茨城県日立市に、わずか12年で、国公立大学への合格者数を10倍に増やした私立高校がある。明秀学園日立高校だ。かつては「生徒がうつむいて通う学校」とまでいわれた同校は、なぜ進学実績を劇的に高めることができたのか――。(後編/全2回)
明秀学園日立高校の外観(画像提供=明秀学園日立高校)

■昨年を上回る「75人合格」に沸く

「3月26日現在で国公立大学の合格が75人となり、昨年の41人を上回りました。また、大学進学率も70%を超えました。これからが楽しみです」

茨城県日立市にある、私立・明秀学園日立高校の小野勝久理事長は声を弾ませる。

小野氏の就任は2006年6月。前職は日立市の教育委員長だった。同年4月に校長に就任した中原昭氏(2018年3月退任。現在は同校の学事アドバイザー)とともに、2006年10月11日の茨城新聞広告記事に登場し、「県北一の進学校をめざす」と高らかに宣言した。

その目標はまだ達成していないが、毎年国公立大学に「30人〜70人が進学する高校」に変身した。だが関係者は冷静だ。一様に「学校改革は道半ば」と語る。

それでも校内の雰囲気は明るい。取材時にすれ違った生徒たちは、見慣れない筆者にも明るくあいさつしてくれる。だが、13年前は「生徒が自信を持てない学校」だった。

JR日立駅から歩くと、同校の立地は、県北一の進学校「県立日立第一高校」の奥にある。かつては「一高生は胸を張って通学し、明秀生はうつむいて通学する」(地元関係者)と言われた。当時この広告記事を読んだ地元の人は、荒唐無稽な話に思っただろう。

なぜそんな学校が、ここまで進学実績を高めたのか。まずは時系列で紹介したい。

■「2人校長問題」と「財政危機」

2006年、同校は「特進路線」にかじを切り、特進推進委員会を設置した。翌年から正式にスタートしたが、当時の進学実績は「国公立大に推薦で数名入る程度」だった。

一連の改革で興味深いのは、理事長は手腕を買われた元企業人で、校長は生え抜きの教員だったこと。中原氏は就任時55歳で、就任前は自ら主導した「通信制」の教頭(同制度の事実上のトップ)だった。それまでの校長は「60歳過ぎの人が定年後に就任」していた。活躍の場を与えられ、生え抜きも持ち味を発揮。理事長と校長の二人三脚で改革を進めていく。

かつて同校は2度、大きな問題を抱えた。1993年に組合側と学園側が対立した結果起きた「2人校長問題」と、2003年に起きた「財政危機」だ。いずれも収束まで時間を要し、この間の志願者数は減った。会社に例えれば、前者はCOO(最高執行責任者)のゴタゴタ、後者は破綻寸前の経営危機だ。後者はその後、「財政健全化計画」で立て直した。

前校長・中原氏と現校長の矢野正彦氏は、当時を知る世代だ。「2006年に学校改革に乗り出した時、古参の教職員ほど『もう、あんな思いはしたくない』と協力的でした」と話す。教職員の奉職年次によって違うが、「土壇場まで追い込まれた」過去を持つからこそ、前向きに学校改革に取り組めた、といえそうだ。

■中期計画「7・5・3」を掲げた

2006年からの「改革」を図表1にまとめた。これをもとに説明していきたい。

「就任当初に掲げた『凡事徹底』では、『校歌を大きな声で歌える』『校章をつける』など5項目を全員で実践しました。私自身の反省もあります。いつの間にか、生徒に校歌を歌わせながら、自分は腕組みをして聴いていた。『隗(かい)より始めよ』の気持ちでした」(中原氏)

「特進STコース」を設置し、予備校講師を招いてのプレミアム授業や有力塾長の講演会など、外部の知見を導入することも行った。2008年度には中期目標「7・5・3」(進学率70%、大学進学率50%、国公立大合格者数30人)を定めたが、2007年の数字は左から順に「66%、46%、7人」。特に国公立大合格者は「現実離れした目標」と関係者は感じたという。

「夢」だけではない。県北臨海地域の生徒数予測など、近い将来の「現実」を見据えた調査も行った。少子高齢化=高校進学者数の激減が、ほかよりも急速に進む地域だからだ。

■初の医学部合格者が出た

2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島原発の事故は、同校にも影響を与えた。校舎の一部が破損し、学校は一時休校。入学者も減ったが、明るい話題もあった。

国公立大学に36人が合格したのだ。前年(2010年)の14人から大躍進となった。筑波大や横浜国大にも合格し、初の医学部合格者(福島県立医科大)も出た。

長年の名門校なら、珍しくない話かもしれない。実は前回の「スポーツ編」記事を公開したところ、一部から「文武両道ではなく文武別道だろう」や「国公立大の中身はたいしたことない」という指摘があった。そうした声も、今回の取材で投げかけてみた。

