熊本から2浪東大「第2志望も落ち続けた」彼の絶望
第二志望も落ち続け、絶望的な気持ちになった小山さん。その後東大合格をつかめた理由とは。※写真はイメージ(写真:マハロ / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は、熊本県立第一高等学校から北九州予備校熊本校で2浪して、東京大学文科一類に合格し、現在1年生の小山(おやま)廣起さんにお話を伺いました。
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北九州予備校で猛勉強?ではなく…
数々の浪人生を、難関大合格に導く北九州予備校。浪人生界隈ではよく知られた予備校であり、スパルタなイメージを抱く人も多いようです。
通称北予備のHPには「遅刻・欠席に対する指導を徹底」「茶髪やピアスの禁止」といった文言が並んでいます。
今回お話を伺った小山(おやま)廣起さんは、そんな北九州予備校での浪人生活を経て、東大の合格をつかみました。さぞかし猛勉強をしていたのかと思いきや、実はゆるく受験をしていたと語る小山さん。その勉強姿勢が彼の成績を大きく向上させることにつながりました。
彼が浪人時代にあえてゆるく勉強したのはなぜなのか。そして、それがなぜ彼の成績を上げることにつながったのでしょうか。
小山さんは、熊本県の宇城(うき)市・松橋(まつばせ)町に生まれました。
「両親は大学には行かずに、働いていました。姉も大学受験はしていませんし、何がなんでも勉強!といった家庭ではありませんでした」と語る小山さん。
幼少期にKUMONに通わせてもらいましたが、小学生になったら勉強をあまりしなくなったために、通うのをやめてしまいました。
「幼稚園と小学校のときはクラブチーム、中学では部活動でサッカーをしていて、勉強よりもそちらのほうに熱中していました。自分がやりたいと言ったことをやらせてもらえる環境だったので、両親には感謝しています」
とはいえ、学業成績も悪かったわけではなく、小学校時代は授業を聞いていれば、ついていけるレベルでした。
中学生になると1〜2年生のときは熊本ゼミナール、3年生のときは浦田塾に通い、それなりに勉強するようになったものの、高校受験を目標にするというよりも「できるだけいい成績を取れればいい」程度のモチベーションで勉強していたそうです。
「中学校は1学年に240人くらいいたのですが、その中で上位10〜20番くらいの成績だったと思います。中3くらいでみんなが『受験に向けて頑張るぞ!』という空気感になったので、そこで初めて自分自身の中でも勉強に対する意識が芽生えました。受験勉強をして、自分の学力に合っていて、かつ海外に行きたかったので短期留学プログラムが充実していた熊本県立第一高校に入りました」
受験の反動で勉強をしなくなる
県内3〜4番手の公立高校である熊本県立第一高等学校に入った小山さん。「東大に行く人は、(県内一の公立校である)熊本県立熊本高等学校に行くものだと思っていた」と語るように、この当時はまったく東大を意識していなかったそうです。
高校に入ってからの小山さんは、受験の反動からか勉強をしなくなり、1学年300人ちょっとの学校でほぼ最下位の成績をとってしまいます。しかし、この結果に危機感を抱いたことで、彼は勉強に目覚めました。
「さすがにこの成績はちょっとやばいな……と思い、少しずつ勉強するようになりました。すると高1の最後に150位くらいの順位を取れるようになりました。これがきっかけで、勉強により力を入れるようになったのです。
高2のはじめくらいにコロナが到来して、分散登校になったのですが、その時期も東進衛星予備校に入って勉強は続けていました。すると、次のテストでまた順位が上がって60位、とある外部の模試では学年1位も取れて、『あれ、もしかしたら自分はけっこうできるんじゃないか……?』と思い、もっと熱を入れて勉強するようになりました」
模試での1位という結果を受けて、「勉強時間も意識もガラッと変わった」と語る小山さん。意識が変わった理由としては、漠然と「行きたい」と考えていた東京外国語大学が狙えるレベルにまで達した、と思えたことが大きかったようです。
