川出正樹が語る、翻訳ミステリ50年の受容史 『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』インタビュー
翻訳ミステリはどのような経緯をたどって現在のように多くの人に読まれるようになったか。その受容史を俯瞰できる本は、意外なことに存在しなかった。昨年末に刊行された川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)はミステリ叢書の成り立ちを調べ、どのような作品がそこに収録されているかを紹介するという類例のない研究書だ。扱われているのは1949年に刊行が開始された日本出版共同の〈異色探偵小説選集〉からミステリ評論家として名高い故・瀬戸川猛資が1996年に手がけた〈シリーズ 百年の物語〉までの15叢書である。通読することによって50年間の翻訳ミステリーの流れが見えてくる。著者の川出氏には興味深い話を伺うことができた。(杉江松恋)
参考:杉江松恋×川出正樹、2023年度 翻訳ミステリーベスト10選定会議 1位は暗い魅力を持つ作品に
自分の身になる形で翻訳50年の歴史が出来上がった
--こうした形で翻訳ミステリ受容の流れを編年形式で取り上げた本は先例がありません。本書は雑誌「ミステリーズ!(現・紙魚の手帖)」に2011年から足かけ7年にわたって行われた連載が元になっていますが、最初からこういう形式を考えておられたのでしょうか。
川出正樹(以下、川出):もともとは違います。もっと素朴に、本棚にミステリ叢書がいっぱいあるので何か語りたいということが始まりでした。連載では時代を気にせず順番はばらばらで、それこそ欠けている本が手に入ったからということでその叢書を取り上げるということもありました。単行本になる話が出たときに編集部との打ち合わせの中で、叢書刊行の年代順に並べ直してみたら戦後のミステリー受容史が見えてくるのではないかという案が浮かんできました。巻末に戦後に出た叢書・全集のリストが掲載してあります。扱ったのは約100あるうちの15に過ぎませんが、そのときどきのトピックを取り上げていますので、なんとなく戦後50年間の流れ、翻訳ミステリーが日本でどのように受け入れられたか、作家や出版社にどのような影響を与えたかということが見えてくるのではないかと思います。
--戦後すぐの叢書は出版社も自分の行く道を模索しているのがよくわかりますし、高度成長期を経て1970年代以降は文庫創刊もあって出版界全体が爛熟期を迎えます。現代の形にだんだん近づいていくのが見えますね。
川出:1970~80年代の文庫形式でミステリーが刊行されていく時代は私もリアルで体験してきました。それまでハードカバーで出ていたものが文庫へと劇的に変化していく流れは体感的にわかっていますので、そこは語っておきたかったことの一つですね。取り上げた叢書で言うと、河出文庫の〈河出冒険小説シリーズ〉とパシフィカの〈海洋冒険小説シリーズ〉は実際に出てくるところを目撃しています。翻訳ミステリーの受容史についてはさっきも話に出たように先行書がないので、自分の中にも体系と呼べるような知識はなかったんです。こうして一つにまとめてみると、さまざまな本や体験から抱いていた漠然としたイメージが、修正すべき点は修正され、強固になるところは強固になって、翻訳ミステリーに対する意識の体幹とでもいうようなものが固まったと感じました。書物で得た知識を自分の文章で語ることで、自分の身になる形で翻訳50年の歴史が出来上がったと思います。
--読者の側からしても、先人からの借り物だった知識を自分で修正しながら読んでいっているような新鮮な感覚がありました。世界の見え方が変わる本ですね。
川出:意図したわけではないですが、そういう読み方をしていだけるのは嬉しいですね。
--随所で叢書のキーマンになる方へのインタビューをしておられます。たとえば〈海洋冒険小説シリーズ〉の作品選定にあたった鎌田三平氏、、それに〈河出冒険小説シリーズ〉に携われた河出書房新社OBの野口雄二氏・小池信夫氏・小池三子男氏ですとか。このへんのインタビューの必要性は連載時のどのへんで気づかれましたか。
川出:〈フランス長編ミステリー傑作集〉を連載で取り上げようとしていた矢先に長島良三がお亡くなりになってしまい、直接、背景事情をうかがうことが出来ませんでした。その時の後悔から〈河出冒険小説シリーズ〉の時には、なんとしても編纂に関わった方にインタビューしたいと思い、河出書房新社のOBの野口氏に取材を申し込んだところ、後のお二人を野口氏が呼んでくださって、興味深い話をしていただけました。遅ればせながら長島氏と関係が深かった野口氏から氏のお仕事に関する貴重なお話もうかがえました。さっきも言ったように連載は時系列でやっていたわけではないので、どこでインタビューの必要性を感じたということがはっきりしているわけではないんですが、古い叢書だと物故者がほとんどなので、1970~80年代の叢書になってようやくお話を伺えるようになったということですね。他にも亡くならられたミステリ評論家の松坂健氏や翻訳者の金原瑞人氏にも取材しています。現代に近い人たちにはできるだけ伝手をたどってお話を伺うようにしました。お会いしてみると知らないことがどんどん出てくるのがわかったので、もっとお話を伺っておけばよかったと正直思っています。
〈世界秘密文庫〉の元の本はどのように調査したのか?
