老婆が剃刀向ける「朝ドラ」寅子モデル抱いた葛藤
裁判所(写真: tetsu / PIXTA)
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープし、まもなく最終回を迎える。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。
日本初の女性判事が誕生して大騒ぎに
日本で初となる女性判事が名古屋で誕生――。
昭和27(1952)年12月、三淵嘉子が名古屋地方裁判所の判事になると、駅前の電光掲示板にニュースが流れるほどの騒ぎとなったという。
新聞社の取材や講演の依頼も数多く寄せられるなかで、嘉子は息子の芳武とお手伝いさんと3人で、6畳二間の官舎で新生活をスタートさせた。
当時、名古屋大学法学部の学生だった大脇雅子は、友人とともに嘉子を訪ねたときのことを、こう回想している。
「前年に名古屋地方裁判所に判事として赴任したばかりで、中学2年生のお子さんを育てながら、実に生き生きと自信にあふれておられた。色白のふくよかな体全体から匂いたつような美しさがあり、まぶしい思いであった」
交通事故の民事裁判を担当したときには、現場検証を行っている最中に新聞記者から突撃インタビューをされたこともある。
出身校や志望動機、家族について聞かれて簡潔に答えているが、「戦争未亡人ですね?」という問いかけには「そんな表現を使わないでください。戦争未亡人てイヤな言葉です」とハッキリと不快な感情を相手に伝えているところは、嘉子らしい。
記事が「これ以上の質問は職務中ですとやわらかく断られたが、二十歳台に見える美しい判事さんはニコニコ明快に答えてくれた」と締められているあたりも、嘉子からすれば、引っかかりを覚えたのではないだろうか。
また別の新聞の取材では、嘉子はこんなふうに答えている。
「よくわたくしのことを女の味方になるために……職業柄、きめつける人がいますが、そんなこと考えたことないわ、男だって女だって同じものです」
あくまでも女性を含めた困っている「人間」のために何か力になりたい、というのが嘉子の考えであり、その思いは弁護士時代から変わることはなかった。
「女性は家庭裁判所へ」の見方に警戒する
昭和31(1956)年5月、嘉子は41歳のときに約3年半にわたる名古屋での勤務が終わり、東京地方裁判所の判事になった。
数カ月後には、初代最高裁長官・三淵忠彦の長男にあたる、三淵乾太郎と再婚。お互い子連れで、乾太郎は嘉子より9歳年上で50歳だった。嘉子はプライベートの面でも気持ちを新たにすることとなった。
そして、同年12月からは東京家庭裁判所の判事も兼務することとなり、昭和38(1963)年4月から東京家庭裁判所へと異動している。
東京家庭裁判所(写真: Caito / PIXTA)
実は昭和25(1950)年に、まだ判事ではなく判事補だった頃、嘉子はアメリカを視察する機会があった。アメリカでは、女性が一人で裁判所を任されていることや、裁判所のなかに託児所があることなど、驚きの連続だったようだ。
そして、アメリカ視察から帰った頃、嘉子はNHKの座談会に女性法律家の代表として出席。その場で「女性の裁判官は女性本来の特性から見て家庭裁判所がふさわしい」という意見が出ると、嘉子はすぐさま反論している。
「家庭裁判所裁判官の適性があるかどうかは個人の特性によるもので、男女の別で決められるものではありません」
このときに嘉子は内心、警戒心を強めたという。次のように振り返っている。
「私は最高裁判所家庭局で家庭裁判所関係の仕事をしたことがあり、年齢的に見ても家庭裁判所裁判官にふさわしいということでその第一号に指名される可能性が十分にあった。先輩の私が家庭裁判所にいけばきっと次々と後輩の女性裁判官が家庭裁判所に送り込まれることになろう」
女性裁判官の進路に女性用が作られては大変だ――。
そんな思いから、「人間的に成熟するであろう、50歳前後まで家庭裁判所の裁判官は引き受けない」と、このときに決めたのだという。
嘉子はその決意通りに、13年余りの地方裁判所を経験してから、48歳にして家庭裁判所へと異動してきたことになる。
自分の行動がどのような影響を及ぼすのか。いかなるときも法曹界全体を見渡す、嘉子の視野の広さには驚かされるばかりだ。
裁判所で剃刀を向けられ落ち込んだ
順調に出世を重ねていく姿にばかり目がいきがちだが、裁判官としてキャリアを積むなかで、苦しい思いをしたこともある。
ある日、法廷を終えてトイレに入ると、洗面台で裁判の当事者だった老婆からいきなり剃刀の刃を向けられた。幸いにも、嘉子にけがはなく、駆けつけた警察官によって、犯人はただちに取り押さえられた。ひどく落ち込んだ嘉子は、裁判官の内藤頼博のもとを訪ねている。
裁判所のなかで、訴訟の関係者が興奮してあらぬ行動にでること自体は珍しくはない。内藤も初めは「とんだ災難に遭ったものだ」とただ同情して話を聴いていたが、嘉子が吐露した悩みはもっと深いものだった。内藤はのちに、このときの嘉子(文中では「和田さん」)の様子をこう振り返っている。
「その夜の和田さんは、真剣であった。相手を責めるのではない。当事者をそういう気持ちにさせた自分自身が、裁判官としての適格を欠くのではないかという、深刻な苦悩を訴えられたのである」
また、嘉子が東京地方裁判所に着任したばかりの頃、原爆投下の違法性を争った国家賠償訴訟の「原爆裁判」が行われると、嘉子は第1回口頭弁論から結審まで担当し続けた。
結果的には、被爆者の損害賠償請求権は否定されて、訴えは棄却された。だが、判決文では「原爆投下は国際法違反」という判断が下されることになり、この見解がのちに被爆者救済の根拠となった。
判決が出たとき、嘉子は異動になっていた
判決は昭和38(1963)年12月7日に下されたが、このときすでに嘉子は家庭裁判所に異動になっていた。そのため、嘉子が法廷に現れることはなかったものの、判決文には「三淵嘉子」と自著で署名されている。嘉子が原爆裁判について語ることはなかったことからも、判決に至るまでに、人には明かせない葛藤があったのだろう。
裁判官としてさまざまな局面を経験した嘉子。その活躍の舞台を東京家庭裁判所の少年審判部九部に移すと、 9年間にわたって、少年の審判に携わることになった。
(つづく)
【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)
(真山 知幸 : 著述家)