『竹取物語』はほぼ推理小説といっていいほど、さまざまな日本語のトリックが潜んでいる(写真:kdshutterman/PIXTA)

英語の勉強という名目でアガサ・クリスティーをはじめ、E・C・ベントリー、アール・デア・ビガースなど、いわゆる本格黄金時代と言われる推理小説作家の作品を読みあさった時期があった。アッと驚いてしまうようなトリックはもちろんだが、事件の背後に隠されている複雑な人間関係や、不可解な心理の鋭い描写に心を奪われて、無我夢中で読みふけったものだ。

その中でよく登場するのは、時間をかけて考え抜いた計画を完璧に遂行したのに、再び犯行現場に足を運び、怪しまれる犯人。謎解きのヒントになりそうなバレバレのウソをついてしまい、自ら敗北の道を突き進む犯人も。頭では「やっちゃいけない」とわかっているのに、つい理不尽な行動に出てしまうというのは人間だから。

理不尽な行動と言えば、私は「古典愛」という変態癖を断ち切ることができず、罪悪感にさいなまれた犯人と同じように、何度もその“犯行現場”である本屋に足を運び、何度も同じ作品に手を出してしまう。ストーリーをわかり切っているにもかかわらず、巧妙な言葉にだまされ、気がつかないうちにまたしても妄想の世界にどっぷりハマっていく始末である。頭では「物語ばっかり読んじゃいけない」とわかっているのに、つい手が伸びてしまうんだもの。

作者はめちゃくちゃ日本語がうまい人

数ある作品の中、いつも私を魅了して別世界に連れて行ってくれるのは、間違いなく『竹取物語』である。

さらっと読むとシンプルなおとぎ話だが、気にも留めていなかったヒントをふと発見し、どうしてもそれを追いたくなるような気持ちになり、いつの間にか別の物語を読んでいるという錯覚に陥ってしまうほどである。

この連載でも何度か取り上げているが、毎回解釈が少しずつ異なるは、好き勝手な読み方が多く、一貫性のない著者の性格のせいもあるが、『竹取物語』がさまざまな側面を持ち、読んでいる人を惑わせてしまう作品だからというのも1つの要因である。現代まで生き残った最古の物語とされているが、その完成度の高さといい、文章の緻密さといい、作者と編集者たちの天才ぶりに感服せざるをえない。

『竹取物語』は平安初期の作品で、成立は不明だが、以前存在していた民族説話や、そのほかの口承文学が素材として使われているということは確かである。作者については、おそらく男性の上流階級の知識人、当時権力を握っていた藤原氏に対して反抗的なのでその血筋ではないなど、正確に突き止めることこそできていないが、いくつかの特徴が明らかになっている。

作者についてもう1つ忘れてはいけないのは、日本語がめちゃくちゃうまいということである。え!? そりゃそうだろう……何を今さら!と思うかもしれないが、実はそう当たり前ではない。

『竹取物語』が書かれた時代には、真名文学と仮名文学の区別が存在し、『竹取物語』は後者に分類される。「真名」は正式な文字であり、中国という異国から伝わってきた漢字のことを指しており、「仮名」はその対極にあって、仮の、とりあえず間に合わせた文字というものであった。

言うまでもなく、真名で書かれた文章はすべて正しくて本物であり、仮名で書かれた文学はプライベートの、偽りの文章であったという認識が深く浸透していた。

男性陣は仕事上必要不可欠だったため、漢字を頭にたたき込んで、ちんぷんかんぷんの文章をマスターすべく、毎日勉強に励み暮らしていた。仮名を使って日本語を書くというのはせいぜい女を口説くときぐらいしか機会がなかったので、貴女と会えなくて袖が涙でびしょ濡れだぜ的なことは、だいたいみんなパパッと言えていただろうけれど、型にはまった言い方以外は、あまりお得意ではない殿方が結構いたのではないかと推測できる。

仮名の可能性を最大限に引き出した

生まれ育った国の言語なのに……日本から、否、京都から1歩も出ていないのにニホンゴニガテだなんて、ちょっとかわいそうにさえ思えてくる、どっちつかずのバイリンガルな男たち。つまり、当時の日本文化はまれに見る言語的ディストピアにあふれていたわけである。

