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『なぜ働くのか』バリー・シュワルツ 田内万里夫・訳〈朝日出版社〉
なぜ不満を抱えながら働く人がこんなにも多いのか? TEDの人気トークをもとにした「TEDブックス」シリーズ第5弾となる本書を通じ、心理学者の著者は「働き方」を問い直す。「人間は賃金や報酬のために働く」という考え方が誤ったものであるとみなし、アダム・スミス的効率化を乗り越えるべく新たな「アイデア・テクノロジー」を提案する一冊。

バリー・シュワルツ|BARRY SCHWARTZ
1946年生まれ。アメリカ・ペンシルヴェニア州スワースモア大学教授。専門は心理学。2004年、『なぜ選ぶたびに後悔するのか 「選択の自由」の落とし穴』〈武田ランダムハウスジャパン〉を出版、『ビジネスウィーク』『フォーブス』両誌で年間ビジネス書ランキングトップ10に入り、25の言語に翻訳される。以来、同書のメインテーマについて様々な角度から各媒体で記事を執筆。05年に行ったTEDの講演を機に、ラジオ・テレビ番組にも多数出演中。

心理学者によるTEDトーク

いまではすっかり誰もが知るハイテク情報啓蒙メディアとなったTEDトークだが、人気を博したものは書籍化されている。その一冊が、本書『なぜ働くのか』だ。

著者である心理学者のバリー・シュワルツが問うのは、「なぜ、働く人びとの90%が、働くことに情熱を抱くことができないのか?」という謎だ。この問いに答えようとするのが本書の基本姿勢となる。

もっとも、もともと目の前に観客のいるTEDトークという講演内容をきっかけに書かれたものであるだけに、解決策や処方箋を提示する論考というよりも、「問題提起」に集中するプレゼン内容を拡充したものという性格が強い。そのためか正直なところ、読後感はもの足りない。端的に、やりがいのある働き方のアイデアを皆でつくっていこう、なぜなら人間は常に「未完の動物」なのだから、という終わり方。絵に描いたようなお行儀のよいリベラルな主張で締めている。今風にいえば明日に希望をつなぐ「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドなのだ。

もちろん講演の書籍化という性格から、著者の専門である心理学の研究成果については多数紹介されている。なかには個別の心理学トピックとして興味深いものもある。

たとえば、キャロル・ドゥエックの『マインドセット』の中で導入された「遂行目標」と「到達目標」の違い。「遂行」志向の子どもは、承認欲求が強く、自分のいまある能力を証明しようと躍起になるのに対して、「到達」志向の子どもは、できないことができるようになることに喜びを覚えるため、自発的に自らの能力を高めようとする。つまり学習意欲が高い。この目標設定の違いから発して、遂行志向の子どもは一般に失敗を恐れるが、到達目標の子どもは失敗をそもそも気にせず、むしろ歓迎するのだという。身近な存在で思い当たる人を見いだせそうなエピソードではないか。

かように紹介される一つ一つの研究成果には教えられるものも多い。けれども、全体の印象はと言うと、うーんと唸らざるをえないのが偽らざる気持ちだ。散漫な印象は拭えない。プレゼンで聞く分には、こうした具体例による物量作戦はもっともらしさの演出に一役買うのだろうが、それをテキストで読むとなると、よほど個々の心理学的トピックに関心がない限り、読み飛ばしがちになる。その結果、紹介されるエピソードの多くが恣意的な選択にみえてくる。立論に必要な「論理的」なものというよりも、読者の心情的共感を呼び起こし、それによって議論内容の同意まで得ようとすることが目的の、「修辞的」な理由からの選択のように思えてしまう。

ともあれ、そのような個々のエピソードについては、直接、本書を読んでもらうほうが手っ取り早いだろう。

むしろここで注目したいのは、本書全体の論調、すなわち「語り口(ナラティヴ)」を規定している、シュワルツの現代社会観の方だ。そこで鍵を握るのが、ケインズの「アイデア観」だ。シュワルツの専門の心理学ではなく、経済学の泰斗である、あのジョン・メイナード・ケインズである。

どういうことだろうか。

 

