小松みゆき【1】事務所移籍トラブルでAV会社に売られそうに…

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1990年、「週刊プレイボーイ」で水着グラビアデビューし、翌年にはヌードを披露して端正なルックスと“美乳”で注目を集めた小松みゆき(当時の芸名は小松美幸)さん。グラビア、写真集、イメージビデオでグラビアモデルとしてトップクラスの人気を誇り、映画「北京原人Who are you?」(佐藤純彌監督)、「大奥」シリーズ(フジテレビ系)などに出演。私生活では7年間の不妊治療を経て、49歳で出産したことも話題に。俳優としてだけでなく、インティマシーコーディネーターも務めた映画「ル・ジャルダンへようこそ」(山口みちへい監督)が10月11日(金)に公開される小松みゆきさんにインタビュー

■ボウリングで跳ね飛ぶピンの音が子守唄

福島県で二人姉妹の長女として生まれた小松さんの父親は、一代でボウリング場を作って50年以上にわたって運営し現在も営業しているという。

「70代半ばの両親と従業員とでこぢんまりと今もやっています。住んでいる家とボウリング場は別の場所にありますけど、両親が働いているので、ボウリング場で育っているという感じでした。

それこそ今の自分の子ども(3歳)ぐらいから(初めての)記憶があるんですけど、事務所の机の上で寝かされていて。ずっとガシャンとかカーンというピンが跳ね飛ぶ音や歓声が聞こえる中で寝ていたんですよね。 結構すごい音なのに全然平気な感じの子で(笑)。

幼稚園や小学校に通うようになっても、母が仕事に出る時には一緒に行ってそこで過ごしていたので、1日の半分はボウリング場にいたような記憶が今も続いています。

――東日本大震災の時は大丈夫だったのですか

「2メートル弱ぐらいの津波が来ました。ボウリング場は小名浜の港にあるんです。あの日は、父親が東京に出張していて、母親が営業していたんです。うちは昔ながらのボウリング場で、レーンの下をボールが通って手元に戻ってくるんですけど、地面を掘ってボールが戻って来るコースを作るのではなくて、階段で建物自体を(高く)上げているんです。地面を掘るより建物を上げる方が安く作れますから。

そのおかげで、津波はその階段のギリギリのところまで来たのですが、床上浸水にならなかったんです。それでボウリング場を再開できるから、生きていく糧(かて)は失わないで済みました。

ただ、従業員の車が流されてしまったり、周りのおうちもそういう状況だったので、かなり被害は大きかったし、原発の(水蒸気)爆発もあったので、さすがにすぐには再開はできませんでした。避難地域ではなかったですけど、やっぱり街の人がかなりいなくなってしまったり…。

(復旧)作業員の人たちがいっぱい来ていたのですが、娯楽がどこにもない時期だったので、両親もさすがに悩んではいたんですけど、何か楽しみがないとやっていけないからということで、父は震災から2カ月くらいでボウリング場を開けたんですよね。

そうしたら皆さん来てくれたんですよ。つらい思いばかりで発散するところがなかったので、原発の作業員の方たちも結構来てくださいました。従業員の方も被災者なので、来られる人だけで、メインはうちの父と母でちょっと大変そうではあったんですけど」

9歳からクラシックバレエを習い、芸能界への憧れは小学生の頃からあった小松さんは、CMや映画などのオーディションに応募したこともあったという。

「小学校の5、6年ぐらいから休みの時にはボウリング場が忙しいので、東京の親戚の家に預けられていたのですが、中学生ぐらいになって、1人で原宿とか渋谷とか遊びに行くとスカウトの方に声はかけられることはありました。ずっとお芝居はしたかったので、中学生ぐらいからは、CMや映画のオーディションにはプロフィルを送っていたんです、親には内緒で。

妹にスナップ写真を撮ってもらって応募したりしていましたけど、義務教育の中学生の時に東京でスカウトされても、さすがに『はい』とは言えないじゃないですか。なので、それも親には言わず、『すみません。東京に住んでないんです』といって断って地元で高校に行きました」

■親には内緒で事務所と契約、水着グラビアデビューからあっという間にヌード撮影に

高校卒業後、実践女子大学短期大学部に進学して上京。大学の寮には入らず、一人暮らしを始めることに。

――大学で東京に出て芸能界でと考えていたのですか

「それが高校3年までで、ちょっとずつ気持ちは変わっていって。小学生の頃から始めたバレエをずっと東京に来ても2年ぐらいやっていたのですが、その踊りが楽しくて。でも、自分はバレリーナには向いてない体型だということはわかっていたので、『劇団四季』と『東京ディズニーランド』のオーディションを受けてみたいと思っていたんですね。

そうしたら5月の連休中ぐらいにスカウトされて。さすがにもう東京に住んでいるし、いいかなって自分で判断をして、親には相談せずに契約書にサインをしてその事務所さんのお世話になることにしたんです。

最初は水着のグラビアで。それと同時に『福本耕平かく走りき』(久保田傑監督)という映画のオーディションも受けて受かっていて、それがたまたま福島が舞台で高校生の役だったんです。なので、『週刊プレイボーイ』では水着なのに、映画では高校生の制服を着て(笑)。全然違うことを同時にやっていました」

――実際に仕事を始めてみていかがでした?