こうした中、『竹取物語』の作者は、二流の言葉とされていた仮名の可能性を最大限に引き出し、そのすばらしさと豊かさを証明したかったのではないか、と私は(もちろん勝手に)にらんでいる。漢文には到底表現しきれないコトバの楽しさがそこにあり、それこそが『竹取物語』が長い年月読者を魅了し続けている理由の1つだろう。

物語のあらすじは誰でも知っているが、大きく3つのブロックに分けられる。まずは「かぐや姫の生い立ちと5人の求婚者の物語」、そして「かぐや姫とミカドの淡いプラトニックラブ」、最後は「かぐや姫の月の都への旅たちとミカドや両親の悲しみ」。

最初のパートは当時の求婚制度のパロディーも含まれ、かなりユーモラスな描き方になっており、それに続くミカドのパートと親との別れのパートは、面白おかしいエピソードを含みつつ、感動の場面もいくつか用意されている。泣けるポイント、クスクス笑えるポイント、感動するポイントがすべて見事に押さえられている。

中国の話やインドの話、ムラムラする男たちと純愛を貫こうとするミカドなど多岐にわたるコンテンツも驚きだが、日本語を見事に操っているのも見逃せない。

例えば、難題その二、蓬莱の玉の枝に挑戦した倉持の皇子の話。

中国に蓬莱という山があり、そこに白金を根に、黄金を茎に、白玉を実にして立っている木があるから、その木の枝を一つ折って持って来て欲しい、というのがかぐや姫の注文。その蓬莱山は、古代中国が生み出した幻の島で、もちろん実在しない。

要領がよく、財産もある倉持の皇子は、無駄に命を落とす可能性が高い冒険に出るのではなく、みんなをだますプランを緻密に練り上げる。旅に出たと偽り、しばらく身を隠している間に、かぐや姫の描写にそっくりな品を一流の職人に作らせる。

そして完璧なものが出来上がり、ウキウキしながらそれを持って自信満々に姫の屋敷を訪ねる。それを見たかぐや姫も、竹取の爺さんも、周囲の人もみんな誰一人疑わない。そこで、近場でぬくぬくと隠れていただけなのに、ペテン師らしく、あることないことを熱く語る。

かぐや姫も驚いた話しっぷり

命死なばいかがはせむ、生きてあらむかぎりかく歩きて、蓬莱といふらむ山にあふやと、海に漕ぎただよひ歩きて、我が国のうちを離れて歩きまかりしに、ある時は、浪荒れつつ海の底にも入りぬべく、ある時には、風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなるものいで来て、殺さむとしき。来し方行く末も知らず、海にまぎれむとしき。ある時には、糧つきて、草の根を食物としき。ある時は、いはむ方なく むくつけげなる物来て、食ひかからむとしき。ある時には、海の貝を取りて命をつぐ。

【イザ流圧倒的意訳】

死んだらそこまでだ、とりあえず命がある限り旅を続けたら、蓬莱やらという山にたどり着けるだろうと思って、船を漕いでわが国から離れていきました。あるときは荒い波にのまれて死にそうになり、あるときは風に流されて、「ここどこよ!?」というところに漂着し、あるときは鬼のような怪物が出てきて私を殺そうとしたんですよ。あるときは、帰る方向も進む方向もわからなくて、遭難しそうになり、あるときは、食料が尽きて、草の茎を食べる羽目になったんですよ。あるときは、気持ち悪い怪物が襲ってきて、この私に食いかかろうとしたんですよ。あるときは、貝をとって辛うじて命をつなぐことができたんですよ。

しつこいよ!と言いたくなるようなエピソードの羅列。かなり自分に酔っている感じがありありと伝わってくる。語れば語るほど自信が付き、楽しくなっちゃってあれもこれもディテールをつけたくなった、という心理が見事に表現されている。

襲い掛かってくる得体の知れない怪物だの、海をさまよっているという設定なのに草の茎を食べただの、支離滅裂な話だけど、聞いている人を魅了してしまう話術ゆえに妙に説得力を帯びている。

あえてしわくちゃな服を着て、ついさっき謎の島から戻ってまいりましたという顔をして竹取の爺さんの屋敷を訪れ、自らでっちあげた物語を披露する倉持の皇子。興奮しすぎて語尾に力が入り、気づかないうちに手が勝手に動いちゃうみたいな光景が目に浮かぶ。爺さんは大喜び、かぐや姫は御簾に隠れて、やばい……どうしようと思いながら頭が真っ白。

よく指摘されているが、倉持の皇子の話では、過去形として「けり」よりも直接体験であることを強調する「き」という助動詞が多用されている。前頁の短い引用文の中だけで4回も出てきている。ウソゆえに事実性を強調するという表現効果を狙っているわけである。まあ……お見事!

