東京都 品川にある、幕末に知られた土佐藩・長州藩の偉人のお墓を紹介
史跡巡りをしていると、思わぬところで有名人のお墓に出くわすことがあります。今回は都内品川にある、幕末に知られた土佐・長州藩士や大名の墓を紹介します。
板垣退助の墓
襲撃されたときに発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、元土佐藩士で自由民権運動の父、板垣退助。
彼の墓は京浜急行電鉄の「新馬場駅」からすぐ、品川(ほんせん)神社の裏手にあります。江戸時代は広く江戸を見渡せたという高台にあり、富士山を模した「富士塚」があり大変賑わいました。一見しただけではわかりにくいのですが、社殿の右手に小さな案内板が立っており、なかば訝しんで裏手に回ると、本当に板垣退助の墓があります。
仏教式の墓石ですが、周りには寺はありません。何故ぽつねんと墓だけがあるのかというと、元々は高源院という寺の敷地だったのですが、関東大震災後に世田谷区へ移転してしまったのだそうです。大正8年(1919年)に寺に葬られた板垣の墓は、そのまま残されました。
すぐ目の前は崖になっていて、眼下には民家の屋根が見えます。今は木々の葉陰に空が見える程度ですが、昔は見晴らしがよかったのだと思います。手前には佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もありました。
品川神社には、小さいながらも貴重なものばかり収蔵されている宝物殿があり、幕末三舟と言われた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の揮毫した掛け軸などもありますので、幕末の息吹を感じること間違いなしです。
山内容堂の墓
旧東海道の「品川宿」を出てすぐの鮫洲駅近くの小高い丘に、「山内豊信(容堂)墓」はあります。
山内容堂は土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と称された人物でしたが、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と西郷隆盛ら周囲の志士に揶揄されたように、心から倒幕に賛同していたわけではなかったようです。
明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての下々の者と馴染めず明治2年に辞職。隠居後は妾を十数人も囲い、酒と作詩に明け暮れる日々を送りましたが、長年の痛飲が祟り46歳の若さで脳溢血に倒れ亡くなりました。明治5年(1872年)のことです。
墓所は遺言により「大井村の下総山に葬れ」ということで、かつての土佐藩下屋敷である現・大井公園に葬られました。周りには寺社もなく、本当にお墓しかありません。敷地は幼稚園と隣接しており、墓の向こうには金網越しに遊具が見え、草も生い茂り、かつての名君の墓とはとても思えない雰囲気です。
酒豪ぶりで鯨酔公とあだ名されたほど大酒飲みだった容堂。同じ旧東海道沿いにある「品川利田神社」では、鯨碑があり、なんとなく鯨という言葉に因縁めいたものも感じます。
画像出典:ウィキペディア
伊藤博文の墓
説明不要とは思いますが、元長州藩士で初代内閣総理大臣になった人物。歴史上、吉田松陰の松下村塾の門下生としても知られており、安政4年(1857年)に17歳の時に入塾し、後々尊皇攘夷運動に身を投じました。
文久2年(1862年)には、高杉晋作らとともに、品川の御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに参加したほどの過激派でしたが、藩命でイギリスへ密航し現地の大学で学んだあとは、一転して開国派になります。
墓はJR西大井駅の北口から徒歩2分、西大井緑地公園のすぐ裏にあります。独立した神式の墓所で、鳥居があり、その奥には円墳の墓があります。右隣には梅子夫人の墓もあります。
別邸が現在の品川区大井三丁目付近にあったことから、国葬後、近い場所に墓所が造られたとのこと。ちなみに伊藤博文の別邸は、平成10年に解体されたのち一部が山口県萩市に移されています。
画像出典:筆者撮影、無料写真素材 写真AC
いかがでしたか?遠く長州・土佐から離れ、奇しくも品川に葬られることになったかつての名士たち。品川近辺に集中しているので、一日でお参りに行くことも出来ます。
志士とかつての名君がたどった数奇な人生の顛末に思いを馳せながら、お参りしてみてはいかがでしょうか。