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●パソコンで入力できない漢字がある

そこには明らかに文字としての漢字が存在するのに、それがコンピュータで使えない。まさか今どきそんなことがあるはずないと思うかもしれないが、それが現実だ。今や、コンピュータで使えない文字はこの世に存在しないと同義といってもいいくらいなのに、こうした状況の改善はなかなか進んでいないのが現状だ。

○膨大な数の漢字をどう管理する?

もちろん膨大な文字数がある漢字は、すべての文字にコードを割り当ててコンピュータで処理できるようにするというのは論理的には可能であってもしょせんは夢物語らしい。特に人名や地名で使われる異体字の存在は悩ましい。それでもれっきとした文字なのだから、なんとかならないものなのだろうか。

こうした悩みを解消するためのひとつの方便として使われているのがIVS(Ideographic Variation Sequence)という仕組みだ。

この仕組みは、基準となる文字をベースに、その文字コードはそのまま、そこから枝番をつけて異体字を管理する方法だ。つまり、文字のバージョン違いをひとつのコードで管理して解決する。そのため、検索や過去文書との互換性などの点でも有利だ。仮にプアなフォントしかない環境では、枝番が無視されるので、字形は異なっても文字が欠損することなく表示されるので大きな混乱は生じない。細かい字形の違いを無視し、同じ文字として検索ができるからだ。

○漢字のパーツを集めてひとつの文字を作る

だがこの世は広い。IVSの仕組みを使ってもなお表示ができない漢字が存在する。ではどうするかというと、 IDS(Ideographic Description Sequences)という仕組みを使う。

こちらは、いわば漢字記述言語というべきもので、ほぼ正方形の文字の中に、すでにコードを持つ部品を並べるシーケンスを記述して一文字の漢字を構成することができる。「祥」という漢字を表現するのに「しめすへんにひつじ」といった言い方をするが、これを体系化したものと考えていい。

IDSを使うことで、パーツの組み合わせによる漢字の表示ができる。だが、その文字デザイン、いわゆるグリフについては個別に用意する必要がある。これがまた一筋縄ではいかないらしい。

○「源ノ角ゴシック」に日本一画数の多い漢字が登場

PhotoshopやIllustrator、InDesignといったデザイナー御用達アプリで知られるアドビは、Googleと共同でフォントを開発し、フリーでオープンソースフォントファミリーを提供している。そのひとつが「源ノ角ゴシック」だ。ちなみにGoogleからは「Noto Sans」という名前で提供されている。オープンソースなので、ライセンスを守りさえすればフリーで利用できる。

「源ノ角ゴシック」は「げんのかくごしっく」と読み、英語名で「Source Han Sans」。「Source」は「源」、 「Han」は「漢字」、「Sans」はゴシック系を意味するので、それらしく「源ノ角ゴシック」とされたそうだ。「源ノ明朝」とともに「源ノ」シリーズを構成している。

その「源ノ角ゴシック」で2つの文字が使えるようになった。IDSに対応したグリフが特別に用意されたのだ。

「源ノ」シリーズフォントは中国語(簡体字、繁体字)、日本語、韓国語の4種類のグリフを持つ多言語フォントだ。正確には「源ノ角ゴシックCJK」がフルセットで、それ以外に日本語グリフだけを持つ「源ノ角ゴシックJP」がサブセットとして提供されている。

そのフルセットの「源ノ角ゴシックCJK」に、IDSを使った新たなグリフ「びゃん」と「たいと」が2018年11月に登録された。日本一画数が多いと言われる漢字だ。

●「びゃん」はびゃんびゃん麺のびゃん

さて、新しい漢字を扱えるようになって喜ぶのは誰か。その漢字が使えなくて困っていた人たちだ。使えるようになったことを喜んでもらえる顔を見たい。喜ぶ顔を見れば、これからの仕事にも精が出るはず……、とアドビのフォントチームは考えた(のかもしれない)。

そして、1月のある日、風変わりなプレスツアーが企画された。アドビオフィスに集合したプレス陣は、用意されたマイクロバスに乗り込んだ。そのバスのフロントガラスには「アドビ観光ラーメン半日満腹バスツアー」と書かれたプレートが掲げられていた。実際に、仕事で「びゃん」と「たいと」を使っている人たちに会いに行こうというわけだ。

バス内で、アドビのフォントチームから、フォントにまつわるフォントかどうかわからない話を聞きながら、最初にバスが到着したのは銀座からほど近い中央区・新川にある西安麺荘秦唐記というラーメン店だった。

○「びゃん」の文字は手書きされていた

この店は「びゃんびゃん麺」と呼ばれるラーメンで有名な店だ。もともとは中国・西安発祥の麺で、中国では人気ナンバーワンの麺だという。麺を打つときの音がびゃんびゃんと聞こえることから、そう呼ばれるようになったという説が有力だそうだが、本当の由来は誰にもわからない。麺はきしめんのようなベルト状で、太麺とさらに太いベルト麺がある。それを汁なしで、タレを絡めて食する。