かぐや姫と結婚したいあまり、ウソをつくのはこの求婚者だけではない。現に5人の求婚者のうち、3人もウソをついている。倉持の皇子のほかに、仏の御石の鉢を求められた第一挑戦者、石作の皇子と、火鼠の皮衣を求められた第三挑戦者、右大臣阿部御主人も、それぞれ偽物の品を持参して、かぐや姫をだまそうとしている。

倉持の皇子のウソがバレなかったのは

しかし、倉持の皇子以外の2人はすぐに見抜かれてしまう。見るからに安っぽい鉢と、火をつけた瞬間にメラメラと燃えてしまう皮衣。疑い深い性格のかぐや姫は、差し出された品を徹底的に検証し、話の信憑性を自ら確認しているが、倉持の皇子の場合はそのような検証はいっさいない。

つまり偽物を持参し、そして結局それがバレて失敗に終わる、という点においては3人とも共通しているが、重要なのは、倉持の皇子の場合、彼の作り話は失敗の原因になっていない、ということである。

報酬を求める職人が現れてウソが暴かれる訳だが、そもそもかぐや姫がなぜ疑問を持たなかったかというと、やはりこの倉持の皇子という人は話がうまいからである。

例えば島にたどり着いたときの様子は次のように語られている。

これや我が求むる山ならむと思ひて、さすがに恐ろしくおぼえて、山のめぐりをさしめぐらして、二、三日ばかり見歩くに、天人のよそほひしたる女、山の中より出で来て、銀の金椀を持ちて、水を汲み歩く。これを見て、船より下りて、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へて言はく、「これは蓬莱の山なり」と答ふ。これを聞くに、うれしきこと限りなし。この女、「かくのたまふは誰ぞ」と問ふ。「我が名はうかんるり」と言ひて、ふと、山の中に入りぬ。

【イザ流圧倒的意訳】

追い求めてきた山は何かと思うと嬉しい反面恐ろしい感じもあり、二、三日ばかり周りを散策して様相を見ることにしました。そうこうしているうちに天人の服装をした女が、山から出てきて、金の椀を持ち、水を汲みながら歩いています。その姿を発見して船を降りて、「この山は何て言う名前なの?」と聞いてみたら「これは蓬莱の山だよ」というじゃないか。それを聞いたら嬉しくてたまらない気持ちになったわけですよ。この女は「あなたは誰ですか」と聞いてきて、そして「私の名前はうかんるり」と言って、すっと山の中に消えていきました。

謎の島はもちろん、標識なんぞありやしない。そこで皇子はその島の正体を明かす天女を登場させ、それによってウソはぐっと迫真性を増してくる。出てくるタイミングもよすぎるし、島の名前だけを告げてすっといなくなるというのも変だし、名前もデタラメに決まっているが、この天女は皇子の話を裏付けるためのとっておきの小道具である。

そこまでのディテールが用意されてしまうと、かぐや姫だって一杯食わされそうになる。そして、真実を知っている読者の私たちは、その物語の中の物語を楽しみ、落とし穴はどこにあるのかな、とハラハラしながらさらにストーリーにハマっていく。

細かいところまですべて計算している

明らかにおかしいし、ところどころつじつまが合わないが、とにかく迫力のあるペテン師らしい話ぶりがこのエピソードを特徴付けている。見事な表現力を駆使して、作者はコトバに宿る力を見せつつ、臨場感あふれる、実にリアルな小芝居を実現してみせる。

対して、第一挑戦者のエピソードには和歌が多く引用され、文学青年のような仕上がりになっており、各登場人物にそれぞれの世界観があり、それぞれの話し方がある。ニホンゴでこんなことまでできるんだよと、言わんばかりだ。

