住友林業社長 市川 晃

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■欧州産の柱の輸入、業界に流れつくる

リーダーになる人というのは、若いときから、先輩たちが遭遇した難題や苦境を「自分だったら、どうするか?」と受け止め、課題克服の仮想演習を自然に重ねるのだろう。そして、未解決で残る課題があれば、「いつか、何とかしたい」との思いを、胸の中の引き出しに納めていくのだろう。

2003年、会社が米シアトルで住宅の販売を始めた。日本で分譲住宅に進出してから39年、先輩たちが何度も夢みた挑戦だ。40代後半、その推進役を務めた。

シアトル出張所長をしていた20世紀末、社長に、米国事業の先行きを聴かれた。北米産の丸太を買い、日本に送る事業を始めて約40年。それなりの規模にはなったが、それ以上の発展性には疑問があった。では、どうするか。前々から関心があった住宅への進出はどうか。社長の了解を得て、可能性を調べることにする。

結論は「やるべき」で、具申すると、社長も頷いた。とはいえ、海外では経験がない。まずは現地企業との合弁とした。ただ、2度目のシアトル駐在が4年を超え、本社の営業本部海外事業部の副部長に帰国する。でも、引き続き、米国での住宅事業の担当だ。翌年には改称した国際事業部の部長に就き、販売開始にこぎつける。

いま、テキサス州にも進出し、米国の合弁は4社。年に4000棟を供給する。08年には豪州でも始め、約2200棟の規模だ。住宅が材木・建材と並ぶ2大事業になった国内でも、年に約9000棟だから、海外進出は軌道に乗った、と言える。ただ、現地の文化に合った住宅の開発など、中長期の課題は、まだ胸の中に残る。

住宅事業との縁は、40歳から1年5カ月の欧州駐在時に遡る。当時、針葉樹から柱や梁に使う半製品に加工して日本に輸入していた北米で、環境の保護から伐採規制が進んだ。品質のいい木材の入手が難しくなり、米国は経済の拡大期でバブル崩壊後の日本とは違うから、価格面でも辛くなる。そこで、欧州に活路を開くことになり、その先兵に選ばれた。

95年1月、アムステルダムに赴任した。欧州の製材工場は、森林が広がるスカンディナビア半島と、アルプスからドイツ、ロシアへかけての森林地帯に多い。アムスは木材の集荷地ではないが、双方の中間で、空の便もいい。

欧州の木は太くなく、柱の一本取りが難しい。でも、節が小さくて、みためがきれいだ。繊維の方向を平行にして、接着剤でまとめる集成材の技術も、進んでいた。日本に送れば、すぐに柱となる。

ただ、つくらせてみると、曲がっていたり、ねじれていたり。品質の改善を求めると、「ここではこれで十分、要求は過剰品質」と反論する。もちろん、妥協はできない。しかも、欧州からは長期的に買い付けたい、と考えていた。本社から日本家屋の写真や図面などを取り寄せ、みせて説明し、ようやく納得させる。いま、日本建築の柱は大半が欧州産の集成材。どの日本企業も、ほぼ最終製品の形で輸入している。その流れを、このときにつくった。やはり、長期的な視点が大事だ。

入社以来、様々な木と触れて、日本への輸入を手がけ、40代から住宅事業を指揮するにつれ、木の重要さを痛感した。触れば、同じ表面温度の石材や金属のように「ひやり」とはせず、温もりがある。しかも、成長するときに二酸化炭素を吸収して炭素を固定し、酸素を出す。伐って使っても、炭素を中に固定し、燃やしたり腐らせたりしない限り、外には出てこない。仮に燃やしても、出てくるのは、自ら吸った炭素の分だけ。そして、伐った後に植林すれば、また炭素をためてくれ、地球温暖化の防止に貢献する。上手に管理すれば、循環は未来へと続く。まさに「百年の計」の世界だ。

