(画像左:本人の公式Xより・画像右:Michael Reaves/Getty Images Sport)

信用が経済活動の中で、大きな役割を果たしている状態を「信用経済」と呼ぶ。だが、昨今の炎上事案を見ていると、「信用経済の対極にある、“不信”経済とも言うべき状況が生まれている」と、評論家の真鍋厚氏は指摘する。なにが、我々をここまで突き動かすのだろうか?

フワちゃんのSNSへの不適切投稿が波紋を呼んだが、ここには信用経済の対極にある “不信”経済とも呼べるような作用が働いている。

感情的な負債が蓄積して爆発したようなものであり、いわゆる世間とのずれを売りにするキャラクターがかえって裏目に出た面がある。人々は関心や興味のある事物をただ漫然と消費しているのではなく、無意識に“格付け”しているようなところがあるのだ。

その“格付け”の判断基準になるのが「世間」というモノサシなのである。これが信用と不信のポテンシャルに多大な影響を与えている。

「世間」の逆鱗に触れると“抹殺”されかねない

「世間」が共有する暗黙の了解への挑戦が「笑い」の要素になっていると、なおさら炎上した際に激しい怒りを呼び起こしやすい。

ここで重要なのは、歴史学者の阿部謹也が世間とは、「『非言語系の知』の集積」であるとして、対象化することが急務だと述べていたことだ(『「世間」とは何か』講談社現代新書)。つまり、「世間」の逆鱗に触れると、法的な制裁どころではない社会的な制裁が発動して、“抹殺”されかねないからである。

このような事態が発生する社会的な背景は、パリ五輪で問題化した選手に対するバッシングにも関わってくる非常に厄介な性質を持っている。

そもそも「世間」はあまり対象として認識されていない。空気のように存在しているからだ。けれどもその影響力は甚大だ。心理学者の井上忠司は、『「世間体」の構造 社会心理史への試み』(講談社学術文庫)で、 「世間体」は単に道徳規範的なものだけでなく一切の生活態度を規定するものと指摘した。井上が例に挙げたのは、農村評論家の大牟羅良(おおむらりょう)による「農村の世間体」(1953)という論文である。

大牟羅氏によれば、農村で「世間体がいい」ということは、つまるところ、ムラの習俗から逸脱しない行為を意味していた。逆に、「世間体が悪い」といえば、それは、ムラの習俗から逸脱した行為を意味しているのである。そんな「世間体」の内容は、たんに道徳規範的なものだけにとどまらない。物事にたいする好き嫌い、美醜の判定などにいたるまでをも、ふくむのである。極端にいうなら、個人のいっさいの生活態度を規定しているかにさえ、見えるほどであったという(同上)。

これは「世間」の内面化の表れである「世間体」を最も適切に言語化している。

井上は、さらに「これはなにも、農村にかぎったことではあるまい。程度において多少の差異はあるとしても、『世間体』は、都市にもごくふつうにみられる現象であることに、変わりはない」と述べている。

このような行動原理を模範的に実践する人物、仮想された標準的人間という規格から外れると、たちまち社会的な制裁を受けることになる。芸人のような人々も例外ではない。「習俗から逸脱」したキャラクターを面白がるところにすでに実は心理として「恥を笑う」のに似た社会的な制裁の萌芽がある。感情的な負債を糧にしているため、燃える場合は必然的に燃焼性は高くなる。

阿部詩選手の号泣は「醜態」なのか

ここで興味深いのは、キャラクターだけでなく、一時的な言動にもこのメカニズムが見い出せる点だ。パリ五輪で話題になった選手に対するバッシングが典型といえる。柔道女子52キロ級の2回戦で敗退し、号泣した阿部詩選手が好個の例だろう。

ここでは、負けた後に「人前もはばからずに号泣する」行為が社会的な制裁を正当化する根拠になっている。その深層にあるのは、仮想された標準的人間、つまり「あるべき日本人のモデル」から逸脱する「醜態をさらした」という論理である。日本人の名誉を傷つける「恥辱」に映ったのである。それは、感覚的にはまるで「アカの他人」の前でそそうをした「身内」を叱り飛ばすかのような仕草にも見えた。

