エスカレーターの片側を歩く人はブロックしていい…医師が「片側空けはマナーではなく因習」と断ずる理由
■「目立つくらいなら不便に耐える方がまし」
高齢患者さんを診察していると、老化や病気などに伴い足腰が弱まっている人も少なくない。そうした人にとって非常に厄介かつ危険ともいえる問題が、「エスカレーターの片側空け」だ。
「片側空け」とは、エスカレーターを歩行したい人のために、右側もしくは左側を歩行用通路として空けるもので、とくに駅構内で多くみられる現象だ。すっかり定着している正統派マナーであるかのようにも見えるが、じつは正統派どころか、今すぐ廃止されるべき「因習」であると断ずるほうが正しい。
その理由は輸送効率の低下だけではない。接触や転落事故といった危険をもたらすことはもちろん、杖をつく人や、立つ側によっては体を支えきることができない人にも大きな不便を強いるものだからだ。これらの観点から、もう何年も前から止めるべきとの指摘が再三なされていることをご存じの方もいるだろう。だが今なお、いっこうに改められないままなのである。
この問題は、これまでもプレジデントオンラインをはじめ、多くのネットメディアやSNSでも取り上げられてきた。神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は「エスカレーター二列使用者からひとこと」という題で新聞に寄稿したといい、「これ、日本人の宿痾です。『目立つくらいなら不便に耐える方がまし』なんです」とXで指摘している。
■「片側空け」の発端は前回の大阪万博だった
後述するが、鉄道各社も一応はポスターや自動音声などでエスカレーター内の歩行に注意するようアナウンスしてはいるものの、あくまでも「お願い」レベルのものであって、その呼びかけは「歩きスマホ」や「駆け込み乗車」にたいするものに比べると、ずいぶんと控えめだ。
一方で、埼玉県や名古屋市といった地方自治体では条例を制定して「エスカレーターは両側に立ち止まって乗ろう」との呼びかけをおこなっている。
ただ、2021年10月に条例を施行した埼玉県では、施行3カ月後には歩行する人が施行前の60%から40%にいったん減ったものの、施行後1年ですっかりもと通りになってしまったとのことで、これも抜本的な解決策となったとは言いがたい。私が通勤で利用する私鉄、JR、東京メトロ各線でもいまだに右側が「歩く人用」に空けられ、時間帯によっては左側に長蛇の列ができている。
そもそもエスカレーターで片側を空けて急ぐ人に歩かせるシステムを作ったのは、大阪の阪急電鉄が梅田駅において「片側空け」を呼びかけたことが発端とされる。
それは1970年の大阪万博の直前で、当時の先進国で当然とされていた「片側空けマナー」を日本でも普及させることで、日本も先進国の一員として恥ずかしくない姿を見せるためだったと言われている。なんと前回の大阪万博がこのような非効率かつ危険な「因習」を作ってしまったのだ。
■今度は「歩行をためらうエスカレーター」を設置
その重大な責任を感じているのかは不明だが、今回の大阪万博では自ら作った因習を打破しようとする奇妙な試みが行われるという。
それは万博の開幕に先駆けて25年1月末に開業する大阪メトロ夢洲(ゆめしま)駅で、「片側空け」をさせないように誘導するエスカレーターを導入するというものだ。
万博会場の最寄り駅となる同駅では、会期中、1日当たり約12万6000人の利用者が想定されている。電車は2分半間隔で到着するため、多くの来場者がホーム中央の3台並列の上りエスカレーターに集中することは必至だ。そこでいかにホーム内の人の滞留を抑止し、エスカレーターに効率良くかつ安全に利用客を誘導するかが重要な課題なのだという。
では、具体的にどのようにするのか。
「片側空け」をさせないよう誘導するエスカレーターを開発した日立および日立ビルシステムによると、その試みとは、エスカレーターに仕込んだ複数のLED照明によって、歩行をためらい両側に立つ行動を利用者に呼び起こそうとするものらしい。