--個人的にいちばんおもしろかったのは、若者向けに出されたと思しき装丁の〈ケイブンシャ・ジーンズ・ブックス〉と集英社の〈松本清張編・海外推理傑作選〉が一緒に紹介されている章です。見た目はまったく違うんですけど、実は同じところに元ネタがあって、映画監督のアルフレッド・ヒッチコック監修と銘打たれたアンソロジーから作品が採られているという。ああいう意外な共通点が出てくるのが書誌研究の醍醐味だと思います。
川出:〈ジーンズ・ブックス〉は採り上げたかったんですけど、叢書の分量が物足りない。なんとかならないかと調べているうちに〈松本清張編・海外推理傑作選〉とのつながりに気づきました。ヒッチコック・プレゼンツを謳いながらヒッチコックが関与していないアンソロジーというのが実は100ぐらいあります。それをどのくらい掘れるかという勝負なんですけど、結局20冊ぐらいは海外から取り寄せました。
--取り上げた叢書の中でもっとも珍しいのは日本文芸社が1960年代中盤に出した〈世界秘密文庫〉だと思います。おそらくは版権を取得せず、本によっては日本人の陶山密が作者の名前として挙げられていて、翻訳なんだか翻案なんだかもはっきりしない。それこそ原著者名・原作題名も記されていない本なのに、川出さんはコツコツと調べて元の本が何かを突き止めていかれる。あの章は非常にスリリングですね。どうやって調べていかれたんですか。
川出:〈世界秘密文庫〉は海賊版の代表みたいな本ですけど、いいところもあって登場人物表はついているんですよ。そこに出てくる名前を検索してみると、特徴的な名前は引っかかってくる。たとえば『青ヒゲは顔が白い』にはマッキンドー警部という人が出てくる。マッキンドーというのはそうそうある名前ではないですから検索でヒットして、作品を取り寄せてみたら大当たりでした。『泥の中の結婚』という作品は、原作はミステリーでもなんでもなくて、1950~60年代に流行したソフトコア・ポルノのレズビアン小説なんです。それをビート族の絡む殺人が出てくる話に改竄してしまっている。この作品の原著をどうやって突き止めたかは、ぜひ実際に本を読んでご覧いただきたいですね。
--作者名を見て、私も声が出ました。あれは驚きますよ。本書の美点は、叢書の作品をすべて読んで可能な限り内容も紹介していることだと思うんです。どういう点について気を付けて紹介文は書かれましたか。
川出:昔のガイドブックって割りとつまらないものはつまらない、読む価値なし、と切って捨てているんです。ここで紹介している本の多くは手に入らないので、それは不親切だと思うんです。ただ、中にはいまさら古書店に高いお金を払って買うほどでもないものも含まれています。そういう作品についてはきちんと断るようにしました。この本に限らず普段の書評でも、紹介について気を付けていることはあります。サスペンス色の強い作品は読んでいく過程の変化を楽しむものなので、あらすじを紹介しすぎると読まなくていいや、という気持ちにさせてしまう。だから紹介してもせいぜい最初の50ページぐらいに留めるようにしています。最初のほうだけでは内容がわからない作品であれば、わざと途中をはしょって真ん中のほうに出てくることを、トリックや核心に関わるようなことは省いて書く。もちろん原則としてネタばらしは絶対にしません。私は自分を評論家体質ではなくて、いかにこの本はおもしろいかということを伝えるお薦め屋だと思っているんです。
--気づいたんですが、紹介の中でよほどのことがない限り訳文の質については触れてないですよね。
川出:自分で原文と比べているわけではないですし、翻訳について言い切るほどのスキルがないからですね。総じて昔よりも現在の翻訳のほうが読みやすいですし、技術的にも優れていることは確かです。ここで紹介したものは現在でも読める水準のものがほとんどですしね。この本での興味の対象は叢書の成り立ちと編纂意図のほうにあって、極論してしまえば収録された作品の質はどうでもよかったということもあります。たとえ作品がとんでもないものばかりであっても、叢書として翻訳史上に燦然と輝くような存在であればそれはそれでよかった(笑)。
本書で紹介された作品の中でのおすすめは?