東京外大から東大に志望校を変えた
高2のコロナ期間もずっと勉強を続けた小山さんは、高3の初めまで順当に成績を上げ続け、クラスのテストでも1桁台の順位が取れるようになりました。
この成績の上がり方を見て、小山さんは志望校を変更する決断をします。
「高2の最初に受けた東進の模試は、偏差値は52で東京外大はE判定でした。しかし、学年末の2月に受けた模試での偏差値は62.5になり、C判定まで上がっていたんです。
この調子でいくと、東京外大に受かるだろうと考えたときに、このままのペースで勉強し続けていいのだろうか……と思うようになりました。せっかくだからいちばん上を目指してみようと思ったのです。高3の春の三者面談では、『東京外大を目指します』と先生に伝えたのですが、やっぱり違うな……と自分の中で思い直し、面談が終わったあとすぐ親に『東大の文一を目指すわ』と伝えました」
こうして東京大学に志望校を変更した小山さん。興味関心も変化し、政治学に興味を持ち始めました。東大では文一に入り、法学部の第3類の政治コースに行きたいと考えていたようです。
ところが、東京外大こそいい判定が出るようになっていたものの、東大の判定は高3の春の時点でE判定でした。最高学年時の勉強を彼は「手探りだった」と振り返ります。
「私の高校は、この当時東大合格者がほぼいませんでしたし、東大に向けた勉強法もわからなかったので、自分で試行錯誤しながら進めていました。不安だったのですが、やっていくうちにD判定が出て、ちゃんと成績が上がっているんだと安堵しました。夏か秋に受けた駿台の東大冠模試ではB判定がでたので、もしかしたら(東大に)いけるかもしれないと思いました」
確かな感触を感じていた現役時の受験。共通テストは686/900点で粘り、東大文一に出願したものの、結果は合格最低点に17点足りず不合格。後期で受けた東京外国語大学も落ちてしまいました。
東大の得点開示を見て、「点数的にはまだまだだなと思った」と当時を振り返る小山さん。
浪人を決断した理由を聞くと、「後期で落ちたから」という現実的な答えが返ってきました。
「浪人は(行くところがないから)自動的に決まったという感じでした。もともと両親からは浪人はできないと言われていたのですが、志望校が東大だったことと、検討していた北九州予備校熊本校のリベルテコースでは、東大の受験票があれば授業料を1年間無料にしてもらえると知ったので、両親の了承をもらえました。自分的にはもう一度挑戦したかったので、浪人を許してもらえてよかったです」
ついに模試でA判定を獲得したものの…
小山さんが通った北九州予備校は、冒頭でも触れたように非常に厳しく生徒を管理するイメージを持つ人が多いようです。一方で北九州予備校の中でも、小山さんが入ったリベルテコースは受ける講義を自分で決められる自由度の高いコースでした。
「勉強の進め方もチューターさんに口出しされるような感じではありませんでした。東大・京大を受ける人であれば、自分で勉強できるだろうからと、厳しさとは逆の方針で勉強させてもらいましたね」
こうして1浪目は、朝8時半から夜18時ごろまで予備校に通って勉強を続けた小山さん。模試の判定は夏までB判定で、秋に初めてA判定を取ることができました。
ところが直前の模試ではC判定に下がってしまいました。この年の共通テストは736/900点。前年と同じで前期試験で東大の文科一類、後期試験で東京外大を出願し、今年こそ大学に進学できるだろうと思っていたものの、またしても東大には合格最低点から11点足りずに不合格になり、東京外大も落ちてしまいました。
こうして小山さんは、2浪に突入します。
この結果を受けた小山さんは、1年間の受験生活ですでに疲弊しており、「もう1年の浪人は本当にしたくなかった」と振り返ります。
「後期の発表がある前は、後期で受かれば、絶対に東京外大に行くと決めていました。1年浪人をして本当にしんどかったので、今年で何がなんでも受験をやめてやると思っていたんです。だからこそ、東大はもちろんですが、東京外大に受からなかったことのショックが大きかったです」
この年に落ちた理由を、小山さんは「精神面・体調面を崩してしまったこと」だと考えます。
