民主主義幻想が消えた「西洋」が没落する歴史的理由
2022年3月7日、国連人権理事会におけるロシアの理事国資格停止を求める決議案の採択結果。193カ国中賛成93、反対24、棄権58となった。ウクライナ侵攻後、国連総会はロシアを非難する決議(賛成141カ国)、ウクライナの人道状況をロシアの責任とする決議(童140カ国)を採択した(写真・Michael M. Santiago/Getty Images)
今からほぼ100年前、1冊の本が書店に並んだ。それはオットー・シュペングラー(1880〜1936年)の『西欧の没落』(1918年)である。フランスのアナール学派の創始者の1人でもあるリュシアン・フェーヴル(1878〜1956年)は、その本が飛ぶように売れたときの様子をこう述べている。
「ドイツに一冊の書物が現れた。著者は当時無名のシュペングラーで、『西欧の没落』というセンセーショナルなタイトルが付されていた。ライン河畔の本屋の店先に山と積まれていた八折り版が当時飛ぶように売れるさまを今でも眼に浮かべることができる」(リュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社ライブラリー、87ページ)。
ドイツの崩壊と西欧の没落
シュペングラーの名は一躍有名になったが、この書物は、第一次世界大戦の直後に出版されたことで、戦争に病んだ人々の心をとらえたのだ。敗戦に遭遇したドイツの人々の多くは、ドイツの崩壊と西欧の没落を予感し、この書物を我先に買ったのである。もちろんこれは杞憂に終わったとも言える。
それは、西欧の代わりにアメリカという西欧が出現し、それから100年、なんとか西欧の地位を維持することができたからである。
しかし、2024年現在、ガザとウクライナで問題を抱える西欧の人々は、西欧の没落と同じことを考え始めているともいえる。今まで疑っていなかった西欧の自信が揺らぎ始めているのである。
それは西欧の代表でもあったアメリカを含むアングロ=サクソン帝国の世界が崩壊しつつあるかに見えるからである。
前回私はエマヌエル・トッドの『西欧の敗北』という書物を紹介したが、そこに書かれたウクライナとロシアについては言及したが、本題の西欧については言及しなかった。今回はその西欧についての部分を紹介したい。
この書物の最後の方の11章に、なぜ世界の残りの国はロシアを選んだのか」という章がある。その中に地図が掲載されている(307ページ)。そこには、ウクライナ戦争直後の4月7日、国連総会でのロシアに対する制裁決議案に賛成した国と、反対した国が、区分されている。
断固たる非難決議を支持した国と、それ以外の国を分けると、圧倒的に多くの地域が、この決議案に積極的に賛成しているのではないことがわかる。アメリカとEUそして、日本などの一部の国を除いて、多くは、この非難決議案に、同意していないのである。
西欧を支持しなかった国の多さと西欧の誤解
ここからわかることは、いわゆる西欧(ここでは東欧も含まれる)は、人口にして12パーセントであり、残りの88%の非西欧人は西欧と同じようには考えていないということである。
エマニュエル・トッド氏の「西洋の敗北」(邦訳未刊)
その理由は、非西欧世界の人々にとって、グローバル化とは再植民地化の過程であり、非西欧には西欧とは違う価値基準が存在し、それが西欧と足並みをそろえることを拒否しているからである。
もちろん、ロシア人が彼らに好まれているわけではない。ただロシアは自らの価値を世界の価値だと喧伝もしないし、価値観を押しつけもしていないから、非西欧にとって、それは付き合い安い相手にしかすぎないのだ。
ウクライナ侵攻に関して西欧が盛んに主張していたキャッチフレーズに、「民主主義と自由を守るための闘争」だというものがあった。しかし、トッドは、それに対して、それでは西欧には本当に民主主義国というものあるのか、本当に自由があるのかという問いを発している。
西欧を西欧たらしめているものを、トッドはフランスのようなカトリックではなく、プロテスタントに求めている。だから不思議なことに、西欧の敗北の分析対象としてフランスを含めたカトリックの国は対象外となっている。対象は、ドイツ、イギリス、北欧諸国、そししてアメリカ合衆国である。
「もしマックス・ヴェーバーが主張しているように、プロテスタンティズムこそ西欧発展の動力であったとすれば、今日プロテスタンティズムの死は、西欧の崩壊とその敗北の非常に月並みな原因ということになる」(140ページ)
アングロサクソンの民主主義の変容
プロテスタンティズムの宗教精神が刻苦勉励という資本主義の精神を生み出したというのはマックス・ウェーバーが主張した有名な議論だが、一方でこの思想は人種差別主義も生み出している。
黒人差別やナチズムのような差別が強いのも、カトリック地域ではなくプロテルタント地域だ。そうした差別意識が、民主主義という概念と結びついたら、どうなるのか。
プロテスタンティズムの刻苦勉励は、選ばれたエリートを生み出し、それによる経済発展が生まれる一方、そうした精神をもたない人々に対する差別を生み出す。もし、そうした宗教精神が消えれば、プロテスタンティズムは、ただのエリート主義になりかねない。
ゼロ度のプロテスタント精神、すなわち宗教精神を欠いたプロテスタントはエリート主義に陥り、それは一方で寡占的オリガーキーの社会を形成する可能性があるのだと、トッドは指摘する。