店頭には、「びゃん」の文字を手書きしたPOPがあちこちに掲示されていたが、源ノ角ゴシックを使えば、その「びゃんびゃん麺」を漢字で書けるのだ。また「麺」という漢字は中国語では「面」と書く。他言語フォントの源ノ角ゴシックは扱う言語でグリフを切り替えることもできるので体制は万全だ。

アドビシステムズ 日本語タイポグラフィシニアマネージャーの山本太郎氏は、次のように語る。

「フォントはそれぞれの国で独立していました、それをひとつのフォントで東アジアの4つの地域で使われている文字に対応するようにし、国際的な文字の利用状況に対応したフォントとして提供されているのが源ノシリーズのフォントです。

何が便利かというと、昔ならパンフレットを作るのに各国の文字を使いたいとなったら、各国語のフォントを混ぜて使うしかありませんでした。それではなんとなく太さがあわないとか、デザインの一貫性がないなどの問題が起こるわけですね。多言語のドキュメントを複数のフォントを寄せ集めて使うとデザインの一貫性がなくなってしまうんです。

でも、源ノシリーズを使えば、それを解決することができます。各国の文字グリフが同じデザインポリシーで作られているので、ちゃんと一貫性のあるデザインになります」

○スキマの白がいかに綺麗に見えるか

そのデザインポリシーとはどんなものなのか。こちらはデザインの総指揮を担当したアドビシステムズ株式会社日本語タイポグラフィチーフタイプデザイナーの西塚涼子氏が説明してくれた。

「本文用フォントとしても使えるのですが、携帯電話やタブレットなどのLCDデバイスでも使いやすいように、伝統的なのに中間的なデザインを目指しています。長い文章を組んだりするときにも使えるし、新しいデバイスでも読みやすいというイメージです。ポイントとしては、今回、画数が多い文字を美しい文字として見せるために、個々のパーツがくっついて見えないようにするのに苦労しました、スキマの白がいかにきれいに見えるかということですね。パーツ同士の接触や余分な空白穴などに注意しました。右上がりだと安定して見えるんですが、そういう工夫もしています」

西塚氏はフォントのデザインに際して、オフィスではノートパソコンと4Kモニタを併用しているそうだが、働き方改革のご時世の今、自宅での作業ではノートパソコン一台ですませているとか。

さて、デザインされたフォントは実際のデータに落とし込む必要がある。そこを担当したのはアドビシステムズ株式会社日本語タイポグラフィシニアフォントデベロッパーの服部正貴氏だ。

「フォントを作るには開発ツールが必要です。作業的にはそれも同時に作っていたんです。以前からあったツールを中国語(繁体、簡体)、日本語、韓国語をサポートするように拡張したもので、フォントを作るときの専用開発ツールです。そのツールの開発の過程で米国のエンジニアから画数が最多といわれている漢字を作れることができれば、ちゃんとしたツールであるということが証明できるはずだから、ストレステストとしてやってみたらどうかといわれたのです。実際に、このツールを使って完成した源ノ角ゴシックをフォントとしてリリースするにあたって、どうせ作ったのだから新しいグリフを正式フォントの中に入れることになりました」

美味しく「びゃんびゃん面」をいただき、店主の小川克実氏が喜ぶ顔も確認できたということで、バスは一路、千葉県市川市・本八幡のおとど食堂へ。

●日本一画数の多いラーメン店の由来

「おとど食堂」のおとどは、「たいと」の別の読み方だ。店主によれば、ラーメン屋の師匠から受け継いだ店名だという。ラーメン屋になることを決意した店主が、その開業の際に店名を決めるにあたり師匠にアドバイスされたのだそうだ。

日本一のラーメンを作れない男が日本一をめざすなら店名で勝負するしかない。この漢字が日本一画数の多い漢字で竜がテンを目指す様子を表現している。だからこの漢字を店名に使えば、とりあえず日本一になれるという助言だったそうな。

もともと知らない漢字だったので、PhotoshopやIllustratorを使って既存の漢字を変形し組み合わせて文字を作りPDFを作って使ったのだという。そうか、店主はアドビ信者だったのか……。

○「たいと」は源ノ明朝でも使えるように

でもこれからは大丈夫。どうもありがとうございますと店主の越智雄一さんは満面の笑みを浮かべる。ナイショの話だが、「たいと」は源ノ明朝でも使えるようになることが決まっているそうだ。きっとこの店でも使ってもらえるに違いない。

「びゃん」や「たいと」を入力するには、文字のパーツのシーケンスを並べる必要がある。IMEで読みを入れて変換するなどカンタンには入力することができないのだ。アドビのPhotoshopやIllustrator、InDesignなどのIDS対応アプリでは、シーケンスを入力してフォントに「源ノ角ゴシック」を指定する。

アドビでは、将来的にいろんなフォントで使えるようになる先駆けとして搭載したということで、他のフォントがいっさいもっていない漢字を選んだという。ちなみに画数は、「びゃん」が57画、「たいと」が84画だ。

このツアーでわかったことは、この2文字をコンピュータで表示できるようになって確かに店主らは喜んでいたが、よくよく聞いてみるとあまり困ってもいなかったみたいだということである。漢字は奥が深い……。