神様ケインズ

本書の扉を開くと、いきなり次のようなケインズの言葉が目に入ってくる。

「経済学者および政治哲学者たちのアイデアというのは、それが正しいとき、あるいはそれが誤っているときでさえ、一般に理解されるよりもはるかに強力である。実際、この世界のほぼすべては彼らのアイデアのもとに支配されていると言っていい。自分はその知的影響下にないと考える実務家たちでさえも、その多くがすでに亡き経済学者たちの奴隷として存在している。」

出典は明らかにされていないが、どこかで見たことがあるな、と思って確認してみたら、ケインズの代表作である『雇用、利子および貨幣の一般理論』──以下慣例に従って『一般理論』と略記する──からの引用だった。具体的には『一般理論』の最終章である第24章「一般理論の誘う社会哲学−結語的覚書」の、それこそ最後の一節(第5節)からの引用だ。つまり、ケインズが『一般理論』という著作を通じて試みたことの「締め」の言葉なのである。

そして、ここに記されたケインズの(経済学を含む)社会哲学全般に対する洞察ならびにその倫理的態度が、本書におけるシュワルツの主張を後ろ支えしている。簡単にいえば、ケインズが経済学に対して試みたことを、心理学の世界で再現しようというのがシュワルツの狙いなのだ。そのためにも、この『一般理論』からの引用についてもう少し見ておこう。極論すれば、このケインズの引用の意味さえ理解できれば、この本の狙いはわかったも同然だからだ。

少し長くなるが、前後も含めて以下に紹介しておく(なお太字は先の引用箇所に該当する部分)。

「・・・だが思想というものは、もしそれが正しいとしたら──自分の書くものが正しいと思わない著者がどこにいよう──時代を超えた力をもつ、間違いなくもつ、と私は予言する。

(中略)

経済学者や政治哲学者の思想は、それらが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である。

(中略)

既得権益の力は思想のもつじわじわとした浸透力に比べたらとてつもなく誇張されている、と私は思う。思想というものは、実際には、直ちに人を虜にするのではない、ある期間を経てはじめて人に浸透していくものである。たとえば、経済学と政治哲学の分野に限って言えば、二五ないし三〇歳を超えた人で、新しい理論の影響を受ける人はそれほどいない。だから、役人や政治家、あるいは扇動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないだろう。だが〔最新の思想もやがて時を経る〕、早晩、良くも悪くも危険になるのは、既得権益ではなく、思想である。」

(『雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉』ケインズ・著 間宮陽介・訳〈岩波書店〉、193‐194頁)

ちなみに本書冒頭の引用箇所のうち、第一文のケインズによる原文は以下の通り。

“The ideas of economists and political philosophers, both when they are right and when they are wrong, are more powerful than is commonly understood.”

ここで注意すべきは、岩波文庫訳の中にある「思想」という表現が、本書の訳では「アイデア」となっており、さらにはケインズによる原文では“ideas”と複数形になっているところ。

すなわち、思想=アイデア=ideasである。

つまり、「思想」といってイメージされるような一つのまとまった「思考体系」ではなく、もっと身近で卑俗な「思いつき」や「仮説」のようなアイデア=観念が、人びとの行動を支配してしまうということだ。しかも、それが複数形であることから、論者によって様々な考え方があることを含意している。となると「アイデア群」と訳してもよいのかもしれない。

ここで本書冒頭のケインズからの引用の意味にもどれば、要するに「アイデアの支配は簡単には拭えない」こと、そして、その「アイデアの支配が完成するには相応の時間が必要なこと」などが示されている。

ちなみにここでケインズがイメージしている「古いアイデア」とは、経済学において彼の師匠にあたるアルフレッド・マーシャルが創設した「ケンブリッジ学派」と呼ばれる経済学の流儀を指す。引用の中にある「それと知らぬ間に慣れ親しんでしまっていた経済的なアイデア」とはマーシャルたちケンブリッジ学派のものを指している。ケインズはこのケンブリッジ学派に対して『一般理論』で挑戦し、不況期に政府が積極的に財政出動することで有効需要を刺激する、いわゆる「ケインズ経済学」を生み出した。つまり、ケインズは、自ら新たな「アイデア群」を提案することで、旧来の「アイデア群」の支配を薙ぎ払ったことになる。

