連載 怪物・江川卓伝〜宇野勝が振り返る伝説の一戦(前編)

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「ウーやん」こと宇野勝は、1980年代の中日で絶大な人気を誇ったスター選手。愛されキャラゆえ、少々ヤンチャなことをしてもなんか憎ない選手がどこのチームにもひとりはいるものだ。宇野がまさにそうだった。

 宇野がヤンチャということではなく、プレーそのものが妙にコミカルさをまとった異質なプレーヤーだった。大胆なエラーをしたり、豪快な三振を喫したりとどこか抜けている雰囲気を漂わせながらも、「ここぞ」という場面で大ファインプレーを見せたり、値千金の大ホームランを放つ。それが宇野の魅力でもあった。


84年に遊撃手として初の本塁打王を獲得した宇野勝 photo by Sankei Visual

【江川卓から10本のホームラン】

 1984年に遊撃手として史上初のホームラン王に輝くなど、脇を閉めたパッティングフォームから豪快なフルスイングでファンを魅了した。さらに、フライをおでこに当てる(宇野のヘディング事件)など失策シーンがクローズアップされるため堅実な守備というイメージはないものの、じつはタイムリーエラーはほとんどなく、ショートとして十分合格点を与えられる働きをしていた。

 その宇野に江川卓との通算対戦績を告げると、こんな反応が返ってきた。

「140打数37安打、打率2割6分4厘、ホームラン10本ですかぁ。10本も打っている印象はあまりないですね。江川さんと対戦し始めた頃は、まだ7番や8番と下位打線だったので、力を入れて投げてないんじゃないですかね。江川さんって、得点圏にランナーがいる時や、上位打線じゃないと力入れないですから。僕の時は全力ではなかったと思いますよ」

 歴代中日選手のなかで江川から最もホームランを打っている宇野であるが、当の本人は10本も打っている印象がまったくないという。

 80年代前半、中日にとって江川は天敵であり、とくに82年は1試合14奪三振など、完全にカモにされていた。

 まったく手も足も出なかった怪物に対して、中日の選手が一丸となって奇跡的なシーンを演出したのが、82年9月28日のナゴヤ球場での試合。中日ファンにとって、これほどファンタスティックでスリリングな展開を見たことがないほど、球場全体が興奮の坩堝(るつぼ)と化した"伝説の一戦である"。

 ペナントレースも大詰め、残り7試合の首位・巨人に2.5ゲーム差の2位中日は、16試合を残しているとはいえ、この巨人との3連戦を最低でも2勝1敗で勝ち越さないと優勝の目がなくなるという天王山のカード。

 巨人・江川、中日・三沢淳の先発で始まった試合は、初回に5番・原辰徳の29号スリーランで先制した巨人が、6回を終えたた時点で6対1と大きくリード。ここまで19勝でハーラーダービートップの江川は7回裏に5番・大島康徳にソロアーチを浴びるも、6対2と4点リードのまま、最終回のマウンドに上がった。誰の目から見ても、江川の勝利は揺るぎなかった。

 宇野が振り返る。

「中日ベンチも逆転というイメージはなく、代打の豊田(誠佑)さんが三遊間ヒット、ケン・モッカがライト前、谷沢(健一)さんがレフト前に弾き返し、ポンポンと連続ヒットでつながったけど、『いくぞ、追い越すぞ!』といった雰囲気はなかったと思います。ただ、なんだろう......『あれ、続くじゃないか』となって、選手のほうも次第に盛り上がっていき、江川さんに向かっていったと思います。

 大島さんがセンターへ犠牲フライを放ち1点を挙げ、次に僕の打席でストレートをレフト線に打ったのはよく覚えています。江川さんにとっては1点を還され、ランナー二、三塁になったことが痛かったでしょうね」

 その後、中尾(孝義)がライト前に弾き返し、ふたりが生還して同点。そして延長10回裏、中日は大島のタイムリーでサヨナラ勝ちを収め、2位ながら「マジック12」が点灯した。

【どの攻略法も通用しなかった】

「翌日、球場で江川さんにあいさつすると、『騙すなよ』みたいなことを言われたんですよ。多分、モッカ、谷沢さんが逆方向に打ったので、僕も打席に入る前に右方向に打とうというようなスイングをしていたんですかね。江川さんはインハイのストレートで三振を狙っていたと思うんですよ」

 この時、中日打線がすべて真芯で捉えているのを見て、江川はサインが盗まれていると思ったという。このことを宇野に告げると、「サイン盗みは、絶対にない。もしそうだったら、今ここではっきり言うし、なによりそれまで3三振もしてない」と完全否定した。

「それまでのミーティングで、江川さんの攻略法をいろいろ言われたのですが、どれもダメでした。クセもわからなかったですね。野球人生でサイン盗みをしたことは一度もありません。ただ、クセがわかったピッチャーはいましたよ。あくまでクセがわかったので、攻略したというのはありました。とにかくあの試合は、プロ野球人生のなかでも非常に印象に残るものでしたね」

 宇野にとって、江川というピッチャーはどういう存在だったのか。宇野は名門・銚子商業に入学し、1年夏はベンチ入りできなかったが、チームはエース・土屋正勝、4番・篠塚和典を擁して全国制覇を飾っている。江川の3歳下のため、高校時代に対戦したことはないが、江川がいた作新学院と銚子商業は練習試合を含めて計5試合やっており、因縁深い相手である。当時中学生だった宇野も、作新学院の江川を実際に見ていた。

「まず試合前、江川さんはホームから外野に遠投するんですけど、軽く投げているのにシュルシュルって伸びながら相手のミットに収まるんです。『すげぇな』っていう感覚で見ていました。要するに、江川さんのボールってスピン量が多いから垂れないし、だから高めの球で空振りが奪えるんです。真っすぐとカーブしかないのに、ストレートでそこまで空振りが取れるピッチャーは、やっぱり江川さんだけですかね。わかっていても打てないですから。だから、オールスター(1984年)で8連続三振とかできるわけですよ」

 高校時代の江川の遠投は、もはや伝説化していると言ってもいいだろう。江川にとって試合前の遠投は、肩をならすためのルーティンであり、相手を威嚇するためのデモンストレーションでもあった。

 これまで80メートルほどの遠投で、垂れずに一直線にボールが伸びていく軌道など一度も見たことがない。そんなボールがこの世に存在するのかと訝しながらも、"江川伝説"を直に見た者たちの話に吸い込まれる。そしていつも、"江川伝説"を語る者たちの目はキラキラ輝いている。宇野もそのうちのひとりだった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している