垂秀夫・前駐中国大使(時事通信フォト)

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 2020年から約3年にわたって駐中国大使を務めた垂秀夫氏(立命館大学教授)は深センの日本人学校に通う児童殺害事件について自身の経験から「今回の事件を偶発的事件として放置してはならない」と指摘する。

【写真】あまりにも痛ましい事件だった……深センの日本人学校に通う男児が殺害された事件現場で花を添える人たち

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 私は大使として2023年5月に深センの日本人学校を訪問しており、今回犠牲になった男児とも会っていた可能性がある。だからこそ、個人としても胸が張り裂けそうな思いで、強い怒りを感じている。

 こうした事件が起きると日本の多くの中国問題研究者は、「経済が不況で社会に不満が高まっているから」と社会問題に原因を求めがちだが、これは「偶発的な個別事案である」とする中国当局の釈明と大きな違いはない。

 よしんばその説明が正しいとしても、3か月の間に二度も日本人学校関係者が襲撃され、いずれも死者が出たという痛ましい事態の発生をなんら説明しきれていない。

 中国外務省が主張するような「どこの国でも起きうること」で済ませてはいけないのだ。

 景気悪化への不満などを背景にして、そうした暗い感情のはけ口として「日本人学校」が選ばれ、児童に刃が向けられたのには、直接的なトリガー(引き金)があったと考えるのが極めて合理的だ。

 ではなぜ、日本人学校だったのか。私はこれまで何度も指摘してきたが、これはSNS上の荒廃無稽な「動画」の影響が大きいと考えられる。日本人学校に関する様々なデマが蔓延している。

 中国本土には日本人学校が11校しかないが、SNSでは「137校ある」「中国人の児童を受け入れず、治外法権になっている」「スパイを養成し、成長したら中国の各所に潜伏させている」などのデマを流している。137という数字は、何の根拠もないが、動画のなかでは、731部隊との関連性が語られている。

 私は大使だった時代に、小さな事件であっても、中国公安省、あるいは中国外務省に対して犯人の逮捕、身柄の拘束を要求するとともに、その引き金となった動画の削除も要求したが、動画の削除については中国当局はほとんど手をつけなかった。

 中国は、指導者批判の動画であれば瞬時に削除するのだから、デマ動画に対しても同じ措置が取れるはずだが、それをやろうとはしなかった。

 最近になって、いくつかの動画投稿アプリがこうしたアカウントを閉鎖させたと発表したが、いまだに散見される。6月の江蘇省でのスクールバス襲撃事件の後も同様に閉鎖措置を取ったとしていたが、その場限りの措置で、結局、数か月後にはまた動画が氾濫していた。

 日本のメディアはこうした事情をよく調べもせずに無責任に中国側の言い分を報道しているように見えてならない。上川外相はニューヨークで王毅中国外交部長(外相)と会談し、真相究明と再発防止、日本人の安全確保を要求したが、中国側は「個別事案だ」とゼロ回答だった。

 また柘植芳文外務副大臣も訪中したが、NHKの報道(9月23日)によると、中国外務省の林剣報道官は、会談後の記者会見で「双方は(中略)偶発的な個別の事案が両国関係に影響しないようにすることを確認した」と述べたという。

 日本側も個別事案であることに同意したと言っているわけで、およそ信じられない話だ。ここで日本側が黙っていたら、個別事案だと認めたことになってしまう。どうして対外的に否定しないのであろうか。

 もう2人も亡くなっているのだ。生命の重さををよく考えていただきたい。こうした痛ましい事件を二度と起こさせないためにも、偶発的な個別事案として終わらせては決していけない。

【プロフィール】
垂秀夫(たるみ・ひでお)/1961年、大阪府生まれ。元外務官僚、前駐中国大使。立命館大学教授。1985年に外務省入省、1986年に南京大学留学。その後、北京、香港、台湾に駐在。2020年から駐中国大使を務めた。写真家としても活躍している。

※週刊ポスト2024年10月11日号