こうしたケインズの「アイデア観」に触発され、「アイデアによる心理/思考支配」に対して、シュワルツが新たに提起したのが「アイデア・テクノロジー」という概念=アイデアである。

アイデア・テクノロジー

「アイデア・テクノロジー」とは、アイデアが社会のあり方を規定するという理解に根ざす。その説明に紹介されるのが、偶然にも前回のカンナ本のレビューの時にも登場した映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の中の“If you build it, he will come.”という言葉だ。「それをつくれば、やつはやって来る!」というアレだ。

実物である「モノのテクノロジー」と違って、アイデアは容易には淘汰されることはなく、仮に「悪い」アイデアであっても生き残る。そして、その「悪い」アイデアも、社会学で言う「予言の自己成就」的な再帰性──複数の場所/時点で同時多発的にフィードバックが何回も起こることで、いつの間にか人びとの間で真実性を帯びたものとして社会に流通し、人びとの行動を水路付けてしまうこと──によって、社会的「事実」へと転じてしまう。

要は、言ったもの勝ち。

「アイデア・テクノロジー」とは、簡単にいえば「イデオロギー」のことなのだが、シュワルツの用語法では、この「イデオロギー」という言葉は、社会によからぬことをもたらす「悪い」言説のことに限定して利用されるため、アイデア=観念が人びとに行動を水路付ける特性/機能を、中立的に表明するために「アイデア・テクノロジー」という呼称を使っている(ちなみにイデオロギーは英語では「アイディオロジー」なので言葉の響きとしては「アイデア・テクノロジー」との間にもっと近接感がある)。

だから、「アイデア・テクノロジー」には、「よいアイデア・テクノロジー」もあれば「悪いアイデア・テクノロジー」もある。そして、「悪いアイデア・テクノロジー」を、シュワルツは特に「イデオロギー」と呼ぶわけだ。とにかく、人々の行動を水路付ける「アイデアの効果」が「アイデア・テクノロジー(観念の技術)」である。

この「アイデア・テクノロジー」の源泉が、ケインズの「アイデア観」だ。シュワルツは、ケインズが経済学で試みた「アイデア」による旧弊打破、すなわち社会改革を、同じ社会科学の一分野である心理学(さらには社会学)でも展開しようとしている。「アイデア・テクノロジー」という造語を用意してまでやりたかったことがこれなのだ。

マルクスのイデオロギー分析や、(アメリカ社会学者の始祖の一人である)ロバート・マートンの有名な「予言の自己成就」説を引き合いにしているのも、ミクロなレヴェルで、すなわち個人を取り巻く身近なレヴェルで──たとえば「職場」でも──「アイデアによる支配」が進行しうることを表したいからなのだろう。もちろん、そのような見えない(世間的な)呪縛から自由になるべきだ!というのがシュワルツの主張である。

経済学と同じく社会科学の一部門である心理学の研究者であるシュワルツからすると、このケインズの旧弊打破の心意気を、労働をめぐる支配的アイデアにおいて試みようというのが、本書の狙いなのだ。

そして、シュワルツが打破すべき「旧弊」として取り上げているのが、いわゆる「組立ライン的」労務管理の合理性というイデオロギーである。そこでシュワルツが蛇蝎のように嫌うのが、組立ライン的労務管理の原型として「分業体制」に初めて言及したアダム・スミスである。

シュワルツからすれば、アダム・スミスこそが、現代のガチガチの業務規程、労働管理の職場を生み出した元凶だ、ということになる。敵はアダム・スミスなのだ。

1929年のフォード自動車工場。フォードによって確立された大量生産システムは「フォーディズム」と呼ばれる。PHOTO: Mary Evans Picture Library/AFLO

 

悪魔のアダム・スミス

アダム・スミスは、彼の主著である『国富論(諸国民の富)』で「分業」を経済的繁栄の手段とし取り上げたのだが、このスミスが指摘した分業体制が、今日、アセンブリライン(組み立てライン)による機械的工場を世界中にもたらした元凶であると、シュワルツはみなしている。