「1浪目は受験、人間関係でうまくいかず、精神面と体調面を崩してしまいました。そのため、思うように勉強ができなかったことが大きかったと思います」
そこで、2浪目に突入した小山さんは、このもう1年の浪人を、「力を緩めることにした」と語ります。
「春から夏くらいまではまじめに予備校に行っていたのですが、夏ごろになってもう精神的にこれを続けるのが無理だと思いました。そこで、チューターさんと相談して、体調面や精神面の健康を優先し、ゆるくやっていく方針に切り替えたんです。予備校に行かない日が増えたり、勉強しなかったりする日を増やしました」
無理しないで過ごすことを心掛けた
1日の勉強時間は、1〜3時間で、勉強した日も5時間程度だったと語る小山さん。勉強そのものをしない日も続いたようで、ずっと寝たり、近所を散歩したりする日々を送りました。しかし、そうした生活を続けたことで、夏以降の模試では全部A判定を取れるようになりました。
「無理しないように過ごしたことで、リラックスできたのがよかったのだと思います。また、睡眠時間を増やすことの重要性は身にしみて感じましたね。高校3年生から1浪までは、ずっと1日の睡眠時間が6時間程度だったのですが、2浪目は9〜10時間くらい取るようにしました。
また、社会人サッカーチームに参加し、定期的に好きなサッカーで身体を動かしていたおかげで心身が安定してきたのも大きかったです。これで成績が伸びたので、何事もなければ東大に受かると思えましたし、自分にとって、この決断をしてよかったと思います」
こうしてこの年の共通テストは過去最高の776/900点を記録した小山さんは、併願で出した上智大学の共通テスト利用も補欠からの繰り上げ合格を確保。東大の受験もそつなくこなし、合格最低点からプラス10点でなんとか合格して、2浪で東京大学文科一類への進学が決まりました。
東大に合格した小山さん(写真:小山さん提供)
こうして激動の2浪生活を終えた小山さん。浪人してよかったことを聞くと、「つらい経験ができたこと」、なぜ頑張れたのかを聞いたところ「頑張ったというよりは、頑張れるような環境を作ろうとしていた」という答えが返ってきました。
「私は浪人の2年間、精神的に追い込まれて慢性的な頭痛に悩まされました。だからこそ、周囲の苦しんでいる人に目を配ったり、なんとかしたいという気持ちが芽生えて、前よりも優しくなれたんじゃないかと思います。また、今まで挑戦したことがありませんでしたし、大きな失敗をしたこともなかったので、若いときにそれができたのはいいことだったなと思いますね」
非進学校から東大に進んだ人を支援
東京大学文科一類に入った現在1年生の小山さんは、複数のサークルに入って充実した日々を過ごしています。その中でも特に、非進学校から東大に入った人たちが、同じように非進学校で頑張っている人や、中高生を支援する「UTFR」というサークル活動に力をいれているそうです。
「浪人・受験勉強を通して私は、自分はそんなに強くない人間だということがわかりました。だからこそ、自己分析を徹底するようになりました。自身の生活態度やこれまでの経験・これからの進路などを深く考え、自分に対する解像度を上げることで、何をすればいいかを考えています。
今の自分の根っこには人の役に立ちたい、人のためになりたいというのがあり、そういう意味で「UTFR」では自分がかつて苦しんだように、同じような経験をした人たちと苦労を分かち合い、非進学校で頑張っている人を協力して応援していきたいと思っています」
そして、小山さんは、高校時代に定めた「国連の職員になる」という夢に向かって、現在も努力を続けています。
「世界遺産を扱うUNESCOに入り、世界平和について、文化の面から向き合っていきたいと考えています。今、この世界のどこかで苦しんでいる人のために自分の命を捧げたいと思っているので、そのために頑張りたいと思います」
たくさん悩み、苦しみ、苦労の末に合格をつかみ取った彼だからこそ、現在、人の気持ちに寄り添い、苦しい思いをする人のために生きることができているのだと思いました。
小山さんの浪人生活の教訓:苦しい思いをして乗り越えることで、同じ思いをする人の気持ちがわかるようになる
(濱井 正吾 : 教育系ライター)