トマソン観測センター鈴木会長、飯村さんインタビュー(1)

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 いよいよ超芸術探査本部トマソン観測センター(以下「トマソン観測センター」)主催「大トマソン展」の開催日、11月1日まで間近となって参りました。 今回は、以前の吉野忍さんに続いてトマソン観測センター会長鈴木剛さんと、赤瀬川原平著『超芸術トマソン』の表紙を飾る"煙突男"こと飯村昭彦さんのインタビューをお届けします。
 謎に包まれたトマソン観測センター、その足取りや「大トマソン展」についていろいろとお話を伺ってきましたので、どうぞ。

鈴木剛
1957年、東京生まれ。地道で求道的とも思えるその観測姿勢をかわれて、トマソン観測センター誕生とともに会長に就任。

飯村昭彦
1954年、東京生まれ。写真家。近づくのさえはばかられた「谷町エントツ」の頂上に立ち、恐怖の大俯瞰写真を撮影した世界初のエントツカメラマン。

写真撮影:富永泰弘
宮崎県生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業
変顔収集家として都内各地から海外まで幅広く人物の変顔を収集する写真家
また筆文字作家としてキリンラガービール広告やローソンおにぎりなどの題字を多く手がける。
http://tominagayasuhiro.com
http://namgallery.com/exhibition-event/hang-out/

トマソン観測センター:https://www.facebook.com/thomasson.center/

(1)「大トマソン展」
-今回は貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。早速ですが、今回11月1日から新宿眼科画廊で開催される「大トマソン展」の展示は、どのような内容になる予定ですか?

鈴木剛会長(以下「鈴木」) 報告書ファイルをじっくり読むためのスペースと、壁面は新作から厳選したものを並べますよ。
(注※1.これまでの全ての報告書をファイルで閲覧できるようにして、新しいものからセレクトした報告書を壁に展示します。 2.赤太郎と庇という物件にスポットを当てて特集します)
飯村昭彦(以下「飯村」) 会期中、11月10日にトマソンの公開認定会もやります。
   だから、報告書の形にしてきてほしいんです。もし出来なければ当日現地で作ってもらってもけっこうです。

-iPhoneで撮影して、ネットプリントでコンビニのコピー機から出力したものを、会場にあるハサミとノリで報告書に切り貼りして、というような形ですか?
飯村 結局写真で見せる事になりますから、カメラは問いませんけれどなるべくちゃんと写った写真が望ましいです。できるだけ写真屋でプリントしてください。なるべく長期保存できる形にしていただきたいのです。
鈴木 いいじゃないですか、そう厳密じゃなくとも。
飯村 ただ、用紙は会場にありますからね。写真だけ持って来てくださっても大丈夫です。書き方は現場でお伝えしますので。


-「大トマソン展」の目玉として、「赤太郎」と「庇」だという情報が入っているのですが・・・。
鈴木 庇「だけ」の展示は、僕の希望によるものです。これをやってから死にたいと思ってましたので。
一同 (笑)
飯村 庇の説明したら?
鈴木 なんの?
飯村 庇を何故やるのか?っていうのを。いちおう、チラシなんかにも書いたけど、庇ってたくさんあるんですよ。
鈴木 いやぁ、でも、面白いもので、そのウンザリするほどある庇だって見つけられない人は見つけられないんだよ。
飯村 でも、見始めると凄くたくさんあるってことがわかって、だんだん撮らなくなって。
鈴木 割とさ、一番トマソンっぽい物件じゃないですか。単純明快に塞がれていて。でもたくさんあるから飽きちゃうんだよね。
飯村 またか!って。
鈴木 もうちょっと捻ったのを、俺も見つけたい。
飯村 ただの庇じゃダメだ!みたいな。
鈴木 だから、それが証拠に報告書にはほとんど無い。撮りっぱなしみたいな。で、あえてウンザリするほど並べてみて、あらためて鑑賞に徹してみたらどんなものかと思っていたので。
飯村 で、それをね、考え直してみようかなって。自分達の中で、やっぱりそういう軽視ってあるから、集めてみたらまた何か違うものが見えてくるんじゃないかって。

-「赤太郎」って新しいタイプじゃないですか。どういうものなんでしょうか。
鈴木 赤太郎は・・・なんともわからんですね。
飯村 論争中ですね。審議中。やっぱりでも、トマソンってわからないものじゃないですか。いろいろこれって「なんだろう」って言った末に、「やっぱりトマソンじゃないの」っていうか・・・結局。そのようなものだと思うんですよね。

-トマソンかなぁ?どうかなぁ?の過程が面白いですよね。権威みたいなのがあって、「これはトマソンだ!これは違う!」と、そういうのだと、んー・・・んー・・・ってなるじゃないですか。
飯村 だから、そういうふうにならないようにしているんですよ。
鈴木 決まらないとこもありますよね。
飯村 うん、決まらない。