「2007年に廃止した『体育コース』の時代は、文武別道もありましたが、今は違います。スポーツ特待生も一般生徒と同じ教室で机を並べ、大学に進学していきます」(関係者)

「それまで進学実績がなかった国公立大の合格者が出ると、われわれも進む方向性に自信を持ちました。生徒の頑張りに教職員も励まされた。以前は、時に『国公立大なら推薦でも』という気持ちになったのですが、現在は『一般入試で戦う』思いが強いです」(教頭の滑川孝則氏)

「7・5・3」の目標のうち、実現が難しいと思われた「3」(国公立大30人合格)を最初に達成し、教職員も自信を深めた。成功事例に学び、外部の知恵を導入して教育環境を整備。これに基づく授業を受けた生徒が結果を出したことで、PDCAが回っていったのだ。

■通信制も全日制も「面倒見のよい学校」

同校のもう1つの特徴である「通信制」も紹介しよう。2003年に開校した通信制では、「面倒見のよい安全安心な学校」を掲げた。生徒の中には、全日制を退学した人もいれば、さまざまな事情で高校進学を果たせなかった人もいる。「1人ひとりに寄り添い、見失った自分のよさや可能性に気づいてもらう」がモットーだ。今では、国立大学やMARCHクラスの私立大に進学する生徒も出てきた。現在は全日制で約1100人、通信制で約700人が在籍する。

「面倒見のよい学校」は、通信制に限らないという。ある幹部教員は匿名を条件にこう話す。

「勤務校だからでなく、明秀日立に感謝する部分があります。私には3人の子どもがおり、上と下は日立一高に進学しましたが、真ん中の子は不合格となり明秀日立の全日制に入学した。半年ほどは体裁が悪く、マスク姿で通っていましたが、徐々に自信を取り戻し、卒業後は茨城大に進学したのです。明秀でなければ、自信を失ったままだったかもしれません」

■「生徒会は楽しい」と話す現役生

現役生徒の声も紹介しよう。生徒会長の小野勇樹君(特進Aコース2年)と副会長の中嶋歩花さん(同コース1年)だ。茨城県鹿嶋市出身の小野君はサッカー部に所属し、高萩市の寮で生活する。中嶋さんはダンス部に所属し、福島県いわき市の自宅から電車で通学する。

「寮の先輩が前年の生徒会長だったので、その姿に憧れて生徒会の活動を始めました。将来は大学に進む予定ですが、父が飲食店を経営しており、ゆくゆくは店を持ちたい」と話す小野君。「生徒会のイベントで、さまざまな人と出会うのも楽しい」と笑う。

中嶋さんは、「英検、書道、ネイルアートをやってきて、いろんなことに興味があります。小2と幼稚園年長のいとこがかわいくて、将来は大学に進み保育士になりたい」と話す。

「最初は寮生活がイヤで、1カ月間は転校の情報を調べていました」と、小野君は正直に明かす。週に3回、昼休みに集まる生徒会の活動は、面倒ではないのかと聞いたが、「『面白そうだな。ガッツリやろうか』の意識で取り組んでいます」との声が返ってきた。

大学進学を目指す2人だが、成績はふつうだ。それでも「まだ2年と1年なので、これから伸びていきます」(進路指導部部長の栗原英明氏)と指導教員も温かく見守る。

■「GSコース」成功は意識改革もカギ

現在、同校は次の計画に取りかかる。豪州やインドの学校と連携して国際交流を進める一方、新たに「GS(グローバルサイエンス)コース」を設置する準備を行う。理系を中心にした学業で、一部には人文科学や社会科学も取り入れる。最近はGSコース設置に乗り出す学校も多い。

だが筆者は、教職員がさらなる意識改革をしないと、目標は達成できないと思う。十数人の教職員と接したが、総じて受け身の姿勢が目立つ。今の成功が、今後の成功につながる保証はない。

世間で「優良企業」と呼ばれる会社ほど、業績好調でも「このままではダメになる」と感じて、次の一手に足を踏み出すタイプが目立つ。キーワードは〈独自の戦略性があるか〉だと思う

ある教員は、自校を「本当の進学校への道は、山登りにたとえると4合目程度」と評価した。山登りも、高地になればなるほど状況も厳しくなる。教職員が話す「県北から革命を起こす学校」を実現するために、あえて厳しいエールを送りたい。

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高井 尚之(たかい・なおゆき)
経済ジャーナリスト・経営コンサルタント
1962年名古屋市生まれ。日本実業出版社の編集者、花王情報作成部・企画ライターを経て2004年から現職。「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画・執筆多数。近著に『20年続く人気カフェづくりの本』(プレジデント社)がある。

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(経済ジャーナリスト/経営コンサルタント 高井 尚之)