しかし、ひとつだけ違った景色があった。
 
 レバノン代表がグループリーグで敗退して以来、閑古鳥の鳴いていたベイルート・スポーツシティには、この日、決勝トーナメントに入って初めて、5万を超えるであろう人々が詰め掛け、シートを埋め尽くしていたのだ。さらに言えば、その7割方がサウジを後押しするためにやってきた人たちである。
 
「どっから出てきたんですかね」
 森岡はそう回想する。
 
 とはいえ、日本の選手たちに気負いはなかった。アジアチャンピオンを決める試合で、初戦の汚点を帳消しにしておきたいサウジのメンバーも、観客の有無にかかわらずモチベーションは高かっただろう。ただし、サウジのホームと化した環境が何かに影響をもたらしたとすれば、それはレフェリングだけだろうか。
 
 キックオフと同時に、サウジは2週間前には影を潜めていた本性を剥き出しにしてきた。狙いどころは浅い最終ラインの裏のスペースで、彼らの研究の跡もうかがえる。手ごわい。
 
だが、主力の稲本を欠いていた日本も、過去5戦のなかで培ってきたアグレッシブな攻撃を仕掛けていく。とりわけ、左サイドで名波や中村にボールが渡ると、2トップに森島を加えた3人が一気にスペースへと動き出すパターンが定着していて、これが、効果を発揮していた。
 
 6分には中村のクロスから森島が決定的なシーンを迎えている。ただ、サウジと比較すると、わずかにブルーのユニホームの動きは重いように見える。2トップの動き出しがワンテンポ遅れていて、決勝進出の功労者である高原もサウジのチェックを完全に振り切れていない。
 
 そんな立ち上がり、まずサウジが願ってもないシーンを迎えた。右サイドからコントロールされたクロスが、ファーサイドへと軌道を描く。スペースのカバーに入った森岡は歓声のせいで「周りの声が全然聞こえなかった」という。ここへアルメシャルが忍び寄る。森岡はこの予期せぬ事態に、ファウルを犯した(イエローは望月に提示された)。
 
 PK-―。
 
 敢えて仮定の話を持ち込むなら、このPKが決まっていたとするなら、きっと日本の勝利は風前の灯火となっていただろう。しかし現実は違った。キッカーのファラータはポスト左へとキックを逸らしたのである。
 
 相手のミスに救われた日本は、その後、守備陣を完全に崩しきれないまでも、FKを得ることでサウジゴールを脅かしていく。そして、これまでがそうであったように、セットプレーから貴重なゴールが生まれた。
 
 29分、「高さにうまく反応してくるGKだから逃げていくようなボールにした」という中村のキックは、思惑どおりアルデアイエをゴール前に張りつけたまま、ファーサイドへと向かう。ボールを捉えきれなかった高原の後ろには、望月がいた。「なぜおまえがそこにいる?」。周りの選手は、そういって彼を祝福したという。
 
「タカ(高原)がかぶればオレがフリーだなと思って」
 
 そのまま試合は1-0でハーフタイムを迎えた。過去5戦、結果を残せずに苦悩してきた男は、大仕事をやってのけた。
 もうひとり、今大会を通して波に乗り切れていない男がいた。このところ、楢崎に正ポジションを奪われていた彼は、顔ぶれの頻繁に変わった最終ラインとの連携に悩み、アピールしようのない対戦相手のレベルに肩を落とし、本領を発揮できない自分に戸惑ってもいた。ところが、アジア王座が懸かった大会のクライマックスで、歴戦の守護神がトルシエジャパンを救った。
 
 川口能活――。
 
 前半のPKシーンのことである。チームが窮地に陥ったこの場面で、DFの松田がなぜか満面の笑みで川口にささやいた。「おいしいとこ、もってくよな」。川口は救われたという。結果的にPKは相手のミスに終わったが、このひと言が、後半のファインセーブ連発の布石となった。