「短大に行っていたので、高校みたいな授業の駒取りで。お仕事ができるのは、土日か夏休み、冬休み、春休みしかできなかったんですね。だから、そのタイミングでオーディションに行ったり、グラビアを撮ったりしていたので、アルバイトの延長みたいな感じでした」

――ヌードを撮影することになったのは?

「水着のグラビアを撮ってからプレイボーイさんが気に入ってくださって、『年間でグラビアをやろうと思うんだけど、ヌードでやってみない?』というお話をいただいて進行していたので、あっという間でした。わりとすぐですね。

他の映画のオーディションも受けたりしていたんですけど、ちょっとセクシーなシーンがあって。映画にはやっぱりそういうシーンもありますけど、それは別にやらないという選択はなく、そういうのも受けるつもりでいたのでやることにしました」

――端正なルックスにスレンダーなプロポーション、美しいバストラインが印象的で“美乳”と話題になりましたね

「多分、編集の方が作ってくださったんだと思うんですよ。巨乳ではないから“巨乳”とは書けないので(笑)」

――本当にきれいで目が離せませんでした

「ありがとうございます。他の人の裸をそんなに見たことがないので、褒めていただいて初めてそういう風に思ってもらえるものなんだって思いました」

――ご両親にはどのようにお話されたのですか?

「『週刊プレイボーイ』の水着は、何十人という中の1枚なのでわからなかったみたいですけど、そのあとのヌードのグラビアが出た時に知ることになって。ボウリング場のお客さんから聞いたみたいで、すぐに母親から連絡が来ました。

でも、私の両親は東京育ちなので、こっちの事情とか環境はある程度知っていますから、最初は驚いたみたいですが、『東京にいたらしょうがないわよね』みたいな感じでした」

――すごい勢いで写真集、ビデオ、映画などに出演されていましたね

「そうでしたね。20歳までは短大の授業もあったので、本当に忙しかったです。休みの時しか仕事をしないということでやっていたので、ちゃんと単位は取れるようにしていたのですが、体育だけ実技ができる時間がなかったので追試でした。ギリギリでしたけど何とか卒業して。でも、お友だちも一人しかできなかったですね。時間がなくてサークルにも入れなかったですし」

――学校の皆さんは小松さんのお仕事のことを知っていたのですか

「女子大なので、最初の1年ぐらいは誰も知らなかったです。またこれも周りからで付き合っている大学生の男の子たちが自分の恋人を迎えに来るんですよ。それで気づいた人がいて。

その時にはプロフィル欄に学校名も載せていたので、気づいた人たちが言ってきたみたいで。同級生の女の子たちから聞かれたんですけど、私はすごく地味で目立たなかったので、みんなびっくりしていました(笑)。

田舎から出てきて、全然化粧っ気もなくひっつめた髪で、Tシャツにダブダブのジーパンみたいな感じだったので。学校も下(高校)からのエスカレーター式で来ている東京の子たちが多かったので、服装もメイクも全然違っていて。すごいんです。身につけているものも全然違うし、異次元の人という感じで。そこに山猿が紛れ込んだみたいな感じでした(笑)」

■勝手に事務所移籍を進められAV会社に売られそうになり逃亡生活

短大卒業後、本格的に仕事を始めることにした小松さんだったが、思わぬトラブルが勃発。1年間逃亡生活を送ることに。

「最初にスカウトしてきた事務所さんがあまり良くないところで、次の事務所に勝手に移籍させられて。どうやらそこですごくお金が動いていたみたいで。私は全然もらってないんですけど、AV会社に売られて。

最初の事務所がAだとすると、事務所Bに移籍させられた時にBがAV会社と勝手に年間何本いくらで…という契約をして、それを知った上で元の事務所Aに数千万円払っていたらしいんです。

私はAVという話は聞いてないことだし、Bに移籍して最初の作品の撮影初日に何か雰囲気が違っていたので、『これはおかしい』と思って。それまでのVシネマとか映画でもセクシーなシーンはありましたけど、明らかに違うと思ったので2日目から行かなかったんです。

そうしたら、事務所AとBの間で揉めたらしくて、福島の実家まで黒塗りの車が2台ぐらいで来て営業妨害されたり、私が住んでいた東京の家にも近所中に聞こえるように拡声器を使って大声で騒いで住めないようにしたりとか…怖かったです。大きい声であぶり出しみたいな感じで。

