会津藩のためなら命すら!幕末、烈女と呼ばれ「婦女隊」も結成した中野竹子の荒々しくも儚い生涯
幕末にあたる慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争の一局である会津戦争。
この戦争には新島八重を始めとした女性たちも武装し、新政府軍と戦いました。その女性たちの中でも気性が激しい女性の意味である烈女と呼ばれた女性がいました。
その女性の名は中野竹子(なかの-たけこ)。
今回は会津のために戦った女性の一人である竹子の烈女と呼ばれるに相応しい生涯をご紹介します。
才能溢れる才女だった竹子
竹子は弘化4年(1847)に江戸の会津藩邸でうまれます。幼いながらも才能を開花させていた竹子は、5歳から6歳の頃には百人一首を完璧に覚えていました。
そのような才能を垣間見た父の中野平内(なかの-ひょうない)は竹子の才能を如何なく発揮させるために、清廉潔白と評判だった赤岡大助の元で史書や和歌を学ばせます。
その後は、黒河内兼規(くろこうち-かねのり)から薙刀術を佐瀬得所(さの-とくしょ)からは書道を習い、薙刀術は免許皆伝になるまで極め、書道は祐筆(ゆうひつ)と呼ばれる武家の秘書役を行えるまで成長しました。
書道に関しては父の平内が書流・持明院流の総元締ということもあったので、元から才能があったのかもしれません。
また、藩外からも美人と評判をうけるくらい容姿端麗だったので、まさに才色兼備と言っても過言ではないですね。
竹子、会津の地へ
そして竹子の才能を間近で見ていた赤岡大助は、ここまでの成長ぶりに手放すのは惜しいと考え、平内にお願いをして竹子を養子にしました。
大助は自身の甥と竹子を婚約させようと考えましたが、慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が勃発してしまい、竹子ら江戸に居た会津藩士たちは会津藩主松平容保が引き上げるのに従い、全員会津藩へ引き上げることになってしまいました。
元々男勝りな性格だった竹子は、藩の危機に立ち上がることを良しと考えていたので婚約を拒んだ上、中野家に戻ります。
会津藩に着いた竹子は若松城下の坂下で剣術道場を開いている大助の元で子どもたちに学問を教えたり、年頃の女性たちには薙刀を教えました。
婦女隊結成
慶応4年(1868)8月23日になると勢いに乗った新政府軍が、会津藩まで侵攻してきます。竹子は容保の義姉、照姫が坂下に避難している情報を聞き、照姫を護衛する名目で竹子の母や妹、門下生20人らと婦女隊を結成します。
婦女隊の隊士は全員斬髪し、女性の着物に袴で武器である薙刀をより振るいやすい服装をしていました。
しかし、照姫が坂下にいるのは誤情報で、実際は若松城にいました。戻るにしても城門が閉じられていたので竹子たちは戦うことを決意し、近くを通った萱野長修(かやの-ながはる)に従軍を願い出ます。
決死の覚悟が認められ
最初、長修は拒みますが従軍ができなければ自害するという決死の覚悟に押され、先鋒隊となる衝鋒隊(しょうほうたい)の一員として加えられました。
そして同年8月25日、衝鋒隊は若松城へ向かう途中の柳橋にて新政府軍と戦闘を行います。竹子は薙刀を振るい、新政府軍を圧倒していましたが、額に銃弾を受け22歳の若さ戦死しました。
敵に手柄を与えることを嫌っていたので、妹の手によって竹子は介錯され、首は味方の所へ届けらました。
最後に
会津の危機であるが故に婚約を破断したり、決死の覚悟で従軍を願い出たりとまさに烈女と呼ばれることに納得できる人生を歩んだ竹子。性格も男勝りだったので、当時の女性とは違う価値観で生きていたかと思います。
またこのような価値観を持つ方が時代を動かしていくので、若くして命を散らしてしまうのは生まれる時代が悪かったのかと考えてしまいます。
参考:井沢元彦『英傑の日本史 敗者たちの幕末維新編』