孤独死は惨めなこと?(写真はイメージ)

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 1986年『女が家を買うとき』(文藝春秋)での作家デビューから、70歳に至る現在まで、一貫して「ひとりの生き方」を書き続けてきた松原惇子さんが、これから来る“老後ひとりぼっち時代”の生き方を問う不定期連載です。

第7回「連絡の取れない会員を探しに! もしかして孤独死か」

 おひとりさまをつなぐNPO法人SSSネットワークの会員も高齢化してきた。わたしが50歳で団体を立ち上げたときは、50代前後の働くシングル女性たちがほとんどだったが、あれから20年たった今は、70代以上の会員も多くなり、亡くなる人もでてきた。

 2000年に「お墓でパーティーしませんか」をスローガンに共同墓を建立したときは、ワインを飲みながら笑って死を語り合っていたが、最近は、「また、亡くなったの」の会話が多くなった。確実に皆が、人生の終盤に差し掛かっていることを痛感させられる。

 これはわたしの持論だが、人間の人生のピークは55歳。その後、どんなに若く見える人でも、仕事も肌も骨密度も内臓もエンジントラブルを起こしたジェット機のように急降下。墜落はあっても決して上昇することはない。

 仮に自分は急降下しているつもりはなくても、それは本人が鈍感なだけで、死はすぐそこに忍び寄っている。今は100歳まで生きる時代? まあ、おめでたいこと。

毎年、送られてきたイヨカンが届かなくなり…

 四国に住む会員、幸子さん(仮名)は91歳。結婚歴はなく両親の仕事を手伝っているうちにひとりになり、現在は戸建てにひとり暮らし。いろいろ事情があり、生まれ故郷を50代で離れ、見知らぬ土地、四国にやってきたらしい。わたしが彼女を知ったのは、2010年に、四国在住会員の集いに出かけたときだ。(現在、四国会員はなし)

 当時、84歳だった幸子さんは身なりもきちんとしたレディ。しかし、その集いのときに、友達がいないと言うので、会員のひとりが「今度誘いますね」と言うと、拒否した。うーん。長年ひとり身の人にありがちな、頑なな人だ。人が手を差し伸べようとするとひっこめる。そういえば、カフェで飲み物を注文するときに「わたしは水しか飲まないので」と何も頼まなくても平気だった。う〜ん。う〜ん。

 3年後の2013年、幸子さん87歳のときに、共同墓を契約したいとの連絡があり会った。そのときは以前より身体が小刻みに震え、年を取った印象を受けた。「大丈夫ですか」と声をかけると、彼女は笑いながら「イヨカンが送られて来なかったら、何かあったと思ってね」と言われ別れた。

 実は、彼女から毎年、時期になるとイヨカンが事務局に送られてきていた。それがひとつの安否確認にもなっていた。

 そのイヨカンが今年は送られてないことに年末になり気づき、慌てて電話したが、電話は鳴っているが出る気配がない。日にちを変え、時間を変え電話しても、ハガキを出してもまったく返事がない。もしかして、施設に入ったのかもしれない。とにかく、行って確かめることにした。

自宅を突撃してみると

 住所だけを頼りにタクシーに乗り、家の前に到着。想像より立派な2階建ての家だ。瓦や柱がしっかりしている。「ここだわ」と同行したスタッフに小声で話すわたしは名探偵コナン。

 大きな声で名前を呼ぶが応答なし。玄関のドアはカギがかかっている。窓には、人を拒むようにカーテンが重くたれさがっている。誰かいそうにない。でも、せっかく来たのだからと隣の人に聞いてみると「ばあさんはいるよ」と言うではないか。

 幸子さんの家に戻り、今度はありとあらゆるサッシに手をかけてみると、開いた。

「キャー開いた! こわい! 開いたわよ!」

 自分がどろぼうかと思ったが、東京から飛行機でわざわざ来たので手ぶらで帰るわけにはいかず、上がることにした。

「こんにちは〜誰かいますか〜」

 シーン。中は真っ暗。人の気配がない。台所の前に障子の部屋がある。よく見ると、ぼんやりと光が見えるではないか。ばあさんはいるのか? それとも死んでいるのか?