なので、私はそこから逃げるために1年間芸能界を離れて、名前を変えてバイトで暮らしていた時期があるんです。22歳の時に。本当に大変でした。お金がないので家に唯一あった食べ物のお菓子一箱で3日間暮らしたということもありましたね」

――大変でしたね。明らかに違法な迷惑行為ですが、法的に何とかする方法はなかったのですか

「裁判を起こそうと思って家庭裁判所で相談してみたんですけど、AからBに移籍するときに、私は契約書にサインしちゃっていて。契約書にはAVとは書いてないんですけど、テレビ、映画、ビデオの仕事という記載があるので難しいかもしれないと言われて。

裁判所的には、『じゃあ、ビデオの仕事とAVと呼ばれているものと何が違うの?』ってなって。このままでいったら、私が勝てるかどうかは微妙だと言われたんです。

でも、私はお金を一切もらってないし、事務所AとBとの間のお金のやりとりで追われて身を隠さなきゃいけないのもわからないという話もしたんですけど、裁判所もそれはわからないって。芸能界のことはよくわからないみたいな状態になっちゃって」

――その1年間の生活はどのようにされていたのですか

「とにかく人目につかないようにと思って、皿洗いとか、トラックの運転とかをしていました。運転が好きで18で免許を取ってからずっと車の運転はしていて、東京にも車を持って来て暮らしていたくらいだったんです。

それで、普通免許で運転できる範囲のトラックで酒屋さんにビールを運んだりしていました。ビールのケースを荷台から降ろして運ぶんですけど、重くてすごく時間がかかるんですよ。

なので、私が行くと『ちっちゃいのが来たぞ』っておじさんたちが出て来て運んでくれるようになりました。あと一人用の引っ越しとかもやっていました。一人で行って、洗濯機とか冷蔵庫も運んでいたんですよ。自分でもよく持てたなあって不思議です(笑)。コツがあるんですよね。紐をどう巻いてどういうふうに担(かつ)ぐかとういうような。

1年間そういう風にして暮らしていたんですけど、裁判所もわからないみたいだし、芸能界のことは芸能界の人にしかわからないんだと思って。

前の事務所にいてビデオ映画とかをやらせてもらっていた時に、その当時『イエローキャブ』という事務所の社長だった野田(義治)さんが現場にいらっしゃっていて、すごく優しい言葉をかけて下さっていたんですね。何かあったら連絡すればいいよって。

そのことを急に思い出して『本当に申し訳ないんですけど、今こういう状態で困っています。どうしていいかわからないんです』って連絡をさせていただいたんです。そうしたら状況をわかってくださったみたいで。何回か野田社長の事務所の方とも一緒に仕事をしていたのに急にいなくなったわけだし、耳に入っていたと思うんですよね。

『わかった。じゃあ一旦うちに来ればいい』って言ってくださって、事務所にお世話になることに。それからは何の問題もなく仕事ができるようになりました。身を隠す必要もなくなったし、本当に感謝しています。最初の所属先はこぢんまりとした個人事務所でしたし、大手には太刀打ちできないのではないかと思いました。

あとで思えば、最初の事務所はドラマや映画の撮影の打ち上げがあっても一切行かせてもらえなかったんです。行っちゃダメって。1カ月も一緒に撮影した映画の打ち上げにも行っちゃダメという理由もわからなかったんですけど、事務所にその時間は監禁されていたりしていたので、おかしいなと思うことは結構あったんです。

でも、10代で仕事を始めた頃はわからなかったですね。よくわからないまま契約書にサインしたりして、本当に無知でした。『おかしい』と思っても『芸能界はそういうものだ』と言われるとそうなのかなと思ってしまっていたので。やっぱりわからないことをうやむやにしたままにしてはいけないんです。わからないことは必ず聞くようになりました。過去の失敗からの教訓ですね」

1994年、移籍トラブルが解消された小松さんは、新たなスタートということで「小松美幸」から現在の「小松みゆき」に改名。大河ドラマ「元禄繚乱」(NHK)、「大奥」シリーズなど多くの作品に出演することに。次回は、毎回4時間以上メイクと準備に時間を要した映画「北京原人Who are you?」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※小松みゆきプロフィル

1971年6月5日生まれ。福島県出身。19歳の時にスカウトされて「週刊プレイボーイ」で水着グラビアデビュー。雑誌、ヌード写真集などグラビアモデルとしてトップクラスの人気を誇る。「女教師」(川崎善広監督)、「いつもより素敵な夜に」(児玉宜久監督)、「連結部分は電車が揺れる 妻の顔にもどれない」(内田春菊監督)など主演映画も多数。自身の経験を活かし、インティマシーコーディネーターとしても活動。出演とインティマシーコーディネーターを兼務した映画「ル・ジャルダンへようこそ」の公開が今月11日(金)に控えている。