富山港線はなぜ「日本初のLRT」になりえたのか
富山地方鉄道富山港線の岩瀬浜駅近くを走る「T100形」(筆者撮影)
日本初の全線新設LRTである栃木県の芳賀・宇都宮LRT(愛称ライトライン)は2023年8月26日に開業した。宇都宮市の広報紙では、沿線人口の増加や地価上昇、市民の歩数増加による医療費抑制など、すでに多くの効果が出ていると紹介されている。
ただし全線新設と書いたように、芳賀・宇都宮LRTは日本初のLRTではない。富山市を走る富山地方鉄道富山港線が、一般的には日本初のLRTとされている。
紆余曲折の富山港線
その富山港線は2024年7月で開業100周年。現在のように路面電車化されたのは2006年のことだった。けっして順風満帆だったわけではなく、現在に至るまで何度も運行事業者が変わっており、富山地方鉄道が担当するのは2度目という、紆余曲折を経て今に至る。
では富山港線が日本初のLRTと言われるようになったのはなぜなのか。筆者は2011年、『富山から拡がる交通革命』(交通新聞社新書)の執筆にあたって県内の鉄軌道を取材し、その後も何度か現地を訪れているので、当時の取材内容を含めつつ理由をつづるとともに、最近の動きも紹介していきたい。
【写真】「富岩鉄道」時代の貴重な白黒写真も。7月23日に開業100周年を迎える富山港線。2006年に路面電車化され「日本初のLRT」と呼ばれる(8枚)
富山港線は1924年7月23日、富岩鉄道という独立した民営鉄道として開業し、1941年に富山地方鉄道(当時は富山電気鉄道)に買収され、富岩線となっている。富岩という名前は、富山駅と港のある岩瀬地区を結んでいたことを意味している。
現在の奥田中学校付近を走る富岩鉄道(写真:富山地方鉄道)
当時は鉄道事業者が乱立しており、会社間の競争が激しくなっていた。これを受けて国では、合併などによって健全な発達を目的とした「陸上交通事業調整法」を施行していた。その結果富山県内では、国有を除くすべての鉄軌道が富山地方鉄道になった。
ところが同じ頃、戦時体制を受けて「陸運統制令」が施行・改正されたことで、民営鉄道の国有化の動きが起こり、1943年に富岩線は富山港線として国有化された。富山港へ直結しており、沿線に工場が並んでいたことが、買収の理由とされた。
「存続か廃止」以外の選択
国鉄富山港線としての時代は長く、そのままJR西日本に引き継がれた。ただし高度経済成長期に沿線にあった大学や工場が移転し、マイカーが普及したこともあって、利用者は減少しており、1970年には1日35本だった本数は、しだいに減少していき、2004年には19本になった。
当然ながら廃止という話が出るようになった。その議論は、北陸新幹線の建設決定で表面化することになった。在来線を含めて、富山駅付近を連続立体交差化することが決まったからだ。富山港線のホームをわざわざ高架で用意するのは妥当なのかという意見が出はじめた。
通常なら存続か廃止かの二者択一になる。ところが富山市ではこれに、路面電車化という第3の選択肢が用意された。この舞台作りを主導したのが、2002年に富山市長に就任した森雅志氏だった。
同氏は市長になる前、富山県議会議員を務めていた。ここで当時は加越能鉄道が運営していた、高岡市および射水市の高岡軌道線・新湊線を、第三セクターの万葉線として存続させるという道筋づくりに関わった。
森前市長が県議会議員時代に関わった万葉線(筆者撮影)
一方の富山市は2005年、周辺の6町村と合併し、市域が大きく拡がることになっていた。人口が減少し税収が減っていく中、これ以上市街地の拡散化が進むと、水道や除雪などの市民サービスが立ち行かなくなるという懸念があった。
そこで森市長は、既存の地域拠点に人を集め、質の高い公共交通で拠点をつなぐ、「公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり」を提唱した。その象徴として富山港線のLRT化を位置付けたのだった。森市長は就任翌年、富山港線の路面電車化を発表した。
日本初「ライトレール」の路線名
具体的には、富山駅の約1km東方にある奥田中学校前踏切を境に、北側は既存の線路を活用し、富山駅からここまで新設の併用軌道を敷いた。ゆえに踏切付近より北は鉄道、南は軌道扱いとなる。この時点ですでに、富山駅の南側を走る富山地方鉄道富山軌道線(市内電車)と接続は織り込み済みだった。
事業費は約58億円と算出されたが、連続立体交差化事業からの負担金として33億円、路面電車走行空間改築事業をはじめとする補助金約15億円があり、富山市の負担は10億円に抑えられた。それでも富山市では公費投入について、数多くの市民対話を行った。市長も120回の説明会に出たという。
以前から路面電車が走っていて見慣れていたこともあるが、多くの市民がプロジェクトに賛同した裏には、こうした地道な努力もあった。
運行会社としては、第三セクターの富山ライトレールが設立された。第三セクターの路面電車は万葉線に続き2番目、「ライトレール」という言葉を路線名に使ったのは日本初だった。
それ以外にも富山ライトレールには、日本初のLRTと呼べる部分がいくつかあった。
車両のTLR0600形は、万葉線MLRV1000形と基本的に同じで、熊本市交通局(熊本市電)9700型、岡山電気軌道9200形と基本設計を共有している。いずれも2車体連接構造のフルフラット(100%低床)車両だ。
ほかの事業者と違うのは、すべてこの車両で統一されたことである。よって駅や電停へのアクセスを階段ではなくスロープとしたこととあわせて、バリアフリー対応ができた。
