大阪・マイカルタウン 茨木サティ(2001年) ©産経新聞

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 経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回は株式会社マイカルの業績について紹介したいと思います。
 マイカルと言われてもピンと来ないかもしれません。かつての「ビブレ」や「サティ」を運営していた企業です。いずれもダイエーやヨーカドーとは異なる個性的な総合スーパー(GMS)で、特にビブレは若者に支持されました。バブル期には当時最大級のショッピングモール「マイカルタウン」を開業し、小売日本一の座を狙っていたほどです。しかし90年代後半から綻びが見え始め業績は急降下、イオンに吸収合併されて企業としては消滅しました。成功続きから失敗に転じたマイカルの歴史を振り返りたいと思います。

◆総合スーパー「ニチイ」が前身

 マイカルは総合スーパーの「ニチイ」が前身です。ニチイは1963年に関西の衣料商店の4社が合併して誕生しました。発足時の規模は13店舗・年商27億円です。66年から食品・日用雑貨の取り扱いを始め、総合スーパー(GMS)となりました。当時はダイエーなどのGMSが急成長していた時代であり、ニチイも同様に店舗数を増やしました。

 1970年には70店舗を達成。年商1,000億円を達成した72年には129店舗になりました。74、75年とそれぞれ大阪証券取引所、東京証券取引所の第2部に上場し、76年には一部上場に鞍替えしました。ちなみに他業態の開発も行っており、78年にはスポーツクラブ事業の株式会社ピープル(現:コナミスポーツ)を設立しています。

◆新しい“個性派”GMSで差別化を図る

 1982年にニチイの初代社長が亡くなり、後任に小林敏峯氏が就任しました。小林氏は「ヤングマインド」「大衆」「カジュアル」「アメニティ」の4語に由来する企業哲学「YM-CAL」を制定し、後にこれが読みやすい「MYCAL」に変化しました。新たな企業哲学通り、ニチイはそれまでとは異なる“個性派”GMSへと生まれ変わることになります。

 手始めに行ったのが82年の「天神ビブレ」開業です。もともと76年に出店したニチイ天神店でしたが、当初ターゲットとしていた30〜40代の客層が少なく、ヤング層が多かったため新業態店ビブレとしてリニューアルしました。ビブレでは従来型GMSのように単なる安売りをするのではなく、若者向けに特化し、ブランドに力を入れるなど質も重視しました。

 衣類品コーナーを旧店舗から大幅に縮小したほか、スポーツ用品やオーディオを取り扱い、若者受けを狙いました。旧ニチイ店の年間売上高が40億円台であったのに対し、天神ビブレのそれは86年度に97.8億円と倍増。天神店の成功例に倣い、ニチイはビブレへの転換と新規出店を各地で進めます。

 また、84年には新業態店「サティ」を開業しました。サティは「生活百貨店」をテーマに、従来の安売りではなく質にこだわったGMSと位置づけ、ダイエーやヨーカドーといった従来型GMSとの差別化を図りました。実態として通常のGMSと大きく変わりませんが、成長期ということもありサティは各地で勢力を拡大しました。「マイカル宣言」によりグループ名をマイカルに変更した88年以降はニチイからサティ・ビブレへの業態転換を加速、後にサティは同社店舗の8割を占めるようになりました。

◆「マイカルタウン」で大型投資を行う

 個性派GMSに飽き足らず、マイカルは次に大型ショッピングモール「マイカルタウン」で勝負に出ます。1号店は米軍跡地を活用して1989年に開業した横浜の「マイカル本牧」です。総投資額は400億円。敷地面積は3万3千平米と当時最大級で、映画館やフィットネスクラブ、銀行・郵便局などもありました。