ロンドン地下鉄の車内に描かれたバンクシーの「新作」(写真:バンクシーウェブサイトより)

神出鬼没にストリートアートを描く匿名芸術家、バンクシー。東京でも彼が描いたとみられるネズミの絵が保存されたことで、日本でも広く存在が知られている。そんなバンクシーが7月14日、ロンドン地下鉄の車両内に新型コロナウイルス流行を風刺した”作品”を描いたことを示す動画をインスタグラムで発表した。

動画には作品名とおぼしきメッセージ「If you don't mask - you don't get(マスクをせよ、さらば与えられん)」と記され、切り抜き型紙を使ったステンシルという画法でくしゃみをするネズミや除菌ジェルをスプレーするネズミをドア横や窓枠に次々と描き、運転室のドアに大きな署名まで記している。

評価額は10億円超?

動画を見ると、自分自身の姿を絶対明かさないとされるバンクシーが全身を防護服で身を包み、あたかも「消毒部隊」のような格好に偽装して車両に乗り込む様子が捉えられている。


バンクシーのインスタグラムアカウントに投稿された、地下鉄車内に「新作」を描く様子(写真:バンクシーインスタグラムより)

また、車内アナウンスも録音されており、地下鉄サークル線のベーカーストリート駅とエッジウエア・ロード駅を走る間(所要時間3分)に仕上げた、という体裁となっている。最後には「I get lockdown, but I get up again(私はロックダウンに遭った、しかし、また立ち上がる)」といったメッセージを駅の壁、そして車両のドアに描いた様子が見て取れる。

今回のバンクシーの「犯行」を機に、ローカルメディアも過去の経緯を積極的に報じている。それによると、バンクシーは過去何度も地下鉄車内にネズミなどをモチーフにしたステンシルを描いた「前科」があるという。

ただ、バンクシーがインスタグラムに動画を投稿した後、不思議にも思える状況がしばらく続いた。作品を発見した乗客が撮影し、本人発表より前にSNSなどに公開され大騒ぎになる可能性があってもおかしくないものの、そういった「拡散」がまったくなかったのだ。

その理由は、発表時にはすでに車内から消されていたためだった。交通局はバンクシーの動画公表後、「バンクシーのことを知らない交通局の清掃スタッフが消した」と発表した。つまり、ほかの落書きと同様、あっさりと消される運命をたどったわけだ。


ロンドン東部にある雑居ビルの駐車場に2011年に描かれたバンクシーの作品。「路上落書きの傑作の1つ」と評されている(筆者撮影)

ロンドン地下鉄の全車両には監視用のビデオカメラ(CCTV)が取り付けられており、あれだけ派手な「落書き」をすれば、描いた直後には当局にバレていたかもしれない。実際、ロンドン交通局は地下鉄やバスの車両内で不審なことが起こった場合、その場で乗客全員を降ろして車庫に急行するという対策を取っている。

バンクシーの作品は芸術として高い評価を受けている。今回の作品をめぐっては、ロンドンの画商が値踏みを行っており、評価額は750万ポンド(10億2000万円)前後とみられている。ただ、これには地下鉄車両そのものの価格は含まれていない模様で、仮に誰かが落札したとしても現物の入手は事実上困難だっただろう。

バンクシーには熱烈なファンもおり、そうした人々の間からは「実際にその電車に乗りたいので、走っているところを教えてほしい」といった声も聞こえてきたほか、「ひょっとしたら、コロナで疲弊したロンドンの観光業界への大きなプレゼントになったかもしれない」と惜しむ声もある。

「落書き」は欧州鉄道の悩み

ただ、欧州では鉄道施設への落書きが後を絶たない。中には落書きが車両外壁全体に渡って描かれており、しかもその上からさらに新しい落書きが加えられ、元の塗装が全くわからない――といったひどいケースもある。

幸いなことにロンドン地下鉄では、車両内外の落書きを目にすることは割と少ないように感じる。ただ、落書き対策のコストは消すだけで少なくとも毎年1000万ポンド(13億円強)、落書きされた窓などの交換には3800万ポンド(約50億円)もかかっているという。

