巨人・増田大輝だけじゃない!「急造投手」起用に踏み切った名将たちの仰天采配
◆ 大敗も話題を集めた“奇策”
8月6日、甲子園球場で行われた阪神−巨人の“伝統の一戦”。ここで巨人・原辰徳監督が振るった采配が、大きな話題となった。
0−4と劣勢で迎えた8回。この回から登板した堀岡隼人が阪神打線に飲み込まれ、被安打4に2つの四球、最後は代打の中谷将大に満塁弾を浴びる乱調で、0−11と大量リードを許してしまう。
ここで、原監督がマウンドに送ったのが、内野手の増田大輝だった。足のスペシャリストとして一軍に定着しつつある27歳は、四球をひとつ許したものの、最速138キロの速球にスライダーも織り交ぜ、近本光司は二ゴロ、大山悠輔は右飛に打ち取って無失点ピッチ。仕事を果たした増田はホッとした表情を浮かべながらベンチに戻った。
今季は日程に余裕がないこともあり、リリーフ陣を温存するための作戦だったが、2リーグ制以降、巨人が野手を登板させたのは初めて。日本では馴染みのない奇策を歴史ある球団が行ったことで、OBからは批判の声もあがったようだが、原監督だからできたこと、と賞賛する声も出ているように、まさに“賛否両論”。様々な議論を呼んだ。
ということで、今回取り上げるのは、過去にプロ野球であった“急造投手”の登板について。『プロ野球B級ニュース事件簿』シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者としてもお馴染み、ライターの久保田龍雄氏に過去の事例を振り返ってもらった。
◆ ノムさん「お客さんを喜ばせたい」
南海の外野手・広瀬叔功がプロ16年目で初登板を果たしたのが、1970年10月14日の阪急戦(大阪)だ。
5回までに1−7とリードされた南海は、6回からセンターの広瀬がマウンドへ。もともとは投手で入団したが、1年目に肘を痛めて野手に転向したため、二軍でも投げたことがなかった。
仕掛け人は野村克也監督。「勝負がついてしまったし、お客さんをなんとか喜ばすためにやったんや。それに3番手ピッチャーがまだできあがっていないし…。阪急さんには失礼なことをしたが、ワシはお客さん本意に考えた」と説明している。
広瀬は先頭の石井晶に右前安打を許したが、併殺などで切り抜ける。7回も2四球と安打で一死満塁のピンチを招くが、後続2人を打ち取り、2回を無失点。
「西さん(阪急・西本幸雄監督)が恨めしそうな顔をするなど、もうドッキン、ドッキン。やはり投手はしんどい」と苦笑したが、その西本監督は「向こうはニヤニヤ笑っとるけど、こっちはそうはいかん」と怒り心頭だった。
1996年のオールスターでは、全パの仰木彬監督がイチローを登板させたことを「格式の高いイベントを冒涜した」と非難した野村監督だが、1972年に外野手登録のスミスを2試合登板させたり、阪神監督時代の1999年にも、新庄剛志をオープン戦で投げさせるなど、意外にこの手の“奇策”を好んでいたようだ。
◆ 日本ハムの集客作戦「1試合で全ポジションに挑戦」
プロ野球史上初・「1試合で全ポジションに挑戦する」という球団の集客作戦で、プロ初体験のマウンドに上がったのが、日本ハム時代の高橋博士だ。
1974年9月29日の南海戦(後楽園)。初回にファーストで出場した高橋は、2回に本職の捕手、3回にサード、4回にショート、5回にセカンド、6回にレフト、7回にセンター、8回にライトを守ったあと、9回は“最後の総仕上げ”のマウンドに上がった。
もともと外野の両翼以外の全ポジションを経験済みという器用な選手だったが、さすがに投手は「高校時代にかじっただけ」で勝手が違った。
先頭打者の投手・野崎恒男に対し、初球から超スローボールを投じたが、2球続けてボール。ようやく3球目にストライクが入り、カウント2−1からなんとか中飛に打ち取ったが、「ピッチャーにあそこまで持っていかれちゃあね」と疲れきった表情だった。
◆ 「球界の寝業師」根本陸夫もやった奇策
前出の広瀬と同様、プロ16年目にして初めてマウンドに上がったのが、クラウン(現・西武)時代の長谷川一夫だ。
高校時代には1試合21奪三振を記録したこともある左腕。大毎(現・ロッテ)の永田雅一オーナーが、系列の映画会社・大映の大スターと同姓同名であることを理由に入団させた、というエピソードでも知られている。