はたしてこれに効果は期待できるのだろうか。日立ビルシステムの広報担当者によれば「すぐに大きな変化は起こるものではないかもしれないが、利用者にちょっと意識していただくきっかけになれば」とのことである。
■なぜ鉄道各社はこうも及び腰なのか
これは「ナッジ理論」を応用したものらしい。ナッジ理論とは、行動経済理論のひとつであり、人の意思決定や行動を強制や指示ではなく、「そっと望ましい方向に促す」ことで変容させるものだという。
例えばトイレに貼られている「いつもきれいにお使いいただきありがとうございます」や、コンビニのレジ前の床に列の方向と間隔を示すために描かれている「足跡」が、これに当たる。
条例でも変えられないことから、このような手法が試されることになったのだろうが、それ以前に、鉄道各社の対策は、はたして十分になされてきたと言えるだろうか。
以前、私は駅係員にエスカレーター片側空けの解消をなぜもっと積極的におこなわないようアナウンスしないのか尋ねたことがある。しかしその際の返事は「おっしゃるとおりなのですが、やはりお歩きになりたい方もいらっしゃるので……」という、なんとも腰の引けたものであった。
じっさいJRのある駅で流れている自動音声も「歩行は思わぬ事故の原因となるためご注意ください」というものだ。これを聞けば「気をつけさえすれば歩いてもよい」と勘違いする人もいるだろう。なぜ鉄道各社は、片側空け対策にこうも及び腰なのだろうか。
■そもそも健常者が速く上がるための装置ではない
ここで誤解している人がいる可能性があるので再確認しておきたいが、そもそもエスカレーターは、足に障がいがなく脚力が衰えていない人、いわゆる健常者にとっては、早く階上に上がるための装置ではない。
一般的なエスカレーターの速度は0.5m/秒であるが、これは健常者が階段をふつうに上がる速度(平地の歩行速度1m/秒の40%遅い速度、すなわち0.6m/秒)よりもやや遅いからだ。早く階上に上がりたい場合には、階段を上ったほうが、断然速いのである。
つまりエスカレーターは、階段を速く上れない人が、健常者と同じくらいの所要時間で階上に到達できるようにするために存在している装置、すなわちバリアフリーの装置なのである。先ほど紹介した「お歩きになりたい方もいらっしゃるので」と言った駅係員には、この視点が完全に欠落している。
そして現状では、この「お歩きになりたい方」が最優先に扱われ、それ以外の人、すなわち階段を上ることのできない人が、長蛇の列に黙々と並ばねばならない空気に支配されているのである。
ナッジ理論も悪くはなかろうが、障がいのある人や、脚力の弱っている人が健常者に道を譲っているこの現状は、一刻も早く変革せねばならない。そのうちに皆の意識が変わって……などと言っている場合ではないだろう。
■大型連休中の東京駅で見た「やればできるじゃないか」
ではどうすればいいのか。
先日、ゴールデンウィークの真っ最中にはずせない所用があって、東京駅から東海道新幹線を利用することになった。覚悟はしていたが想像通りの大混雑。そのとき新幹線の改札を入った先のエスカレーターでは、駅係員が横に立ち、次々と押し寄せる利用客にたいして「片側を空けずに両側に立ち止まってお乗りください」と連呼していたのだ。
大きな荷物を持つ人が多かったこともあろうが、そのエスカレーターでは誰一人歩行することなく、整然と両側立ちが実践されていたのである。やればできるじゃないか……私はそう思った。
おそらくけっして安価ではない「最新の高性能エスカレーター」、しかもそっと意識変革を促す実験を万博会場でおこなったところで、その後の日常が変わるとは到底思えない。東京駅での駅係員がおこなっていたような「今すぐできること」を、なぜ日常的に実行してこなかったのか。
まずは1カ月、朝夕のラッシュ時間帯だけでもいい。全国一斉に、同時多発的に鉄道各社が各駅で、毎日毎日「片側空け禁止」「歩行禁止」とハッキリと利用客にアナウンスするキャンペーンを行うだけで、かなりの効果が期待できるのではなかろうか。そのマンパワーがなければ、エスカレーターのステップに「片側空け禁止」「歩行禁止」とド派手な色彩で描けばいい。LEDのような高価な細工など必要ない。