もちろん、20世紀に入って実際にアセンブリラインを考案し、大量生産体制をもたらしたヘンリー・フォードや、そうした生産体制の理論化を『科学的管理法』という著作の中で試みた経営学者フレデリック・テイラーにも言及はしている。大量生産体制の説明に「フォーディズム」や「テイラーイズム」といった言葉がしばしば使われることを思えば、チャップリン演じる『モダンタイムス』的世界の生みの親はフォードやテイラーになりそうなものなのだが、どういうわけか、本書の中ではシュワルツは、執拗なまでにアダム・スミスこそが諸悪の根源とみなしている。最初から最後までスミスを非難し続けるのだ。

ちなみに、フォードがアセンブリラインを考案してまで自動車の大量生産を実現したのは、そうして規模の経済を発揮することで、自動車の価格を下げ、できるだけ多くの人びとが自動車を購入できるようにすることを企図していた。社員でも購入できる自動車、という考え方だったはずだ。

テイラーの合理化とは、『科学的管理法』の中で示された「テイラーシステム」のことであり、具体的には、業務の管理、業務の標準化、業務管理に最適化した組織形態の模索/採用の、三つからなると言われる。

さらには、こうしたテイラーシステムの妥当性を、働く側の心理状態の側から証明してみせたのが、心理学者のバラス・スキナーだったという。スキナーは〈刺激‐反応〉で行動のあり方を見る「行動心理学」を提唱した。(ちなみに、この行動心理学の流れは、現在、経済学に組み込まれ「行動経済学」が誕生している)。

シュワルツが心理学者であることを考えると、このスキナーへの関心から、テイラー、フォード、アダム・スミス、と遡ったのかもしれない。

ともあれ、スミスは、本書の中では終始悪役である。だが、ある程度経済学を知るものからすれば、さすがに行き過ぎで、濡れ衣のような扱いだと思われてならない。

スミス批判の是非

実のところ、本書執筆前にシュワルツには、堂目卓生『アダム・スミス』、もしくは、ラス・ロバーツ『スミス先生の道徳の授業』あたりを読んでいてほしかった。多分、そうしていれば、ここまで極端なアダム・スミス観は生まれなかったように思えるからだ。

アダム・スミスが「分業」の議論で「利得(インセンティブ)」に触れるのは、愛や慈悲心といった宗教心(=キリスト教の教え)に頼らずに、あくまでも世俗的な世界の原理──ここでは「利得」──を使って社会を豊かにするにはどうしたよいか、という問題意識があったからだ。18世紀の啓蒙主義という社会環境の下での提案だった。第1回のフンボルト回でも記したように、啓蒙主義とは、世俗権力が教会権力に取って代わろうとする動きに支援された思潮だった。

それに、スミスがいう「分業」は「市場を通じた分業」の方に力点があり、アセンブリラインのような「雇われ人たちによる企業内分業」のことだけを意味しているわけではない。スミスの時代には、そこまでの巨大企業は登場していないし、一般化もしてはいない。市場参加者の多くは、何らかの組織には属しているだろうが、現代の企業のような組織的縛りがあったわけでもない。

そうしたスミスの時代の状況に対する配慮を欠いたままで、スミスの分業論を、現代社会のアセンブリラインの労働疎外の元凶として貶めようとするのは、現代の価値基準や判断基準を過去に投影して断罪する、一種の遠近法的錯誤といえるだろう。

加えてスミスが願った、労働に対する対価を得て、市場で必需品/嗜好品を購入することの意義を軽視しているようにも思える。達成感という点では、それもまた幸福の源泉の一つだったはずだ。

アダム・スミスが何であれ「インセンティブで処理する」経済社会を生み出したと言うのだが、最後まで読み進めても、「では、どのような働き方が望ましいのか、その望ましさを支える理屈なり価値観はこういうものだ」といった提案が出てくるわけでもない。ただただ「やりがい」のある仕事を人びとが得るためには、アダム・スミスが発祥となった「インセンティブ」重視の「イデオロギー」を書き換えなければならないのだ、と指摘しているだけだからだ。「インセンティブ重視のアセンブリライン的に配置され管理される」労働観といった「イデオロギー」を書き換えて、主体的な労働をできるようにデザインすればよい。そう指摘するに留まっている。