プロ入り後は外野手に転向。1977年に移籍したクラウンでも準レギュラーとして活躍していたが、翌年7月11日の日本ハム戦(後楽園)、5−5の9回に二死一・三塁のピンチを迎えると、根本陸夫監督は長谷川を左対左のワンポイントリリーフに起用した。
だが、この奇策は失敗。ロックレアに初球を中前にはじき返されてサヨナラ負け。投手記録は投球数1、被安打1で終わっている。
◆ 話題になった「投手・デストラーデ」
西武の主砲・デストラーデのリリーフ登板が話題を呼んだのが、1995年5月9日のオリックス戦(富山)だ。
0−9と一方的にリードされた西武は、8回二死からこの日「5番・指名打者」で出場していたデストラーデが3番手としてマウンドに上がった。
東尾修監督は「ファンサービスで投げさせた。二死無走者で1人だったら大丈夫」と説明したが、もちろん、負け試合で投手を無駄使いしたくないという理由もあった。
「ハイスクール時代(15歳)以来の登板」というデストラーデは、捕手・植田幸弘のサインに首を振ってロージンを手にするなど、なかなかの役者ぶり。スタンドのファンも大喜びだったが、先頭の高田誠に右中間への三塁打を浴びると、ニールと藤井康雄に連続四球を与えて、たちまち二死満塁。結局、ひとつのアウトも取れないまま交代となった。
◆ 仰木オリックスの奇策に、近鉄・梨田監督は「アホらしい」
オリックスの内野手・五十嵐章人が史上2人目となる「全ポジション制覇」を達成したのが、2000年6月3日の近鉄戦(大阪ドーム)だ。
3−16と大きくリードされた8回無死三塁の場面。「白旗を上げた」仰木彬監督は、五十嵐を4番手としてマウンドに送る。
前橋商時代にエースとして甲子園にも出場している五十嵐は、この日まで投手を除く全ポジションを経験しており、この瞬間、高橋博士以来となる珍記録が実現した。
だが、クラークと礒部公一が頭部死球で相次いで負傷退場という険悪なムードでの登板は、間が悪過ぎた。近鉄・梨田昌孝監督は「面白くないし、アホらしい。あんな奇策、どうでもいい」と怒り心頭。犠飛で1点を追加されたものの、何とか1回を投げ切った五十嵐も「複雑です。相手に迷惑かけた」と謙虚なコメントだった。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
8月6日、甲子園球場で行われた阪神−巨人の“伝統の一戦”。ここで巨人・原辰徳監督が振るった采配が、大きな話題となった。
0−4と劣勢で迎えた8回。この回から登板した堀岡隼人が阪神打線に飲み込まれ、被安打4に2つの四球、最後は代打の中谷将大に満塁弾を浴びる乱調で、0−11と大量リードを許してしまう。
ここで、原監督がマウンドに送ったのが、内野手の増田大輝だった。足のスペシャリストとして一軍に定着しつつある27歳は、四球をひとつ許したものの、最速138キロの速球にスライダーも織り交ぜ、近本光司は二ゴロ、大山悠輔は右飛に打ち取って無失点ピッチ。仕事を果たした増田はホッとした表情を浮かべながらベンチに戻った。
ということで、今回取り上げるのは、過去にプロ野球であった“急造投手”の登板について。『プロ野球B級ニュース事件簿』シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者としてもお馴染み、ライターの久保田龍雄氏に過去の事例を振り返ってもらった。
◆ ノムさん「お客さんを喜ばせたい」
南海の外野手・広瀬叔功がプロ16年目で初登板を果たしたのが、1970年10月14日の阪急戦(大阪)だ。
5回までに1−7とリードされた南海は、6回からセンターの広瀬がマウンドへ。もともとは投手で入団したが、1年目に肘を痛めて野手に転向したため、二軍でも投げたことがなかった。
仕掛け人は野村克也監督。「勝負がついてしまったし、お客さんをなんとか喜ばすためにやったんや。それに3番手ピッチャーがまだできあがっていないし…。阪急さんには失礼なことをしたが、ワシはお客さん本意に考えた」と説明している。
広瀬は先頭の石井晶に右前安打を許したが、併殺などで切り抜ける。7回も2四球と安打で一死満塁のピンチを招くが、後続2人を打ち取り、2回を無失点。