■エスカレーターを歩く人は、時間の使い方が悪い
そしてこのキャンペーンについて説明する際には、歩行と片側空けは接触事故の危険の原因となるだけでなく、身体の不自由な人を長蛇の列に追いやる「迷惑行為」に該当することを、ハッキリ認識できるようアナウンスすることが必要だ。
そもそもエスカレーターを歩行したからといって、立ち止まって乗るのと比較して、たいして時間の節約にはならない。先ほど紹介した速度から「半分の時間で上がれるじゃないか」と思う人もいるだろうが、20mのエスカレーターであっても40秒が20秒になるだけだ。20秒の時短にどれだけの意味があるというのだろうか。
SNSでは「右側に立ち止まっていた人がいたせいで電車に乗り遅れた」などと愚痴を投稿している人がいるが、たった20秒程度で乗り遅れてしまったのなら、それは立ち止まっていた人のせいではない。そこに至るまでの時間の使い方と読み方が間違っていただけだ。
「歩きスマホ」で寸暇を惜しんで情報収集し、「エスカレーター歩行」で数秒早くプラットホームに到達、「駆け込み乗車」で一本でも早い電車に滑り込む……。これらをおこなっている人は、自分のことを効率的で時間を有効活用している人間だと思い込んでいるかもしれないが、それは大きな勘違いだ。自分の行動によって迷惑する人が生じても気にしないという、極めて自己中心的な考えなのだ。
■自信を持って「歩行」をブロックしよう
この「因習」がおかしいと思いながらも、つい片側空けに「協力」してしまっている皆さん、自己中心的な行動に道を空ける必要などない。今すぐ両側交互に立ち止まって乗ることを実践しよう。
やり方は簡単。前の人が左側に立ったら右に立てばよいだけだ。あなたが「お歩きになりたい方」をブロックすることで、エスカレーターを上ることのできない人を、長蛇の列から救い出すことができるのだ。きわめて真っ当な行動ゆえ批判される筋合いなどない。自信を持ってブロックしよう。
もしその自信が持てなかったら、せめてこの記事をプリントアウトして、駅係員に渡してほしい。あわせて片側空けを放置することは、健常者にたいする「非合理的配慮」であって、社会そしてあらゆる企業に現在求められている、障がい者にたいする「合理的配慮」と真逆のおこないであることを、教えてあげてほしい。
そして本稿を読んでいる鉄道各社関係者の皆さん、この「片側空けと歩行」が、輸送効率化や危険の問題はもちろん、身体の不自由な人をバリアフリー装置から追い出す迷惑行為であるとの認識を持って、「歩行禁止」の大キャンペーンを全国展開してほしい。
全国の鉄道各社が同時に本気になれば、1年もあれば人々の行動は変えられるだろう。もっとも1年後に「片側空け」がこの国から撲滅されたら、珍妙なエスカレーターを導入してしまった大阪万博が、また笑いものになってしまいそうだが。
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木村 知(きむら・とも)
医師
1968年生まれ。医師。10年間、外科医として大学病院などに勤務した後、現在は在宅医療を中心に、多くの患者さんの診療、看取りを行っている。加えて臨床研修医指導にも従事し、後進の育成も手掛けている。医療者ならではの視点で、時事問題、政治問題についても積極的に発信。新聞・週刊誌にも多数のコメントを提供している。2024年3月8日、角川新書より最新刊『大往生の作法 在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方』発刊。医学博士、臨床研修指導医、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。
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(医師 木村 知)