車両からインフラ、広告・広報まで、すべてを統一イメージでまとめた「トータルデザイン」も、既存の日本の路面電車にはないものだった。こちらは東京に本拠を置く総合デザイン企業GKデザイングループと、地元の島津環境グラフィックスが手がけた。
バスと対面乗り換えも
走行音を抑えた新世代車両に加え、レールとコンクリートの路盤との間を樹脂で埋めた「インファンド工法」を取り入れ、快適性への配慮をしたことも注目だった。熊本市電の一部に採用されていたが、併用軌道のほぼ全線に投入したのはここが初めてだった。
途中駅で連絡するフィーダーバスをセットで導入したことも画期的だった。フィーダーとは枝という意味で、ライトレールという幹から伸びる路線であることからこう呼んだ。途中の蓮町駅と終点の岩瀬浜駅から1路線ずつが出ており、後者はLRTのホームの反対側にバスが停まる対面乗り換えとしている。
フィーダーバスの対面乗り換えを実現した岩瀬浜駅(筆者撮影)
ここまで書いてきた特徴は、おおむね芳賀・宇都宮LRTに受け継がれた。富山ライトレールが定義づけした「日本のLRT」を、全線新設とすることでレベルアップさせたのが、芳賀・宇都宮LRTではないかと思っている。
地上駅時代の富山駅と富山駅北電停(筆者撮影)
その後富山市では、2009年に市内電車の環状線が復活すると、2020年には富山ライトレールと市内電車が、高架化が完成した富山駅の下で接続し、富山港線の全電車が市内電車に乗り入れるようになった。
約77年ぶりに運営が「里帰り」
このとき富山ライトレールは富山地方鉄道と合併し、富山港線は約77年ぶりに富山地方鉄道の路線に戻った。車両形式もTLRが取れて0600形となった。日本のLRTの代名詞的存在だった富山ライトレールという名前を、あっさり手放したことに驚かされた。
よって表面上はLRTらしさが薄れたような感じもするが、実際は環状線も低床車両、バリアフリー、トータルデザイン、インファンド工法が導入されており、市内電車では低床車両T100形への置き換えが進むなど、LRTの考え方は着実に浸透している。
富山駅近くの併用軌道を行く環状線用9000形(筆者撮影)
では南北接続後、富山港線の利用者に動きはあったのだろうか。富山地方鉄道鉄軌道部営業課に尋ねたところ、「富山市が公表している『路面電車南北接続による効果について』に参考となる数字があります」と回答を得たので、早速目を通してみた。
そこでは新型コロナウイルス感染症流行直前の2019年と、3年後の2022年を比較しており、市内電車の利用者がコロナ禍もあって減少しているのに対し、富山港線は平日、休日ともに増えており、南北接続が効果を発揮していることがわかる。
南北接続直後の富山港線富山駅電停付近(筆者撮影)
南北接続の効果
富山港線の電車がすべて市内電車に直通するのに対して、市内電車は富山駅止まりが多いことも関係していそうだが、環状線が走る市の中心部まで乗り換えなしで行けるようになったことが大きそうだ。
南北を跨いだ利用者を駅・電停別に調べたデータもあり、富山港線では平日では乗車・降車ともにまんべんなく増えているのに対して、休日は特に終点の岩瀬浜駅や1つ手前の競輪場前駅の伸びが大きい。
東岩瀬―岩瀬浜駅周辺は、江戸時代から明治時代にかけて北前船の寄港地として栄えた頃の街並みが残っており、観光スポットとなっている。公共交通では富山港線と並行する富岩運河を航行する富岩水上ラインでもアクセスできるが、後者では富山駅側の環水公園と岩瀬カナル会館の間の乗船券に富山港線の片道乗車券がついており、1枚のチケットで2種類の乗り物が楽しめる。
こちらについても富山地方鉄道鉄軌道部営業課に尋ねたところ、「富岩水上ライン乗船券の利用数は、2020年は約6500枚で、翌年が4200枚、2022年は9400枚、昨年は1万3600枚でした」と教えてくれた。
富岩水上ラインは観光船なので、コロナ禍の影響は大きかったようだが、そこからの伸びが目覚ましいことがわかる。
沿線人口について見ると、市内電車沿線は近年微増傾向なのに対して、富山港線沿線は緩やかに減少している。にもかかわらず利用者数が増えているのは、利用者の約2割は交通手段が変化し、うち約5割は自家用車から転換したと回答しているからだろう。単純計算すれば1割はマイカーからの転換になる。
バリアフリー対応が施された城川原駅(筆者撮影)
南北接続前まで、富山ライトレールと市内電車の乗り換えは地下通路を使わなければならず、5分程度かかったと記憶している。でも今は電車に乗ったまま反対方向に行ける。この違いが、マイカーからLRTへの乗り換えを促したようだ。
話題性だけでない実力
新規に路線を開業することは、たしかにニュース性は高い。でも多くの人に乗ってもらうには、乗り換えを簡単にしたり、直通運転をしたりすることも大切と教えられる。
芳賀・宇都宮LRTのハードウェアは、富山ライトレールから継承されたものが多い。加えてここで紹介した資料のように、利用状況をさまざまな角度から分析し、多くの人にわかりやすい内容として伝えることも、芳賀・宇都宮LRTに受け継がれている。公共交通利用と医療費との関係も、富山市は5年前に公表している。
富山ライトレールという名前こそ使わなくなったものの、LRTの先駆者としてのプライド、先駆者であり続けるためのバイタリティ、的確に実績を伝えるコミュニケーション能力は健在であり、これからも日本におけるLRTのリーダーとして、多くの都市に影響を与える立場であり続けると思っている。
「鉄道最前線」の記事はツイッターでも配信中!最新情報から最近の話題に関連した記事まで紹介します。フォローはこちらから
(森口 将之 : モビリティジャーナリスト)