私たちはもう元の世界には戻れない (写真:franckreporter/iStock)

コロナ禍が始まって以降、わたしたちの周辺では目を疑う光景が続々と出現している。

デマや流言を真に受けて慌てふためく人々、「自粛警察」を買って出る人々、今も続く「感染者たたき」に血道を上げる人々はもちろんだが、もっと身近なところでは「感染症対策を根性論で乗り切ろうとする経営者」「テレワークができるのにそれを認めず、出社を求め続ける経営者」「テレワークで部下を執拗に監視し、仕事をほとんどしない上司」「在宅の時間が増えても家事や育児に協力しないパートナー」「エッセンシャルワーカーをばい菌扱いしたり、八つ当たりの対象にしたりする客」などといった諸問題が噴出した。

緊急事態宣言の解除後は、大都市圏で早くも満員電車が復活する中で、惰性的に「全員出社」を命じる企業や、「新しい生活様式」に過剰適応してクレーマーと化す人々などが世間を騒がせている。

暴かれた所属組織や人間関係の真価

コロナ禍によって暴かれたのは、よくも悪くもそれまでの所属組織や人間関係の真価だった。例えは悪いかもしれないが、大規模かつ長期的な心理テストの被験者にされたかのように、職場や家族などのメンバーが特定のストレスでどのように振る舞うかが試されたのである。

いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。

しかし、恐らく大多数の人々は日頃から薄々感づいていたことばかりだったのではないだろうか。これまでは実害がさほど大きなものではなく、またそれを解決するにはあまりに困難なことを理由に、肝心の問題を棚上げにしたり後回しにしたりしていたのだ。

けれども、緊急事態宣言が発令され、感染者の増加や重症化のリスクがさまざまなメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的なダメージが着実に広がっていく状況下で、程度の差こそあれ誰もが「人間性の危機」に対処せざるをえなくなったのである。

ウィズコロナ(withコロナ)、アフターコロナ時代は、テレワークなどの多様な働き方が加速するだけでなく、所属組織や人間関係においても「見切る」「見直す」考え方も加速することだろう。近年の災禍を振り返ってみると、このような局面は3.11でも起こっていた。ただし、コロナ禍ほど広範囲で人々の心理に影響を与えている例はない。

「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」と述べたのは、ナチスの強制収容所の生き証人で、実存分析(ロゴセラピー)の創始者であるV・E・フランクルだ。

フランクルは、第2次世界大戦後にニヒリズムや悲観主義が蔓延する社会に対し、強制収容所での有名なエピソードから1つの教訓を示した。その収容所では、ナチスの親衛隊員である所長が、密かに自分のポケットマネーで囚人のために薬を購入していたのだった。他方で、最年長者の囚人は、囚人仲間を「ぞっとするような仕方で」虐待していた。

ますます「人間性」を突き付けられる

フランクルは、この経験を踏まえて「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と主張したのである。

最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。虚栄も、野心も、縁故もです。すべてが、裸の実存に還元されました。(以上、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)

この真理は現代においてもまったく変わるところがない。むしろ現在のコロナ禍で痛いほど突き刺さってくるエピソードではないだろうか。

わたしたちはこれからも、コロナ禍が引き起こすさまざまな事件や出来事への関わり方をめぐってますます「人間性」を突き付けられることになるだろう。そのような視点から眺めれば、ウィズコロナ、アフターコロナ時代は案外悪いものではない。フランクルのいう「裸の実存」に還元されやすくなるからだ。

近年、人の尊厳を保つのに必要とされる信頼関係やコミュニティーといったソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の重要性に関心が注がれている。コロナ禍がそれらの再考を迫る強力な刺激剤となっている以上、引き続き既存の所属組織や人間関係を疑問視する人々が増加することは必定といえる。

「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」というシンプルかつ重大な啓示は、「厳正な眼差し」となって自他の言動――電車でたまたま隣り合った人から一国の首相に至るまで――の道義性を見極めようとする。現にもうそのような傾向が少なからず定着しつつある。

わかりやすく言えば「人間性を疑うような者たちとどう向き合うのか」ということであり、抽象的な言い方をすれば、フランクルの「裸の実存」に基づき自分自身の生き方を問うのである。

「こんなひどい働き方を強いる職場には戻りたくない」「パートナーは家族のことを何も考えていないかもしれない」などといった現在進行形の不信や疑念は、「何を守るために、誰と、どう生きるのか」という大きな問題へと歩み出す契機にすぎない。

逃げられる社会から逃げられない社会へ

人類学者の西田正規は、「定住革命」について「逃げられる社会から逃げられない社会へ」というフレーズで表現した。その昔、人類は「定住者」ではなく「遊動者」として生きてきた。それが劇的に変化したのはおよそ1万年前といわれている。

西田は「霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活の伝統は、その一員として生まれた人類にもまた長く長く受け継がれた。定住することもなく、大きな社会を作ることもなく、稀薄な人口密度を維持し、したがって環境を荒廃することも汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきた」と指摘する。

だが、今、私たちが生きる社会は、膨大な人口をかかえながら、不快であったとしても、危険が近づいたとしても、頑として逃げ出そうとはしないかのようである。生きるためにこそ逃げる遊動者の知恵は、この社会ではもはや顧みられることもない。(以上、西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫)

地震や噴火、津波や大洪水といった自然災害を、「遊動者」は身軽に移動することで、かわすすべを心得ていたが、わたしたちは「定住」という言葉が示すとおり、あくまでそこにとどまろうとする。西田は「ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えた」という。

恐らくこれは物理的にというよりは、心理的にだ。住居というストックが象徴的であるが、所有という概念に根差した固定的な社会があるからである。関係性に対するスタンスもこの志向に半ば引きずられ、非常時においてもこの「基本戦略」を忠実に遂行しようとしてがんじがらめになっているのだ。

「不快であったとしても、危険が近づいたとしても」「人間性を疑う」カルチャーが支配する関係性を守ることを選びがちになるのである。損して得を取れ――尊厳は損なわれるが一時の安心は得られる――というわけなのだ。

「遊動者の知恵」から何を学ぶか

当然のことながら、わたしたちは気まぐれに「遊動者」へと先祖返りするようなアクロバティックなことはできない。そのような社会はほとんど存在しないからだ。とはいえ、「遊動者の知恵」から学ぶことはできるだろう。


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今日的な「遊動者の知恵」とは、「裸の実存」を物事の判断の中心に据えて、コミュニケーションの仕方を変えたり、相手の「人間性」を「差し引いて付き合う」フットワークのことであり、尊厳が損なわれる場所から、実りのない関係性から、素早く距離を取ったり、軽くいなしてしまうフットワークのことだ。冒険を恐れずに新しい仕事や新しいつながりに飛び込むこともそこに含まれるだろう。

「わたしたちはもう元の世界には戻れない。しかし、元の世界がよかったといえば微妙だ」――まるでSF映画のせりふのようにも聞こえるかもしれないが、これがウィズコロナ、アフターコロナ時代の嘘偽りのない現実といえる。ならば、わたしたちはむしろ、「元の世界」に満ち満ちていた不正や欺瞞がおのずから露呈する「今の世界」こそ、愛でなければならないのではないか。