写真付き年賀状の楽しみは松の内を過ぎてから
昔から年末年始になると、きまって出る「家族などの写真付き年賀状はアリかナシか」の話題。結論も昔から変わらず賛否両論で、「送る相手の立場等を考える」というマナーなどで終始しがちだ。
自分も、昔はあまり好きじゃなかったが、年齢を重ねるにつれ、一口に「写真付き年賀状」といっても、様々なパターンがあり、楽しみ方がいろいろあると感じるようになった。
年賀状の良さは、なんといっても1年に1度くること。毎年近況を文字でぎっしり書いてくれるハガキも嬉しいし、デザインや趣向を凝らしているものも面白いが、「ただ人物を写すだけ」で、伝わることの多いこと。
毎年松の内を過ぎた頃、ほぼ揃った年賀状の「変化」を追ってみる。これ以上の個人・家族単位の「定点観測」はないだろう。
たとえば、「子どもの写真」。近年は親戚付き合いなども薄くなっている家庭も多いだろうから、ほとんど会ったことのない遠い親戚などは、写真のみで「大きくなっている」「子どもが増えてる」などと確認することができる。
また、友人の子どもの写真は、成長の過程で「友人に似てきた」「ダンナさんに似てきた」「ミックスになってきた」など、時期による揺らぎがあり、その変遷を見守るのが面白い。
さらに、子ども自身の羞恥心の目覚めなどで、子どもの写真から、普通の干支の印刷などに変わる時期がやってくることもある。
家族写真の場合、毎年「間違い探し」のようにソックリななか、徐々に成長した子の顔から笑顔が消えたり、さらには子ども自身が写真から消えてしまったりする時期がくることもある。
会ったことのない子でも、「いよいよ本人が拒否したんだろうな」などとしみじみ想像をめぐらすが、案外次の年には戻ってきていたりするのも、意表をついて面白い。
また、ペットの写真も、単に可愛いばかりでなく、毎年来ると「もし、今年いなかったらどうしよう」とどこか気がかりになってくる。すると、変わらずペット写真が来るだけでホッとしてしまうし、ときにはなぜか「増えた!(もう1匹飼いはじめたなど)」なんてことも起こるから、いよいよ面白い。
もちろん毎年、淡々と一人の旅写真を送ってくる人なども、大好きだ。
マナーとしては、できるだけ送る相手に不快な思いをさせないこと、失礼のないことを心がけるのが大切。でも、「全ての人に嫌な印象を与えない無難なパターン」を考えるあまり、消極的で誰の印象にも残らない年賀状になってしまうのは口惜しい。
自分などは毎年大急ぎで雑になりがちで、「来年こそは丁寧に書こう」と思いを改めるのも、やっぱり松の内を過ぎた頃の恒例だ。
(田幸和歌子)
自分も、昔はあまり好きじゃなかったが、年齢を重ねるにつれ、一口に「写真付き年賀状」といっても、様々なパターンがあり、楽しみ方がいろいろあると感じるようになった。
年賀状の良さは、なんといっても1年に1度くること。毎年近況を文字でぎっしり書いてくれるハガキも嬉しいし、デザインや趣向を凝らしているものも面白いが、「ただ人物を写すだけ」で、伝わることの多いこと。
毎年松の内を過ぎた頃、ほぼ揃った年賀状の「変化」を追ってみる。これ以上の個人・家族単位の「定点観測」はないだろう。
また、友人の子どもの写真は、成長の過程で「友人に似てきた」「ダンナさんに似てきた」「ミックスになってきた」など、時期による揺らぎがあり、その変遷を見守るのが面白い。
さらに、子ども自身の羞恥心の目覚めなどで、子どもの写真から、普通の干支の印刷などに変わる時期がやってくることもある。
家族写真の場合、毎年「間違い探し」のようにソックリななか、徐々に成長した子の顔から笑顔が消えたり、さらには子ども自身が写真から消えてしまったりする時期がくることもある。
会ったことのない子でも、「いよいよ本人が拒否したんだろうな」などとしみじみ想像をめぐらすが、案外次の年には戻ってきていたりするのも、意表をついて面白い。
また、ペットの写真も、単に可愛いばかりでなく、毎年来ると「もし、今年いなかったらどうしよう」とどこか気がかりになってくる。すると、変わらずペット写真が来るだけでホッとしてしまうし、ときにはなぜか「増えた!(もう1匹飼いはじめたなど)」なんてことも起こるから、いよいよ面白い。
もちろん毎年、淡々と一人の旅写真を送ってくる人なども、大好きだ。
マナーとしては、できるだけ送る相手に不快な思いをさせないこと、失礼のないことを心がけるのが大切。でも、「全ての人に嫌な印象を与えない無難なパターン」を考えるあまり、消極的で誰の印象にも残らない年賀状になってしまうのは口惜しい。
自分などは毎年大急ぎで雑になりがちで、「来年こそは丁寧に書こう」と思いを改めるのも、やっぱり松の内を過ぎた頃の恒例だ。
(田幸和歌子)