おそらくは、このような終わり方をするために、わざわざ「アイデア・テクノロジー」という概念を提唱し、いまある社会的事実としての労働観は変更可能、上書き可能なものであることを指摘していた。そうして、人びとが、主体的に「新たな労働観」という「アイデア」を設計/デザインし流布させれば、現在の「働き方」を変えることができる、と主張することができた。

つまり、『なぜ働くのか』というタイトル──原著も“Why We Work”なので同じ──で投げかけた問いに対して、一言で言えば「やりがい」が大事だ、と答えているに過ぎない。

この2冊の書籍は、『道徳感情論』の読解を通じてスミスの人間観や社会観を明らかにしている。PHOTOGRAPH BY DAIGO NAGAO

 

エンゲージメントへの深い期待

補足すれば、シュワルツにとって望ましいのは、仕事と個人との間に「主体的関わり」があること、すなわち〈エンゲージメント〉があることだ。ここで、「主体的」というのは、仕事に対して「自主性」「希望」「やりがい」「熱意」をもって取り組むことをいう。そのことを可能にする職場環境を広めていくために、(アダム・スミス流ではない)新たな「働き方」観を、社会的に涵養していくことが大切だ、という。

しかも、彼が主張する「やりがいのある仕事」は、ジョブでもキャリアでもなく「コーリング」だ。この「コーリング」には「使命」という訳があてられている。だが、ここは素直に「召命」ないしは「天職」とでも訳しておくべきところだろう。要するに、神様=イエスが与えてくれた「天命」、つまりは生涯をかけるべき「仕事」である。それによってその人の人生の成果が問われるような「仕事」であることが大事になる。

つまり、極めてキリスト教色の強い、というかプロテスタント色の強い言葉であり、シュワルツの理想とする労働観の背後には、キリスト教的な勤労倫理があることが示唆されている。

だが、この点が、シュワルツの主張に疑問を抱いてしまうところでもある。

というのも、シュワルツが、アセンブリライン的労働環境を世の中にはびこらせた元凶と考えるアダム・スミスも、時代背景を考えれば、キリスト教的な調和ある世界観を前提にして思考していたと思われるからだ。

いわゆる「見えざる手」によって経済市場に均衡=調和が現れると考えているし、なにより、スミスには、『道徳感情論』という人間の「共感」について記した本もある。共感を得るためのモデルとして「公平な観察者」という概念まで提案している。もちろん、シュワルツはこの著作にも触れているが、しかし通り一遍の言及で終わっている。となるとむしろ、心理学者のシュワルツが、このようなスミスの「人間心理」を扱った部分の扱いを型どおりに済ませていることのほうが気になってくる。

少なくともスミスが記した「分業」の重要性は、そうすることでより多くの生産が可能になり、皆が豊かになるだろう、という意図の下で、18世紀後半の、ようやく第一次産業革命と呼ばれる初歩的な機械やエネルギーの利用が可能になり始めた時代に提案された「アイデア」であったはずだからだ。

だが、シュワルツはそれを認めようとはしない。

労働意欲を失わせるような機械的な業務を社会に定着させたのはアダム・スミスが広めた「分業」のイデオロギーのせいである。こうしたアダム・スミスに対する呪詛が手を変え品を変え、この本の中には現れる。こうしたアダム・スミスへの偏った言及が現れるたびに、この本における主張に少なからず疑念を覚えてしまってもおかしくはないだろう。

というのも、シュワルツの主張とは、ざっくりいえば、アダム・スミスが啓蒙主義時代の風潮に則って、伝統的なキリスト教的価値観から離脱するべく導入した「世俗化」のベクトルを、再び反転させ、職場に「エンゲージメント」という「愛」や「共感」といった、かつてのキリスト教的な価値観を再導入しようとするものだからだ。