-でも、決まらないのが良いのでしょうね。
飯村 決まるものじゃないのかもしれない。何年も経ってから、あれやっぱりトマソンだったなんていう・・・。
鈴木 逆もあるよね。
飯村 うん、逆もある。
鈴木 あの時、トマソン認定のハンコ押して、どうしちゃったんだろう?ってなるよね。
一同 (笑)
飯村 会長はそれ多いみたいだけど、俺あんまり無いんだよね。

-赤太郎というものは、「いつ」「誰が」見つけたのですか?
飯村 会長でしょ。
鈴木 そう。

-最初は何年前に見つけたのですか?
鈴木 5年前の2008年だったんですけど、最近、もっと古い画像が見つかって・・・。

-えぇっ!?
鈴木 うん。お散歩写真というか、携帯でさらに4年さかのぼった姿を記録した人がいて、騒然となって・・・。

-それは騒然となりますね。
鈴木 だって赤くないんですもん。

-ええっ!?
鈴木・飯村 (笑)
飯村 頭だけねぇ、ちょっと赤いのがあって。
鈴木 赤太郎の状態でもトマソンかどうかわからないのに、赤くもない。あの姿だと、僕だと通り過ぎちゃうかもしれない。

-赤太郎の場所はどの辺なんですか?
鈴木・飯村 秘密(笑)。都内某所、とだけ。少なくともインターネット上では内緒。
飯村 持ち主がご存命だし、あまりはやしたてるのもねぇ。

-赤太郎の界隈が、みんな赤太郎をカドに配置したらトマソンじゃなくなるんですかねぇ。

飯村 それは・・・トマソン通りになるんじゃない?(笑)。
   カドに何か置くっていうのは伝染する傾向があって、その通りは大抵、何かある通りになっちゃうんですよ。物件自体に「道路に対する放射力」があるから、その力を持ちこたえるためにっていうのはあると思う。
   それは美術もそうじゃない?空間に対する力を発するわけですよ。だから当然それに対応する物を、対抗するところに置きたくなるんですよ。そういうバランスだと思う。

(2)トマソン観測センターの成り立ち

-なるほど、ありがとうございました。ところでトマソン観測センターはいつ頃出来たのでしょうか。また、そのきっかけはどんなものだったのでしょう。

鈴木 1982年の10月17日ですね。その日は母体となった美学校の考現学研究室(講師・赤瀬川原平)の実習で、渋谷から代官山まで超芸術の探査を行ったんです。で、渋谷に戻ると焼き鳥屋で反省会をしたんです。その席の雑談の中で野球の日本シリーズ中だったせいか、「トマソン」という言葉がふっと出て「超芸術トマソン」、会名は「トマソン観測センター」、「じゃあ鈴木くん、ヒマそうだから会長やんなさい」と。
・・・確か、そうじゃないかなぁ。酔った勢いというか。
飯村 でもさ、名前を決めるっていうのが前からあったじゃない。
鈴木 そこが問題だったんだよね。名前が。
飯村 なんていう名前にするか、っていう。
鈴木 ”超芸術”という課目が考現学研究室にあって、生徒は実例をいくつか教わります。まず、1972年に見つかった第1号の無用階段、通称”四谷階段”や江古田駅のエコダタイプ、それと御茶ノ水の無用門。その三つが揃ったところで、
   「じゃあ、世の中には他にも似たような現象が起きているんじゃないか?君達見つけてきなさいよ」
   って先生は言うんだけど、これがなかなか進まなかったんですよ。1980年秋から始まった考現学研究室というのは、それまでの絵文字工房から実習部門を取り去って講義主体だったので、超芸術探求が唯一実習でした。

-それは、ちなみに会長がおいくつの頃のことですか?
鈴木 23歳です。

-その頃には、飯村さんはいらっしゃったのですか?
鈴木 いやぁ、飯村さんは考現学研究室の生徒ではなくて、それこそ、知り合ったのは展覧会(1983年)の準備段階でだよね・・・美学校の後輩の長沢慎二君が引き込んだというか。
飯村 そのあとで悶える街並みという展覧会をやる前です。美学校に行っていた長沢君に話を聞いて煙突を撮りに行った僕は、生徒ではなかったので煙突の写真を組にして長沢君に持たせて赤瀬川クラスに持って行って開陳してもらったのです。そうしたらなんだこれはという事になったんですよ。

興味深いお話はまだまだ序盤ですが、続きは次回。トマソン観測センターの足跡など、トマソンの歴史をさかのぼります!

『大トマソン展』
超芸術トマソン観測センター31周年

会期:2013年11月1日(金)〜11月13日(水)
 12:00〜20:00 (最終日〜17:00まで) ※木曜休廊
主催:超芸術探査本部トマソン観測センター