛さんが受けていた頃は、毎年300人くらいが応募して、合格率は約15%だったという。相当な難関だ。

磨いてきたガマの油売りやバナナの叩き売りの芸を映像に収めたDVDで第一次審査は通過するが、第二次審査で落とされた。大道芸としては特徴がなく、インパクトに欠けるというのが理由だった。

■東大は1浪、でもヘブンアーティストは8浪

捲土重来。次は家庭教師を付けて習得した江戸独楽芸を入れたが、これでも第二次審査を通らなかった。そこで目を付けたのが2010年代に入って急増している訪日外国人客だった。口上を日本語だけでなく英語、それもブロークンイングリッシュであたかも日本語で口上を言っているかのように演じたところ、オリジナリティがあるとして合格した。「東大へ入るのに一浪したけれど、ヘブンアーティストになるために八浪したよ」と十兵衛さんは言う。

資格取得にこだわったのは、資格がないと、大道芸人の収入のほとんどを占める投げ銭が見込めないからだ。ヘブンアーティストになれば、お祭りや催し物の主催者側も出演料の相場が分かるので、依頼が来やすくなるという側面もあった。

ヘブンアーティストとして大道芸を一回披露すると3万〜5万円の収入が見込める。しかし往復の交通費や食費は自腹で、手元に残るのは大したおカネではない。だからなるべく回数を増やさなければならない。大道芸人としての収入は、年間で百万円くらいにとどまっている。「友達と飲んでパーッと使ってハイおしまいという感じだね」

■年収100万円でどうやって生計を?

一流企業の執行役員ともなれば、年収は二千万円くらいだろうか。それに比べれば大道芸人としての収入はかなり低い。どのように生計を立てているのか。

十兵衛さんが、芸名の由来ともなっている麻布十番に引っ越してきたのは中学生の時だった。大学を卒業して、ビジネスマンとなってからも今から60年ほど前に建った自宅に住み続けたが、さすがに老朽化が著しい。そこで日本テレコムを去る時に手にした退職金を頭金にして、8階建てのビルを建設。最上階に十兵衛さんと奥さんが住み、他のフロアを貸すことにした。

写真=iStock.com/impson33
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/impson33

蓄えはあったが会社は辞めている。「不動産管理業は寝ていても家賃が入ってくるから楽な商売だ」と人は言うが、テナントの入居斡旋や家賃交渉、修繕など、素人にとって物件管理は思いのほか大変な作業である。

■安定収入があっても投げ銭にこだわるワケ

十兵衛さんは大道芸人として得ている収入が、「友達と飲んでパーッと使ってハイおしまい」くらいと言った。家賃収入があるからそれでも構わないわけで、ガマの油売りをやることも、江戸独楽芸をやることも所詮は老後の趣味に過ぎないと人は言うかもしれない。

しかしここは、十兵衛さんが稼ぐことにこだわっているところに注目したい。日本テレコム横浜支店のメンバーが集まった飲み会でも、十兵衛さんは「いつでも大道芸が披露できるよう準備しているよ。投げ銭をもらうのだから、そこはしっかりしないとね」と繰り返し語った。

日本テレコムを辞めざるを得なくなった時、十兵衛さんは「必ず見返してやる」と心の中で思った。自分を退職に追い込んだ相手がいま何をしているかは知らないが、自分は大道芸人として社会から必要とされる仕事をして、収入を得ている。しかもこの仕事は人に喜ばれることをするという人生の目標にふさわしい。俺は今でも仕事をしていると胸を張るためにも、十兵衛さんは投げ銭にこだわっているのだろう。

■“OB”ではなく、今の肩書で自分を紹介できるか

あの人は医者、この人は弁護士……。社会は人を肩書で判断する。企業社会はなおさらそうだ。どこで働いているのか。肩書は部長なのか役員なのか社長なのか。人はそういう物差しで測られ、場合によってはそれが一生ついて回る。

その点、十兵衛さんは自分を紹介するのに「元日本テレコム執行役員の」という枕詞を使うことはない。肩書はあくまで「大道芸人」。それがライフシフトに成功したことの証拠でもある。

さらに重要なのは、今の肩書に満足していることだ。東大を卒業して、一流企業の役員にまで昇り詰め、そこから大道芸人に転じたというキャリアに多くの人は「どうして?」と思うだろう。十兵衛さんはそう見られていることを自覚しているが、他人の目は気にしない。

高校生だった時に出会った落語にのめり込むうち、人を喜ばせることが楽しいと思うようになった。退職して、もともと自分がやりたかったことをしている。ただそれだけ。他人が驚くことがむしろ驚きなのかもしれない。

退職を迫られた時に思った「見返してやる」という思い。リベンジが十二分に成功していると言えるのは、過去にすがることなく、常に先を見つめているからだ。

----------
秋場 大輔(あきば・だいすけ)
ジャーナリスト
1966年、東京生まれ。日本経済新聞社で電機、商社、電力、ゼネコンなど企業社会を幅広く取材。編集委員、日経ビジネス副編集長などを経て独立。
----------

(ジャーナリスト 秋場 大輔)