れいめい高等学校(鹿児島)【前編】

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屈辱の敗戦から学ぶ「キャッチボール」からの再出発

「あそこで負けたことが、逆に『良かった』と言えるようにしたいです」れいめい・湯田 太監督は負け惜しみでなくそう言い切る。春の九州大会鹿児島県予選で、第4シードだったれいめいは、準々決勝で神村学園に1対11の5回コールド負けを喫した。プロも注目する好投手・太田 龍(3年)を擁し、センバツに出場した鹿児島実にも勝るとも劣らぬ潜在力を秘め、優勝候補の一角と目された前評判は完膚なきまで覆された。

 振り返れば15年春以降、試練続きの1年だった。昨春、20年ぶりに鹿児島の頂点に立ったが、第3シードで臨んだ夏は徳之島に4対7で敗れまさかの4回戦敗退。センバツを目指した昨秋は準々決勝で強豪・鹿児島実に2対3の1点差で競り負けた。春の神村学園戦も合わせれば、3度屈辱の敗戦を経験したことになる。だが、湯田監督をはじめ、ナインは現実を冷静に受け止め、地に足をつけた確実性の高い野球を追求し、夏の捲土重来を虎視眈々とうかがっている。

4強の一角

インターバル走で走り込み(れいめい高等学校)

 全国でも珍しい平仮名校名のれいめいは薩摩川内市にある北薩地区の強豪校であり、1980年夏、前校名の川内実時代に甲子園出場も果たしている。2010年秋からチームを指揮し、就任6年目になる湯田監督が生まれた年で「因縁を感じます」と母校で指揮する想いを語る。鹿児島実や尚志館と同じ川島学園の設置校で、湯田監督の恩師である今村 哲朗監督に率いられた90年代の頃は、甲子園出場こそないものの、鹿児島実、樟南、鹿児島商の「御三家」が甲子園を独占していた時代にあって、その次に位置する強豪校だった。

 日本ハムで活躍する飯山 裕志は湯田監督の1つ上の先輩。湯田監督の現役時代の前後は「県でベスト4に入るのは当たり前。公立校に負けることは考えられない。同じような私学のチームには絶対に負けたくない意気込みでやっていました」(湯田監督)。

 だが2000年代に入って、新興私学・神村学園の台頭を契機に、鹿児島球界の勢力図は大きく様変わりする。05年春センバツで神村学園が初出場準優勝を成し遂げたのを皮切りに、鹿児島工(06年夏、08年春)、尚志館(13年春)、大島(14年春)、鹿屋中央(同夏)と私学、公立を問わずに甲子園初出場校が誕生し、新興勢力が台頭した。一方で、れいめいは臥薪嘗胆の時代となった。気が付けば06年夏以来9年間、春秋の九州大会に限れば99年春以来実に16年間、15年春に優勝するまで4強以上から遠ざかっていた。

 ちょうどそれは、湯田監督が卒業して以降に重なる。崇城大(熊本)に進学し、1年間、別の学校で期限付き教諭をしてから母校の教員になった。れいめいの教員としては12年目を迎え、その間、恩師・今村監督の下でコーチ、部長などを務めて野球部にも関わり続けている。湯田監督が選手だった頃に比べて、この間の選手たちの能力が特別に落ちたという印象はない。ただ「我々の頃に比べれば、公立にも推薦制度ができて、いろんなチームが『侮れない』と感じられるようになった」

 筆者もちょうど鹿児島実に杉内 俊哉(巨人<関連記事>)、川内に木佐貫 洋(元オリックス)がいた「松坂世代」の頃から鹿児島の高校野球を見ているが、どの大会の展望を書く時も優勝候補、注目校としてれいめいの名前は挙げていた。甲子園や九州大会などの結果は残せていないが、たまに見かけた試合の中でのインパクトが強い。

 無死で走者が出れば初球で確実に送り、シュアな打撃で返す。二塁から本塁に生還する際は最短距離を通るそつのない走塁ができる…今村監督時代から続く「強打」「攻撃野球」=れいめいのイメージは脈々と受け継がれていた。「力は持っているのに、『ここぞ』という勝負をものにできない」(湯田監督)ジレンマに向き合う日々だった。

[page_break:「火ノ浦効果」]「火ノ浦効果」

古賀 智司主将(れいめい高等学校)

 新入生も加入し、3学年そろった現時点での部員数は女子マネジャーも入れて68人。毎年20人前後が入部してくるが、今年は30人と例年以上の新1年生が入ってきた。「『火ノ浦効果』でしょうかね」。湯田監督は今年卒業した前主将・火ノ浦 明正(専修大)の名前を挙げる。15年春、長く破れなかった4強の壁をも乗り越え、余勢を駆って95年春以来20年ぶりの優勝に、リードオフマン、主将として、群を抜く存在感を発揮した火ノ浦の存在が大きかった。

 出水市の高尾野中出身、左のスラッガーは1年夏から5番を打つ非凡な才を持っていた。打力もさることながら「先輩の誰も、彼が中軸を打つことに異を唱えない」(湯田監督)ほど、努力家であり、一目置かれる人間性を備えていた。

 中心学年になってからは当然のごとく主将を務めた火ノ浦だったが、秋に右ひじを痛め、1月に手術し、約3カ月間、練習がほとんどできない時期があった。打線の牽引車であると同時に、守備でも中堅手で外野の要が満足に練習できないのはチームにとっても大きな痛手だが「みんなで火ノ浦さんをカバーしようという雰囲気があった」と現主将でそのチームでもセカンドのレギュラーだった古賀 智司(3年)は言う。

「大事な時期に練習に出られなくて申し訳ない」。練習後のミーティングで毎回のように火ノ浦が語っていたことを湯田監督は覚えている。3カ月間、上半身を使ったトレーニングや野球の練習はほぼできない中、外野で黙々と走る火ノ浦の姿があった。

 大会前、試合に出られたのは練習試合の1試合、2打席のみで迎えた春の県大会。「もともと飛距離を出せるタイプじゃない」(湯田監督)打者が大会6試合で4アーチを放ち、20年ぶりの優勝の原動力になった。「『みんなで火ノ浦をカバーしよう』と言っていたのに、終わってみれば火ノ浦1人にみんなが引っ張られた大会だった」と湯田監督は振り返る。

 15年夏は火ノ浦主将のチームで35年ぶりの夏の甲子園を目指したが、前述したように4回戦で徳之島にまさかの敗戦を喫する。この敗戦で湯田監督が臍(ほぞ)をかんだのは「1球の怖さ」だった。

 エース杉安 浩が初回、4番・立山 真輝に打たれた先制のセンターオーバー二塁打の1球だ。タイミングを狂わされながらもバットに当てて打ち返された。このボールを筆者は杉安が得意とするチェンジアップだと思い、打った立山もそう話していたが「あれは抜けた直球が不用意にど真ん中に入ってしまった」と湯田監督は言う。「なぜあのボールを投げたのか、捕手が投げさせたのか、根拠のない」1球だった。それがたまたま抜けてしまってタイミングを狂わすことはできたが、見事に弾き返されてしまったことで相手は勢いづいた。れいめいはそのボタンの掛け違えを最後まで修正できないまま、4回戦で涙をのんだ。

 前編では昨年の火ノ浦主将を中心にチームが結束し、春の県大会で優勝した軌跡を振り返りました。後編では、春の県大会から現在に向かっている様子をお届けします。

(取材・文/政 純一郎)

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