 勇気を振り絞ってスタッフが障子を開けると、そこには、ちゃぶ台の脇にへたりこんだ白髪のばあさんがいた。やせている。手や身体が小刻みに震えている。まんが日本昔ばなしの世界に入り込んだ錯覚に陥る。耳も遠いようだが、辛抱強く声掛けをしているうちに、わたしのことも思い出したようで「わざわざ東京から来たの? すみません」 と繰り返す。そのうち、しだいに顔に生気がもどるのを感じた。

 驚いたのは、幸子さんは世間の人と接することなく、この部屋から一歩も出ずに、数年間暮らしていたという事実だ。「さみしくない?」と聞くと、友達も知り合いもいないが平気だと言う。きっと、長い間、そういう暮らしをし続けてきたから平気に違いないとわたしは解釈した。

 料理はしない。食べ物は誰かが持ってきてくれているらしい。誰かとたずねてもはっきりしない。認知症も少し入っているようだ。支払いは? と聞くと、お財布も通帳も見たことがないけど誰かがやってくれているのね、わたしってのんきなの、で終わり。ちゃぶ台には食べかけのミカンとお寿司がある。お菓子もある。

 最近、ひとり暮らしの高齢者の遺産を狙う終活関係者やなんとか書士が多いと聞く。頼る人のいないひとり身高齢者が警戒すべきは、実は「オレオレ詐欺」だけではないのだ。

 幸子さんの通帳もおそらく、そういう人が管理しているにちがいない。だいたい推理はついたが、追跡しないことにした。なぜならわたしはコナンではないからだ。しかし、同じひとり身ということで、複雑な気持ちになり、いつもはパクパクいただく夕飯がすすまなかった。

民生委員「関わらないでほしいと言われている」

 翌日、幸子さんの情報を集めようと、わたしたちは市役所を訪ねた。ところが、個人情報だからと、受付でそっけない返事をされ頭にきた。あきらめずに福祉課に行く。事情を話すと幸子さんの民生委員の連絡先と名前を教えてくれた。若くて話のわかる男性職員だった。この人は出世する。

 すぐに民生委員に電話すると、これまた感じのいいおじさんが出て、ヘルパーが入っていること、幸子さんの世話している人がいること、その人から余計なことはしないでくれと釘をさされていることなど、話してくれた。葬式もこちらでやるので、関わらないでほしいと言われているそうだ。なので、見回りもしていないということだった。

 やっぱりね。これは事件のにおいがするが、これも幸子さんが選んだ人生だ。誰も口出しはできまい。ただ、幸子さんが嫌っていた孤独死だけは避けられそうだ。その誰かさんが毎日来ているようなので、死後すぐに発見され、腐敗してからの発見は免れるからだ。

生きてきた延長上に、死はある

 ひとり身の人の中には、孤独死は惨めだとか、残った人に迷惑をかけたくないから孤独死だけは避けたいとか、最期は人知れずではなく誰かに看取ってほしいとか、わけのわからないことを言っている人が多いが、「人はその人が生きてきたように死ぬ」から大丈夫よと、わたしは言ってさしあげたい。

 こう死にたい、ああ死にたいと思うのは自由だが、貝のように閉ざして生きてきた人はそのように。社会のために生きてきた人はそのように。友達を大切にしてきた人はそのように。生きてきた延長上に、死はあるのではないだろうか。となると、今をどう生きているかが問われることになる。

 幸子さんの91歳の姿は、それまでの生き方を表しているようにわたしには見えた。幸せか不幸かは知らない。人の人生を自分の価値観で判断するのは失礼なので、そのコメントは控える。自分が幸せならそれでいいことだ。

 わたしたちの残り時間は限られている。急降下中の70のわたしはいつ墜落してもいい飛行機と同じ状態だ。やり残したことはないか。毎日、そのことばかり考えている。うちのちょい悪の猫を使ってインスタにも挑戦しようかなんてね。

 まだ若いあなたは、「この程度でいいわ」なんて言ってないで、55歳のピークを目指して、機首を上げエンジン全開で羽ばたいてください。よろしくね。

<プロフィール>
松原惇子(まつばら・じゅんこ)
1947年、埼玉県生まれ。昭和女子大学卒業後、ニューヨーク市立クイーンズカレッジ大学院にてカウンセリングで修士課程修了。39歳のとき『女が家を買うとき』(文藝春秋)で作家デビュー。3作目の『クロワッサン症候群』はベストセラーとなり流行語に。一貫して「女性ひとりの生き方」をテーマに執筆、講演活動を行っている。NPO法人SSS(スリーエス)ネットワーク代表理事。著書に『「ひとりの老後」はこわくない』(PHP文庫)、『老後ひとりぼっち』(SB新書)など多数。