ただ、日本の林業は、難しい時代を迎えている。第二次世界大戦時に燃料不足から伐採が進み、戦後の復興にも伐り出した。森林が大幅に減り、戦後はとにかく成長の速いスギを植えた。それが、花粉症を増大させている。この間、防火・防災の点から公共建築物は木造にせず、学校も鉄筋コンクリート建てばかり。並行して、木造の建築技術も衰えた。いま、戦後70年がたち、植林した木々を、いよいよ伐る時期がきた。でも、長らく伐り出していなかったので、多くの林道が消失している。

■全国で林業を支援、無花粉スギ植林へ

2010年4月に社長になったとき、胸の中の引き出しには、いくつも夢や課題が詰まっていた。就任3年目、その夢の実現や課題の解決へ、一気に動き出す。

まず、奈良県十津川村と、コンサルティング契約を結ぶ。十津川村は面積の96%が森林で、山が深く、急斜面も多いから、森林資源を十分に活用できずにいた。そこで、森林組合の製材工場の経営支援を請け負う。林道の整備を手伝い、木材の生産から加工、流通や販売まで一貫して手がける「林業の六次産業化」を後押しする。

契約は、北海道下川町や岡山県真庭市とも結んだ。航空写真と空からのレーザー測量を組み合わせ、生育する木の種類や林齢、高さや本数などを数値でとらえ、地図情報と合わせて、伐採計画の策定や林道整備に活用中だ。

全国の森林を持つ地域では、国や自治体の支援で、多くの製材工場が建設された。だが、経営の管理が煩雑で、行き詰っている。社有林の管理で蓄積してきたノウハウを提供し、それらを再生させ、次の世紀につなぎたい。その思いが、さらに広がっていく。

「男兒欲爲千秋計」(男兒は千秋の爲に計らんと欲す)――立派な男子であれば、永遠の大計を立てようと志すべきだ、との意味だ。中国・清の詩人の袁えん枚ばいの言葉で、物事の向上には短期的な策だけでなく、長期的な発想や取り組みが大切だ、と説く。森林の活用や再生に「100年の計」を念頭に置く市川流は、この教えと重なる。

よく知られることだが、住友林業の源流は、1691年に開坑した愛媛県・別子銅山で、坑道を支える坑木や銅の精錬に使う薪や炭の材料を供給したことに始まる。伐採のいき過ぎや鉱山からの煙害で、19世紀末には周辺の森林が荒廃したが、ときの支配人の伊庭貞剛が再生に大造林計画に着手。多いときには年100万本を超える植林を重ね、甦らせた。

木の素晴らしさを守る「爲千秋計」には、この植林が不可欠だ。でも、苗木が全く足りない。全国で、植林を支援したい。その思いも、若いときから胸中にあった。

やはり社長就任から3年目、宮崎県日向市で、スギの苗木の育成を始めた。いま、約20万本の規模。独自の技術で、培土を入れた専用の容器で、土付きの「コンテナ苗」もつくっている。従来の土なし苗と違い、年間を通して植栽が可能で、作業も楽になった。

翌年には、岐阜県が公募した苗木の安定確保事業に採用され、昨春に協定書を締結した。育種地の造成から始め、初年度は約5万本を植えた。3年後には多様な品種で20万本とし、無花粉のスギも植える。2023年には年100万本規模とする目標で、育った木は伐って県内で販売する計画だ。

2041年は創業350周年。そのころには世界一の森林会社になりたい、が口癖となった。木材の世界は、周期が長い。「爲千秋計」に、終わりはない。

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住友林業社長 市川 晃(いちかわ・あきら)
1954年、兵庫県生まれ。78年関西学院大学経済学部卒業、住友林業入社。89年シアトル出張所課長補佐、95年海外部次長(アムステルダム駐在)、96年シアトル出張所長、2002年国際事業部長、07年執行役員経営企画部長、08年取締役常務執行役員。10年より現職。

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(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)