中日時代の都裕次郎氏【写真:産経新聞社】

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1976年の中日ドラ1は堅田高・都裕次郎…法元英明氏が“一目惚れ”した

 1976年の中日ドラフト1位は滋賀・堅田高の都裕次郎投手だ。甲子園出場経験なし、2年春の滋賀大会ベスト4が最高成績で全国的には無名の左腕だったが、1982年に16勝を挙げて中日優勝に貢献するなど活躍した。“発掘”したのが伝説のスカウト・法元英明(ほうもと・ひであき)氏だが、事前にそのピッチングを見たのはダブルヘッダーで行われた練習試合だけ。しかも、中日では法元氏以外のスカウトがまともにチェックしていない状況だったという。

 法元氏が堅田高の左腕・都を見たのは1976年の春、奈良・郡山高のグラウンドだった。「郡山の監督の森本(達幸)は関大の同級生で『滋賀県にええピッチャーがいるらしいで』って連絡をくれた。そこと練習試合をするというので『それじゃあ行くわ』ってなったんだよ」。その日、郡山対堅田は2試合行われた。高校3年の都は先発とリリーフでいずれも登板したが、法元氏はそのピッチングに一目惚れしたという。

「強烈やった。郡山高校の関係者が球審をしていて、ストライクがボールなんて言われるケースも多かったんだけど、都は平気で投げて、2試合で合わせて24くらい三振を取ったんじゃなかったかな。これはホントにええなと思ったよ。何て言うかな、野に咲く一輪の花みたいで、周りの草で隠れそうだったけど、僕はそれがパッと出てきた時に見たって感じやった。ちょうど球団からは『左が欲しい』と言われていたし、こいつしかおらへんって思った」

 滋賀県では有名でも、全国的には知られていない存在。「誰に聞いても、知らん、知らんばかりやったけど、僕は強烈なものを見たから、夏の大会もまた見に行こうと思っていた」という。他の地域視察の兼ね合いもあって滋賀大会は2回戦から見るスケジュールだった。「そしたらさ、(堅田高は)1回戦で負けたんだよね。膳所高校にね。その時はなんじゃい、こりゃあって思ったけどね」。そこから法元氏は都のことを徹底調査したそうだ。

「家にも行った。大きな農家で、すごい家やった。お父さんもお母さんも明るい人でね。おばあちゃんも元気で、これ持って帰りって新聞紙にくるんだ小豆をもらったのを覚えているなぁ……」。進路に関しては同志社大や立命館大が誘っている話も耳にした。プロも完全ノーマークではないこともわかった。「南海とかが狙っていた。でも僕はあのすごいピッチングを見ていたからさ、他には獲られたくないって思ったね」。

無名左腕の指名…「びっくりさせるのがスカウトなんだわ」

 そして、自身の都獲りの思いを他球団に悟られないように、その気配を完全に消した。「僕はヨソのことをかぐ方やけど、かがれるのは嫌だったしね」。1976年ドラフト会議で中日は都を1位で指名した。当時は指名順を抽選で決める方式で、中日は2番クジを引いた。1番クジのヤクルトが甲子園を沸かせた怪物投手“サッシー”こと海星(長崎)の右腕・酒井圭一投手を指名した後、全体2番目で都の名前を挙げた。

 中日スカウトで都の投球をまともに見たのは法元氏だけ。それも練習試合だけだったなかでの1位指名だ。「ちょっとは僕のわがままも聞いてもらえるようになっていたからね。スカウトの人数も少ない時代だったし……。みんな僕を信用してくれたんじゃないかな。まぁ、文句言うにも言えなかっただろうしね、他は誰も見ていなかったのだから。見ていたら、あんなのアカンって言ったのかもね」と法元氏は笑いながら振り返った。

 だが、こうも言い切った。「おそらくどこの球団もびっくりしたと思う。びっくりさせるのがスカウトなんだわ。もちろん、ええから獲っている。僕は都を1位にしたことは大勝負とは思わなかったよ。こいつは必ずやるんじゃ、できるんじゃ、って思っていたからね」。都とは指名後に初めて話をしたという。「シャドーピッチングをやってって言ったら、軽く振っただけでビューン、ビューンって音がした。やはりすごいなって思ったよ」。

 入団交渉では思わぬ事態になった。「お父さんが『指名してもらえて、こんなにうれしいことはない。契約金はいりません』って言い出したんだよ。そういうわけにはいかないから、何とか最低限度の金額はもらってもらったんだけどね」。中日入り後の都はプロ3年目の1979年に1軍デビューを果たした。そこに至るまで法元氏は担当スカウトとして叱咤激励、時には練習に付き合ったりもしたそうだ。

 1979年9月20日のヤクルト戦(静岡・草薙)で、都はリリーフでプロ初勝利をマークした。「その時、僕は奈良にいたんだったかな。電波が悪い状況でラジオを聞いていた。うれしかったなぁ。すぐ都のお父さんにも電話したよ。『やりましたよ』ってね。お父さんは泣いてはったね」。練習試合を見ただけでドラ1に推した左腕はその後、中日優勝にも貢献。もちろん、都本人の努力あってのことだが、法元氏が伝説のスカウトと呼ばれる要因のひとつでもある。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)