こうした落書きについて英交通警察は「公共の場での落書きは、乗客らを不安に感じさせる上、早急に除去対応をしなければさらに別の落書きが増える可能性がある」と指摘。ひいては「鉄道の利用そのものへの不安ももたらす」と深刻な影響が広がるとの見解を述べている。


チューリッヒ中央駅に停車中のスイス国鉄の車両。欧州では鉄道車両への落書きが至るところで見られる(筆者撮影)

鉄道だけでなく、建物の外壁やガード下などに落書きを見ることがあるが、こうした様子は「その地域の治安や民度のバロメーター」という考え方がある。確かに、落書きが目立つところでの1人歩きは怖いと感じる人も多いことだろう。

そんな中、徹底的な落書き撲滅に向けた取り組みを行っている例がある。

ドイツ鉄道(DB)傘下のDB サービスは、車両や駅などにひっきりなしに描かれる落書きに業を煮やし、低コストかつ簡単な手間で消せるノウハウを蓄積している。デモンストレーションの様子を2018年秋に開催された欧州最大の鉄道見本市「イノトランス」の会場で見ることができた。

ペンキで描かれている落書きを消すに当たり、シンナーのような化学薬剤を浸したモップを使って擦ってみると、塗料が溶け徐々に消えていく。車両側面に描かれた3メートル四方ほどの落書きは3人のスタッフが15分ほどで消しきった。

薬剤の調合を間違うと、落書きだけでなく車両そのものの塗装を溶かしてしまうリスクもある。別の鉄道オペレーターによると、イギリス製の「落書きリムーバー」なる薬剤を仕入れて使っているそうだが、DBの場合は化学薬剤を調合して使っているという。

DBサービスのマルティン・ハミッチュ氏はイノトランスでのデモンストレーションの目的について、「落書きは世界各国の鉄道オペレーターにとって長年の悩み」と述べ、「短時間、低コストで消せるわれわれのノウハウを国外の事業者に輸出することを目指している」と期待感を示した。


ドイツ鉄道(DB)による落書き消しの実演。「消す技術を輸出したい」と2018年の「イノトランス」会場で披露された(筆者撮影)

ハミッチュ氏によると、DBが受けた車両や鉄道施設への落書き被害は2017年の1年間で35万平方メートル、つまりサッカーコート50面分に相当し、被害回数はなんと2万7000回に及んだという。落書きを消したり、部品交換のための処理費用は3400万ユーロ(41億8000万円)に達し
ているが、「被害が増えれば増えるほどコストはかさみ、最終的に乗客に転嫁しなければならないことも考えなければならない」と窮状を述べている。

DBの落書き被害対策として、過去には車庫にドローンを飛ばして、犯人探しをする施策を取ったことがある。これについてハミッチュ氏は「あれは防止にはなるが、抜本的な解決にはならない」と苦慮する様子が伺えた。

「マスク着用告知には感謝」

困ったことに落書きは、ある種の人々の自己顕示欲を示す手段にもなっているようだ。建物の高いところや、足場のないガードの外壁など近づくのが難しい「どうやって描いたのか不思議な場所」に落書きを見ることも少なくない。そうした無謀な挑戦は、迷惑系YouTuberの考え方に近いものを感じるが、中には失敗する輩もいる。

ロンドンでは2年ほど前、3人の少年が深夜、郊外に向かう通勤鉄道路線の壁に落書きを仕掛けていたところ、やって来た貨物列車にひかれて亡くなるという事故があった。警察は当時、「遺体の様子は説明不能な状態だった」とし、「落書きアーティストは、線路にいるとひかれると意識せよ」と皮肉たっぷりの警告を出している。

今回のバンクシーの”新作”について、ロンドン地下鉄は「消したのは、厳しい落書き防止ポリシーに基づくもの」としながらも、「バンクシーが、利用客へマスク着用を求める告知をしてくれたことに感謝する」と述べ、「彼が新たな形でメッセージを伝えるための場所を提供したい」と、新たな作品の登場を期待する姿勢を見せている。

「消されることも計画のうち、と考えている」と評されるバンクシーの作品。はたして次の作品はどういった形で現れるのだろうか。