だが、例えば、フランスの日刊紙「フィガロ」は、ドラマティックな一場面として報道しており、不名誉な態度という見方はしていない。

小見出しには、「フランス国民が共感と優しさで寄り添った力強い瞬間」とあり、続く記事には「阿部詩は必死に立ち上がり、伝統的な作法で相手に頭を下げ、畳を離れ、そして……泣き崩れた。トレーナーの腕の中で、この日本女性は長い間その状態を保ち、突っ伏し、体を丸め、痙攣し、悲しみを叫び、涙の奔流を止めることができなかった。それは力強い瞬間であり、フランス国民は共感と優しさをもって彼女に拍手を送った」とある。

それから「大会は一息をつく機会を得た。偉大なチャンピオンが、まさに野心的な名誉の舞台に倒れたのだ。 24歳の彼女がさらに強くなって戻ってくることに疑いの余地はない。成長するためには時には転ぶことも必要だからだ」としめくくっている(“JO - Judo : entre cris et pleurs, la détresse totale de la championne olympique Uta Abe”2024年7月28日/Le Figaro)。

「世間」のもともとの意味を考えると、「世間」は「身内」と「アカの他人」の中間に位置づけられ、その狭い範囲内における日常規範でしかなかった。だが、前出の井上は、それが情報化によって著しく拡大したことに言及している。「『セケン』が『アカのタニン』ないし『ヨソのヒト』の領域へと浸透し、両者の境界がすこぶるあいまいになってきている」というのだ(前掲書)。

これは個人の言動が世界中に可視化され、「アカの他人」との距離を縮めてしまうインターネット、SNSの普及によってさらに加速した。「個人のいっさいの生活態度を規定しているかにさえ、見える」と評した「世間体」の意識が、時間・空間的な制約を超えて暴走するような側面が、テレビしかなかった時代よりも増しているといえる。人々は、おそらくほとんど無自覚なまま、スマホの画面からしきりと神経を逆なでされるようになったのである。

加えて、ここに絡んで来るのが、先の「あるべき日本人のモデル」からの逸脱という“事件”に限らない、自己の感情と時間というコストを費やした分のリターンを得られなかった負債感だ。

パリ五輪は、国家的なものである以上に国民的な祝祭行事であり、この期間だけ異様に盛り上がる「瞬間的で気まぐれなファンダム」が形成されたといえる。そのため、期待にそぐわない結果や期待を裏切られる場面が、あたかも投資を裏切る損失として計上されるのだ。

そこには、「コンテンツ」の消費者としての冷酷ともいえる構えが見え隠れする。五輪の競技は生身の人間が織りなす予測不能なドラマではなく、娯楽性の質が問われる「コンテンツ」として受容されている面があるのだ。

世間の問題を皆で考えるしかない状況になっている

ファンやオーディエンスにとって、「コンテンツ」は、安全な場所から観賞し、参加し、評価し、裁定できる暇つぶしなのである。テクノロジー・アントレプレナーのオリバー・ラケットとジャーナリストのマイケル・ケーシーが『ソーシャルメディアの生態系』(森内薫訳、東洋経済新報社)で述べているように、「コンテンツ消費者は劇の中で言えば、こちらに共感的な脇役にもなれば、完全な敵対者にもなる。どちらにしても、私たちと彼らとの相互作用が物語に肉づけをし、その印象を完成させる」からだ。

冒頭に取り上げた阿部は、「世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできない」とし、「昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。(略)しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっている」と警鐘を鳴らした。とりわけ「世間」と「コンテンツ消費者」の組み合わせは、感情的な負債感を理由にして、恐るべき人権侵害を引き起こしかねない。

わたしたちは、「世間」が野放図に広がる中で、対象化されない無数の規範、五輪だけではない「瞬間的で気まぐれなファンダム」といったものにもっと注意を払う必要があるだろう。

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)