神は細部に宿るというが、コトバの魔術師である作者はまさに細かいところまですべて計算している。かぐや姫は無理難題を言い渡すときの記述を改めて見てみると……

かぐや姫、「石作の皇子には、仏の御石の鉢といふ物あり。それを取りて賜へ」といふ。「倉持の皇子には、「東の海に蓬莱といふ山あるなり。それに、銀を根とし、金を茎とし、白き玉を実として立てる木あり。それ一枝折りて賜はらむ」といふ。「いま一人には、「唐土にある火鼠の皮衣を賜へ。大伴の大納言には、龍の頸に五色に光る玉あり。それを取りて賜へ。石上の中納言には、燕の持たる子安の貝取りて賜へ」といふ。

【イザ流圧倒的意訳】

かぐや姫は、「石作りの皇子には仏の御石の鉢というものがある。それを取ってきてほしい」という。「倉持の皇子には東の海に蓬莱という山があるらしい。そこで、白銀を根とし、黄金を茎とし、白玉を実にして立っている木がある。その木の枝を一つ折って、持ってきて頂戴」という。「阿部の右大臣には中国にある火鼠の皮衣をもらおう。大伴の大納言には竜の首に光る玉がある。それを頂戴。石上の中納言には燕が持っている子安の貝を取ってきてもらおう」という。

超難題の有名な場面である。どれをとってもかなり変わったブツだが、倉持の皇子の難題は、ほかとちょっと様子が違う。まず、ほかの品については「あり」となっているが、蓬莱の島についてだけ「なり」、つまり伝聞調で語っている。

また、その品だけは詳しい説明がついているが、ほかのものについては名前が記されているだけで詳細は何も語られていない。すべての注文について実在が疑わしいが、1つだけが伝聞になっているのは偶然だろうか。

その「なり」を聞いた倉持の皇子が、「かぐや姫も知らないのかよ!」とその瞬間に悟っていたとしたら……。理想の女を手に入れたくて仕方なく、ずる賢い本性が出てきたのかもしれない。聞き入れた情報に基づいて作れば、バレたりしないさ、とその場で思いついたかもしれないが、そのコトバをかぐや姫に言わせたのは……そう、作者にほかならない。

つまり最初から後の展開を読者の前にちらつかせて、さりげなくヒントを残し、緻密に準備をしていたということが考えられる。助動詞1つなのに、そこまでの含みを持たせるなんて、もうなんというか、ブラボー!

謎を1つ解いたら、次のトリックが…

そのようなカラクリが施されているのは、倉持の皇子の話だけではもちろんない。それぞれのエピソードに言葉遊び、引用、枕詞、掛詞……謎を1つ解いたら、次のトリックがすぐに用意されているという状態だ。

各エピソードを締めくくる語源話もいい例。偽の鉢を捨てた後も姫に言い寄った石作の皇子の話にちなんで、厚かましい態度を「恥(鉢)を捨つ」と言うようになったとか、貝だと思って燕の糞を握ってしまった中納言の話にちなんで「かいなし(買い無し・甲斐無し)」と言うようになったとか。

現代人が読むと、本当だと思って引っかかりそうだが、その語源は全部でたらめらしい。音と文字を組み合わせて、ストーリーのコミカルな側面をさらに強調し、真実であるかのようにスラスラと書き連ねるなんて、誰にでも簡単にできることではない。

実際何を伝えたかったかを本人に確認できないのだから、『竹取物語』を先取りのSF小説として読んでもよし、最高のエンターテインメントとしてクスクス笑いながら楽しんでもよし、当時の社会への辛辣な風刺小説として解釈してもよし、ミカドの純粋な恋や娘を喪った親の悲しみに涙を流すことももちろんできる。

しかし、そのすべてはいっさい抜けのない、完璧なコトバによって実現されている、というのはどの解釈を選んでも看過できないポイントである。

次また読んだときに、どんな世界が目の前に広がるだろう、と思いながら今からキュンキュンドキドキ。これだから、ハラハラしながら現場に戻る犯人のごとく、私もまた妄想の世界に消えていき、名探偵のごとく飽きることなくコトバの裏に潜んでいる新たな物語を探し続けるのであろう……。