『地上の星』(村木 嵐)

 歴史小説を書くようになって最初に買った本が吉川弘文館の『日本史総合年表』だった。たぶん歴史作家にとっては必携の書のひとつで、小さなテーブルで書くことの多い私も常にそばに置いている。

 千ページを超す厚い大きな本で、文字が虫のように小さい。顔を近づけなければ読めないが、あまりの重さに傍まで持って来るにも力が要る。仕方がないので開いたまま持ち手つきのプラケースに放り込み、読むときはケースごと引きずってくることにしている。

 それとほぼ同じ重さ、大きさ、厚さの本が一九八〇年に岩波書店から出された『日葡辞書』だ。一九七三年には各ページをマイクロフィルム(?)で撮った同型の書が勉誠社から復刻されているが、原版は一六〇三年にイエズス会が長崎で刊行した、今では世界に数冊しか存在しない稀覯書(きこうしょ)である。

 現代の印刷技術でもここまでの大型本になるものを、どれほどの熱意と幸運が重なって五百年ものあいだ滅びずに残ってきたのだろう。当時のイエズス会という段違いに優秀な集団の組織力と、それを取り巻く日本人の個の力をつくづく尊敬せずにはいられない。その二つを何がどうやって繫いだのか、ずっと不思議に思ってきた。

 ザビエルに始まり、きら星のごとくの宣教師が次々に東洋を訪れた大宣教時代、天草はまちがいなく日本を代表する土地だった。戦国が始まっていたことを考え合わせれば、とつぜん現れた宣教師たちを最初に迎え入れた人々はさぞ賢明で温かかったのだろう。不安や恐怖と闘いつつ上陸した宣教師たちの足跡が、その後おびただしい数の南蛮船を日本に到来させた。

『日葡辞書』が編まれたのは、それからわずか数十年の後だった。戦乱と禁教の嵐が吹き荒れていただけに、当時の日本のような辺境の地でこれほどの辞書が完成されたのは奇跡としか言いようがないと思う。

 ひるがえって現代では、電子辞書を引くと、解説の末尾にその語の初出文献が表示されている。『日葡辞書』と記されていることが多いので気になっていたところ、さる古本市で勉誠社刊の『日葡辞書』を手に取ることができた。

 店主の男性が「うちは〇〇先生が亡くなったとき、蔵書の整理をさせていただいたので」と教えてくださったが、私は咄嗟(とっさ)に先生の名が分からず、その後失念してしまった。

 だが背表紙も千切れかかったその本にはたくさんの鉛筆の書き込みがあり、〇〇先生が一生をかけて読まれた気迫に充ち満ちている。ところどころにメモが挟まれ、きっと学会か何かで宿泊されたのだろう、ホテルのドアノブに掛ける二枚の札が栞がわりに使われている。

 そのホテルの名はもう変わってしまったが、今もまだ営業している。先生はレストランのメニュー表も有効利用されていて、裏と余白にびっしりと走り書きが残っている。

 このたび『地上の星』が文庫化されるはこびとなり、単行本に引き続き、村上豊先生の絵を使わせていただけることになった。作家になる前から画集を持っていたほどの大ファンだったから、単行本の表紙を描いてもらえることになったときは夜眠れないほどの感激だった。

 自分の勝手な構想では『地上の星』は島原の乱を書く『天上の星』の前日譚(ぜんじつたん)になるはずだったから、そのときは、いやそのうちに、もしかしたらお目にかかれるかもしれないと淡い希望を持っていた。

 この原稿を書いている今、先生のどんな絵をどなたが表紙に選んでくださるのかは分からない。地上(・・)は天上(・・)にならなかったけれども、絵ばかりは天におられる先生からの拝借物だ。素晴らしい絵を使わせてくださることに深く御礼申し上げます。

 そしてもうお一方、この本のことで感謝のほかはないのが葉室麟(はむろりん)先生だ。

 葉室先生は同じ松本清張賞でデビューした先輩作家にあたり、先生が京都に仕事場を構えられた前後からとりわけお世話になってきた。執筆面でもさまざまなアドバイスをくださったので、御目にかかるときはいつもメモを片手に握っていた。

 あれほどお忙しくしておられたのに私の著書まで読んでくださっていて、あるとき、「戦国が舞台なのに、登場人物の名前がニュアンス的に江戸時代になっている」

 とおっしゃった。

 先生はその頃、越後騒動に題材をとった私の本に解説を書いてくださることになっていたから、徳川綱吉のときの騒動なのにと首をかしげた。だが先生が読んでくださっていたのは『地上の星』だった。

 私はそのことをずっと知らなかった。それが先生が急逝されたあと、お嬢さんの涼子さんのご厚意で、先生の仕事場の片付けを手伝わせていただくことになった。

 といっても半日ほど、書棚から溢れたFAXやゲラを揃えて積んだ程度にすぎない。ただそのとき、紙の山の底に大きなクリップで留めた『地上の星』のコピーがあった。

「これ、父の原稿ではないんです。どなたのものか分かりませんか」

 涼子さんが丁寧に差し出された紙の束は書き出しが“第一章”で、題がなかった。

「ああ、私のです」

 二人で同時に噴き出して、それからは時折笑い声を上げて整理をした。

 涼子さんと別れて、私はその紙の束を抱えて家路に就いた。先生、これのことを仰っていたんだなあと涙がこぼれた。

 越後騒動の本の解説は、結局、先生の急な旅立ちで書いていただくことができなかった。だから『地上の星』だけが、直球のアドバイスをいただいた本のように思える。

 文庫化にあたり様々な方から、とりわけ天におられる多くの先生方から御助力を賜りました。深く感謝しています。本当にどうもありがとうございました。

「あとがき」より