--連載の第1回は東京創元社の〈クライム・クラブ〉で始まりましたが、これは伝説のマガジニスト植草甚一氏が編者です。最終回は前出の瀬戸川猛資氏が手がけた〈シリーズ百年の孤独〉でした。〈クライム・クラブ〉は全5回にわたりましたから、川出さんの「植草仁一のクライム・クラブ脳の中が見たい」という強い願望を感じます。
川出:この中で取り上げた中で〈クライム・クラブ〉は最もメジャーな叢書だと思います。ラインアップの特異さは、なぜこの作品を選んだのか、と興味を惹かれます。そもそも連載そのものが〈クライム・クラブ〉について語りたい、ということから始まったものなので、ここまで長期化するつもりも最初はありませんでした。〈クライム・クラブ〉の次は何をやろうか、その次は、と考え続けて7年です。それこそ叢書と同じですね。最初から収録作が決まってから始める全集と違って、何を入れるか考えながら、興味の続く限り連載はやっていこうと。
--取り上げるかどうするか迷ってやめたもの、できればやりたかった叢書というのもあるのではないですか。
川出:国書刊行会の〈ブラック・マスクの世界〉と早川書房の〈ミステリアス・プレス文庫〉ですね。前者は編者である故・小鷹信光さんがご自分の著書で語っておられていまさら私が採り上げるまでもない。後者は本当にやりたかったのですが、全部で156冊もあるので、すべて紹介すると何回で終わるかわからない(笑)。できればやりたかったのは〈ミステリ ペイパーバックス〉です。途中で版元名が福武書店からベネッセコーポレーションに変わってしまった叢書で、知っている限りこれについて触れている本はありません。2000年代以降になると藤原編集室の手がけた国書刊行会の〈世界探偵小説全集〉など古典発掘ブームが来るのですが、これに関しては適任者がおられるので、私がやることではないと思っています。
--今回の本からはやや話題が逸れますが、これだけの情報量を処理されるのはたいへんなことだと思います。どのように本から得た知識を整理しておられますか。
川出:よく聞かれるのが、そんなに買って全部読めるのか、という質問です。読めます。本は必ずしも全部読む必要はなくて、中に1ページでも自分の身になることがあれば買った価値はあると私は考えています。そうやって積み上げてきたものがいくつもあって、普段は個別に存在しているんですが、あっちとこっちを結びつけると化学反応が起きて、なんとなく道筋が見えてくる。そういう、おそらく読書家なら誰もやっているようなやり方ですね。書斎は、国内と海外、フィクションとノンフィクションというように分類してあって、それぞれの中は版元・レーベルごとになっています。雑誌類やレファレンスはまた別です。あのことに関する本は早川書房だからあのへんだよね、というように自分の脳の拡張領域みたいな形で本は置いてあるので、だいたいどこに何があるかは把握しています。
--情報検索という意味では、本書は索引が優秀だと思いました。
川出:まったくその通りで、これは編集部の労作ですよ。索引だけで40ページを超えています。よくある作家別・作品別索引って、実はあまり使い勝手がよくないんです。とにかく索引を充実させようということで本書では、作家名の下に作品名が並ぶ配置になっていて、これは編集部からの提案でした。校閲は本文・リストとも8回、さらに疑問が出た箇所について2回追加があって、人的・時間的労力はとにかくそこにかかりました。
--まさに歴史的労作でした。著者・編集者ともお疲れさまです。最後に本書で紹介された作品の中から、記事の読者向けに絶対読んでおもしろいという本を何冊か挙げていただけないでしょうか。古本でも手に入りやすいもの、という条件でいかがでしょう。
川出:〈クライム・クラブ〉からだと最近新訳の出たカトリーヌ・アルレー『わらの女』(創元推理文庫)はどうでしょう。誰が読んでもきちんとおもしろい本だと思います。あとは意外なところで〈ウィークエンド・ブックス〉(講談社)のアリステア・マクリーン『原子力潜水艦ドルフィン』。元本は当然絶版なんですが『北極基地/潜航作戦』の題名でハヤカワ文庫NVに入っています。火災に襲われた北極基地から生存者を救うために原子力潜水艦が向かうという話なんですけど、大自然の脅威との闘いを描きつつ、目的地に着いたところで事故ではなく敵側による破壊工作である疑いが濃厚となり、さらに潜水艦内で連続殺人が発生したためスパイをあぶり出し、謎を解かなければならなくなる。最後には艦長が関係者を集めて、さて、と謎解きを始めるという、ミステリの要素がいくつも詰まった作品です。あとは〈シリーズ 百年の物語〉からマーク・マクシェーン『雨の午後の降霊術(会)』とシャーロット・アームストロング『魔女の館』。両方とも創元推理文庫に入っていて、前者はコンパクトながら強烈な謎のある作品、後者のアームストロングは何を読んでもおすすめという素晴らしい作家です。
(杉江松恋)