私学4強がそれぞれの力を示すも、微妙に勢力構図の変化し混戦の様相(愛知県)

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 高校野球ファンの間で、一番の名門校はどこだろうかという議論はしばしなされることがある。もちろん、この議論には様々な意見もあるだろうが、戦前からの実績を含めて通算すればやはり中京大中京ということになるだろう。

「甲子園で勝つよりも愛知県で勝つ方が難しい」と言われた戦前の愛知野球

甲子園優勝の原動力となった堂林翔太投手

 中京商として多くの不滅の記録や歴史を作ってきたが、春夏連覇を果たした翌年の1967年に中京高と校名変更している。さらに現在の校名、中京大中京という呼び名となったのは1995年。

 中京商時代に春夏合わせて10回の全国優勝を果たしていたのだが、その後、やや低迷時代もあった。それでも、97年春には新しい校名で準優勝を果たして、ようやく全国のファンに認知させることができた。そして、09年には堂林 翔太(広島)投手らを擁して夏7回目の全国制覇を果たした。なんと、43年ぶりのこととなった。

 ユニホームも、伝統の立て襟に活字体のデザイン文字から代わって、胸に筆記体で「Chukyo」と書かれているようになったが、2000年を超えて以降、甲子園に安定して出場をするようになって、このユニホームもすっかり定着してきた。

 いずれにしても、甲子園通算133勝46敗という数字は勝利数で2位のPL学園に37勝差をつけており圧倒的だ。全国制覇11回という数字も全国一である。この数字だけでも、やはり中京大中京が全国一の名門校といっていいであろう。学校には、その実績を示すかのように「栄光室」という部屋があり、優勝旗や代表旗のレプリカなどが所狭しと陳列されている。校名変更から、学校の共学化などの影響もあって、一時的な低迷期もあったが、やはり「天下の中京」は健在である。

 また、中京大中京の浮き沈みを横目にしながら東邦、愛工大名電、享栄といったところがしのぎを削ってきていたのが愛知県の勢力構図だ。

 戦前の愛知県は最初、愛知一中(現旭丘)がリードして愛知四中(現時習館)と競っていた感があった。ところが、昭和に入り中京商の台頭で、東邦商、享栄商に愛知商の4校が“愛知の4商”と呼ばれるようになった。県内だけではなく、東海地区はもとより全国でも恐れられた。中京商が31年から夏不滅の3連覇を達成し、38年春に中京商1対0東邦商、41年に東邦商5対2一宮中と二度も甲子園で愛知県同士の決勝を戦ったこともあった。まさに、「甲子園で勝つよりも愛知県で勝つ方が難しい」とまで言われた時代である。

 戦後になると、さすがにそこまでのことはなくなったが、それでも野球王国愛知という立場は変わりなかった。ところが、その一つのピリオドとなったのが、66年の中京商の春夏連覇と翌年の校名変更だったという気もする。

[page_break:「市内私学5強」の時代から現在の勢力地図へ]「市内私学5強」の時代から現在の勢力地図へ

愛工大名電時代の堂上直選手

 平成になった1989年、やっと東邦が春に強い伝統の味を見せて48年振り4回目の優勝を果たしている。阪口 慶三監督にとっては、77年夏(この時の森田 泰弘主将は東邦高校現監督)、88年春に続いて3回目の決勝進出で、やっとたどり着いた栄冠だった。

 38年間東邦で指導を続けていた阪口監督が、04年夏を最後に勇退し隣県の大垣日大に異動したことは愛知の高校野球地図にも大きな影響を与えるかと思われた。しかし、後任となった森田監督は就任直後の秋季大会で実績を上げ、05年早々に甲子園出場を果たし、甲子園でも2勝してニュー東邦をアピールした。その後は08年夏、14年夏に出場を果たし、16年春にも出場している。

 中京大中京、東邦と戦前から競い合っていた享栄に新しい勢力としての愛工大名電(名古屋電工→名古屋電気を繰り返して83年より現校名)の4校が“市内私学4強”として現在も愛知県の高校野球の中心である。80年代にはこれに愛知を加えて“市内私学5強”と言われていたこともあった。

 いずれにしても愛知県の高校野球はこれらの名古屋市内の私立高校が圧倒的にリードし続けていた。

 そんな勢力構図も、ここへきて微妙に変化が生じてきている。かつては、三番手的な位置づけだった愛工大名電が、04年春に初めて甲子園で決勝進出。敗れはしたものの、そのバント技術はかつての強打名電の荒削りな印象を完全に払拭するものだった。そして、翌年はバント、走塁にさらに磨きを上げながらも、従来のパワー打撃も復活して、堂々の試合ぶりでついに悲願の全国制覇を達成。ちなみに、前年準優勝校が翌年優勝という快挙は、88年〜89年春の東邦以来ということで、いずれも愛知県というところも因縁めいている。

 若干後退している印象のある享栄は柴垣 旭延監督が就任して80年代前半には藤王 康晴、近藤 真一と相次いでドラフト1位指名を受けるような選手を擁して台頭。しかし、00年春を最後に甲子園からは遠ざかっている。

 そして、後ろからは、11年夏に初出場を果たした至学館や、14年春に初出場ながらベスト4まで進出した豊川、06年春に初出場した愛知啓成などが追い上げてきている。さらには春日丘や愛知産大三河、愛知産大工に栄徳、誉、桜丘といった勢力も東海大会出場を果たして追随してきている。

 圧倒的に私学優勢の構図となっているが、公立校で気を吐いている筆頭格の豊田西や大府、刈谷、そして東三河の公立校のリーダー的存在で08年には小川 泰弘投手(ヤクルト<関連記事>)を擁し21世紀枠代表校となり、甲子園初勝利を挙げた成章。また、15年春に21世紀枠代表校となった豊橋工も健闘している。

 続く中堅私学勢力としては大同大大同や杜若、豊田西で実績を作った平林 宏監督が就任して2年目となる星城、中日の田島 慎二投手を輩出している中部大一、弥富から校名変更した愛知黎明などもいる。

 地域的には大府の一人勝ちだが、県全体ではやや勢力的には劣るのは否めない知多地区では、一時は東京大に5人もの選手を送り込んでいた半田にも期待したい。福谷 浩司(中日)の出身校横須賀も健闘している。

(文:手束 仁)