つまり、「世俗化」に代えて「宗教化」ないしは「霊性化」のベクトルを再導入しようとしている。

もちろん、この「霊性化」の要請に答えるのは、何もキリスト教的な価値観だけに限らない。たとえば、昨今のシリコンバレーであれば「マインドフルネス=瞑想法」という形で、禅のような東洋的宗教/霊性を採用するトレンドがある。キリスト教的な神や聖書に帰依するのではなく、あるいは、心理カウセリングに頼るのではなく、瞑想を通じて、自らが自らのカウンセリング役を務める。そうして自分の力で自分の今ある殻を見極め、時にそれを破って新たな視点を得ようとする。

こうした動きは、60年代のカウンターカルチャー以来の東洋的なスピリチュアルなものへの志向が定着していた西海岸の文化的伝統があればこそのことだろう。だが、そのような伝統が見当たらない西海岸以外の地域ではどうだろう。そこでは、世俗化によって開いた宗教的/霊性的「空白」は何によって埋められるのだろうか。

ここで多少の飛躍があることを承知の上でいえば、たとえばその空白を埋めたものの一つが、昨年のトランプ旋風だったとはいえないだろうか。というのも、21世紀に入ってからアメリカでも若者を中心に宗教離れ、つまり世俗化が進んでいると言われているからだ。世俗化による精神的空白を埋めるものとして、政治的熱狂がハマってしまうということもあるのではないか。その意味で、トランプの支持者の中に、西海岸でも南部でもなく、どちらかと言えば合理志向の中西部、五大湖周辺の人びとが存在していたことは示唆的だろう。

トランプ大統領への批判が強まる一方で、一定数の支持者が存在することも確かだ。PHOTO: AP/AFLO

 

意外とポピュリズムもここから?

さらにもう一段飛躍すれば、世俗化した社会で、宗教的安寧も霊性的代替物もない人たちが、メディア、それもソーシャルなウェブを通じて盛り上がるものが、世にいう「ポピュリズム」だと言うこともできるのかもしれない。

となるとシュワルツのように、理想的な原則は掲げるものの具体的な処方箋はないという「お預け」の姿勢がトランプ現象につながったとはいえないだろうか。読後の物足りなさ、すなわちオープンエンドな感じに、このような懸念も抱いたのだった。むしろ、こうしたシュワルツ的主張が生み出されやすいのが、現代の状況なのかもしれない。

この状況をもう一段高いところから見るならば、ビッグデータの時代は、「アイデア・テクノロジー合戦」の時代ということもできるだろう。

データ分析とは、多くの個人の行動分析のことであり、その解析結果は、集団的なもの、社会的なものに託して解釈される。その際に核となるアイデアが必要になる。これはシュワルツ言うところのアイデア・テクノロジーの実践だ。

しかし、その核となるアイデアの部分が、分析者の個人的な経験に基づく思いつきだったらどうなるのか。恣意的なアイデアの選択だとすれば、その解釈は怪しくなる。というか、ほとんど「キャッチコピー」と変わらず、端的にデータアナリストがもつ人間解釈に関する「語彙」のストックに依存してしまう。

まさに核となるアイデアをデフォルトで何に設定するかで人びとの行動は変わってしまうわけだ。勢い、プレゼン的な「俺様語り」であふれかえることになる。そして、本書もそのように読めてしまうところがあるのだ。その意味では、TED的な、ウェブ以後の(エコーチェンバー効果に伴う)「遷ろうナラティヴ」の一つといえる。これはビッグデータ時代の隘路ないしは罠とはいえないか。

シュワルツによる本書は、心理学者というデータ解析の専門家でも、心理学以外の社会科学(本書の場合は経済学)に不案内であると、データ解釈の部分で大いに不安になることを示している。ビッグデータ時代の解析は、チーム作業であるべきなのだろう。

ある種の義侠心に駆られて本書を執筆したのかもしれないが、しかし、アダム・スミスをはじめとする経済学の理解が偏っているため、本書全体の議論についても信憑性を損ねているように見えてしまう。その意味で、本書は一つの「私見」である。

しかしこうした「私見」が飛び交うのが、またビッグデータ時代であり、ポスト・トゥルース時代である。さすがに「フェイク」とまではいわないものの、無意識のうちに忍び込む「バイアス」にどう対処すればよいのか。本書は、そのことに気づかせてくれる反面教師でもあるのだ。