伝説の花魁・高尾太夫の悲劇…想い人のため死を覚悟するも身請け後に惨殺されてしまう

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遊女の中には、優れた人気遊女の名を継ぐ風習がありました。そして、継承された人気遊女の一人、高尾大夫には悲劇的なエピソードが付き纏います。

継承されていく遊女の名前

吉原にある妓楼・三浦屋の高尾太夫(万治高尾とも)は、一説には11代目まで続いたとされています。そのため、高尾といえば名妓の代名詞となっていました。もちろん、吉原以外にも名前を継承していった遊女はいます。有名なところで大阪新町の夕霧太夫、京都島原の吉野太夫など。

新町の夕霧:古今名婦伝(国立国会図書館デジタルコレクションより)

初代・夕霧太夫は容姿端麗で礼儀正しく、彼女が亡くなったときには「夕霧忌」が新年の季語になるほどだったそうです。また、2代目・吉野太夫の美貌は中国にまで伝わり、当時の中国の詩人が吉野の詩を作る人気ぶりでした。

2代目高尾太夫(wikipediaより)

そして高尾大夫といえば、2代目の仙台高尾が有名です。彼女が有名になったのは、ある悲劇的なエピソードに由来します。

藩主に見初められて断れず命を散らす高尾

2代目高尾は、仙台藩の藩主に見初められました。このことから仙台高尾と呼ばれるように。高尾を見初めたのは、仙台藩3代藩主・伊達 綱宗(だて つなむね)。

伊達綱宗(wikipediaより)

彼が高尾を身請けした代金は、高尾の体重と同じ重さの小判だったというから、綱宗の高尾への執心がうかがえます。しかし、高尾には島田重三郎という想い人がいました。

遊女たちが遊郭から出る唯一の道?簡単にはできなかった身請けシステムとかかった金額は?

藩主からの身請けを断れない状況の中、高尾は死を覚悟するのです。身請けされて隅田川を下っていく途中、高尾は身を投げようとします。

万治高尾:古今名婦伝(国立国会図書館デジタルコレクションより

その行動に激高した綱宗によって、船から吊るされて惨殺されてしまったというエピソードがあるのです。実際のところ、このエピソードが実際の出来事だったかは定かではありません。

別の説では、綱宗と添い遂げた、三浦屋で生涯を閉じたという話もあります。しかし、高尾の悲恋は人々の涙を誘い、歌舞伎で演じられたことで江戸時代を通して語り継がれていくようになりました。

参考書籍

江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史男の隠れ家 2015年 1月号