「西さん(阪急・西本幸雄監督)が恨めしそうな顔をするなど、もうドッキン、ドッキン。やはり投手はしんどい」と苦笑したが、その西本監督は「向こうはニヤニヤ笑っとるけど、こっちはそうはいかん」と怒り心頭だった。
1996年のオールスターでは、全パの仰木彬監督がイチローを登板させたことを「格式の高いイベントを冒涜した」と非難した野村監督だが、1972年に外野手登録のスミスを2試合登板させたり、阪神監督時代の1999年にも、新庄剛志をオープン戦で投げさせるなど、意外にこの手の“奇策”を好んでいたようだ。
◆ 日本ハムの集客作戦「1試合で全ポジションに挑戦」
プロ野球史上初・「1試合で全ポジションに挑戦する」という球団の集客作戦で、プロ初体験のマウンドに上がったのが、日本ハム時代の高橋博士だ。
1974年9月29日の南海戦(後楽園)。初回にファーストで出場した高橋は、2回に本職の捕手、3回にサード、4回にショート、5回にセカンド、6回にレフト、7回にセンター、8回にライトを守ったあと、9回は“最後の総仕上げ”のマウンドに上がった。
もともと外野の両翼以外の全ポジションを経験済みという器用な選手だったが、さすがに投手は「高校時代にかじっただけ」で勝手が違った。
先頭打者の投手・野崎恒男に対し、初球から超スローボールを投じたが、2球続けてボール。ようやく3球目にストライクが入り、カウント2−1からなんとか中飛に打ち取ったが、「ピッチャーにあそこまで持っていかれちゃあね」と疲れきった表情だった。
◆ 「球界の寝業師」根本陸夫もやった奇策
前出の広瀬と同様、プロ16年目にして初めてマウンドに上がったのが、クラウン(現・西武)時代の長谷川一夫だ。
高校時代には1試合21奪三振を記録したこともある左腕。大毎(現・ロッテ)の永田雅一オーナーが、系列の映画会社・大映の大スターと同姓同名であることを理由に入団させた、というエピソードでも知られている。
プロ入り後は外野手に転向。1977年に移籍したクラウンでも準レギュラーとして活躍していたが、翌年7月11日の日本ハム戦(後楽園)、5−5の9回に二死一・三塁のピンチを迎えると、根本陸夫監督は長谷川を左対左のワンポイントリリーフに起用した。
だが、この奇策は失敗。ロックレアに初球を中前にはじき返されてサヨナラ負け。投手記録は投球数1、被安打1で終わっている。
◆ 話題になった「投手・デストラーデ」
西武の主砲・デストラーデのリリーフ登板が話題を呼んだのが、1995年5月9日のオリックス戦(富山)だ。
0−9と一方的にリードされた西武は、8回二死からこの日「5番・指名打者」で出場していたデストラーデが3番手としてマウンドに上がった。
東尾修監督は「ファンサービスで投げさせた。二死無走者で1人だったら大丈夫」と説明したが、もちろん、負け試合で投手を無駄使いしたくないという理由もあった。
「ハイスクール時代(15歳)以来の登板」というデストラーデは、捕手・植田幸弘のサインに首を振ってロージンを手にするなど、なかなかの役者ぶり。スタンドのファンも大喜びだったが、先頭の高田誠に右中間への三塁打を浴びると、ニールと藤井康雄に連続四球を与えて、たちまち二死満塁。結局、ひとつのアウトも取れないまま交代となった。
◆ 仰木オリックスの奇策に、近鉄・梨田監督は「アホらしい」
オリックスの内野手・五十嵐章人が史上2人目となる「全ポジション制覇」を達成したのが、2000年6月3日の近鉄戦(大阪ドーム)だ。
3−16と大きくリードされた8回無死三塁の場面。「白旗を上げた」仰木彬監督は、五十嵐を4番手としてマウンドに送る。
前橋商時代にエースとして甲子園にも出場している五十嵐は、この日まで投手を除く全ポジションを経験しており、この瞬間、高橋博士以来となる珍記録が実現した。
だが、クラークと礒部公一が頭部死球で相次いで負傷退場という険悪なムードでの登板は、間が悪過ぎた。近鉄・梨田昌孝監督は「面白くないし、アホらしい。あんな奇策、どうでもいい」と怒り心頭。犠飛で1点を追加されたものの、何とか1回を投げ切った五十嵐も「複雑です。相手に迷惑かけた」と謙虚なコメントだった。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)