となると、その時点で民主主義はすでに完全に失われているともいえる。宗教精神が喪失した今では、エリート主義が、寡占的支配を生み出し、セレブの社会を作っているのだという。選ばれしセレブの自由な民主主義になりつつあるという。
ウクライナ戦争で問題になった自由と民主主義を守るという言葉自体が、すでに今では意味を失っているのではないのかというのだ。
では現状はどうなっているのか。もはや民衆に開かれた民主主義ではなく、一部のエリートに自由に開かれた自由な寡占的(オリガーキー)社会のみが存在していることになる。
しかし他方で、ロシアなどの地域ではかえって民衆の平等が支配し、確かに選ばれた政治家が権威主義的な力をもつことはあるが、それ自体は公平な民主的制度によって担われているともいえる。そうした社会をトッドは、全体主義社会ではなく、権威的民主社会と表現する。
「権威主義的民主社会」の浮上
そうなると、自由と民主主義vs全体主義という図式はもろくも崩れ、寡占的自由な社会vs民主的権威主義との対立となり、そもそも西欧が守っているものは、今では自由と民主主義ではなく、寡占的な自由な社会であるというのだ。
今の民主主義社会は、かつては衆愚社会と呼んでいたものですらなく、無能な一部エリートの寡占的社会だというのだ。
こうして西欧の政治家たちやジャーナリストたち、学者たちエリートは、内輪のセレブな社会にいそしんだ結果、ウクライナで起こっていることの判断を間違ったというのだ。
現実に起こっていることから、何を読み取るかではなく、今まで信じて来た安定と平和という価値観から抜けだすこともできず、現状にただ驚き、うろたえ、現実をしっかり見ることもできず、自らが現実の歴史の中にいることを忘れ、歴史の傍観者になっているのだという。
そして「さらに悪いことに、彼らは旅行者として歴史を横断し、ヴァカンス中の夜に「モノポリー」のゲームを楽しむように、言葉でヨーロッパを作りあげ、人々を煙に巻いたのである」(162ページ)。
トッドは、このような状態のことをロシアでは、「マクロン化」(Macroner)という新しい動詞として使われているのだと、紹介している。つまり、「何かしゃべりまくっているが、なにも語っていない」という意味だ。
とりわけ西欧社会を危機に陥れているのは、ロシアや中国が強くなったことではなく、西欧社会の大国アメリカの劣化だという。それはウクライナ戦争報道においても現実を直視せず、希望的観測の報道に終始したニヒリズム的態度に現れているという。
その劣化は、アメリカ人の平均寿命が下がっていることにも現れている。2014年の77.3歳から、2020年の76.3歳に減少しているのだ。自殺、アルコール、戦争などの原因があるにしろ、1人当たりの所得7万5000ドルの国とは思えない水準である。
もちろんGNPなどというものは、ドル計算によるバブル計算にしかすぎない。金融サービスと産業が同じ金額だとしても、それが経済に与える意味はまったく違う。西欧社会は、日本とドイツを除いて産業の割合が低く、それに比べて非西欧ではその率がとても高い。実質的な豊かさを実現できていない、ドルだけもっているバブル社会だともいえる。
オリガーキー民主社会vs権威主義的民主社会
こうした現状の中で、トランプなどの右翼政権があちこちで生まれているのはなぜかという深刻な問題もある。まさにエリートの思考と大衆とのねじれ構造がそこにあるのだが、西欧社会の一般民衆がデモクラシーからネグレクトされていることにも原因がある。
政治家も一流大学を出るエリートも、今や一部のものに限られるようになり、ジャーナリズムも法律も大衆にとって不都合な物になってくる中で、大衆は絶望感に陥っているともいえる。
そして、与えられるメディア情報も事実と真逆の都合のいい情報ばかりと来ている。そうした中で大衆は、エリートが「盲目」であるのと同じく、盲目の状態に追いやられている。
そう考えると、西欧社会が民主主義的だという根拠がどこにあるのかともいえる。そしてその民主主義が、まるで絵に描いた餅であり、現実が完全に裏切られているとすれば、大衆はどう抵抗すればいいのか。まさにそれが西欧社会で分断が生み出されている原因でもある。
刻苦勉励と高尚な意識を持った選ばれしエリートが、たんなる寡占支配の無能のゾンビ(生き返った死者)の集まりになったとき、人々が怒りをもってポピュリズムに流れるのも致し方のないことなのかもしれない。
民主主義という名の西欧の幻想
また非西欧諸国の多くが、民主主義という名の西欧の幻想にうんざりしていることも確かである。民主主義と自由が、新自由主義として新しい植民地主義をそれらの国に強いてきたのだとすれば、非西欧世界が西欧的価値観に対する偽善と嫌悪の意識を持つのも当然かもしれない。
もちろん、トッドの議論は親族構造などの歴史的背景を中心に世界を考察してきた社会学的分析、すなわち各地域の歴史的構造の分析にすぎないのかもしれない。この議論で、深層的構造を説明することは可能だが、突然変化する社会構造を説明することは難しい。
だから、ややもすると極めて保守的な議論になりかねない。新しい平等や自由を求める声が、旧い構造を変化させるのでそれを拒否し、旧い構造の持つプラスの側面を評価すればするだけ、保守的思想こそ重要だということになりかねないからだ。
しかし、人間のあり方がそう簡単に変化しないことも確かだ。各地で起きている西欧的価値観の受容がうまくいっていないことが、まさにそれを証明している。グローバル化の中で人間はよく似てくると同時に、他方でますます異化していくというのも事実だからである。
西欧が没落したかどうか、今のところまだわからないが、西欧の歴史が相対化される時代が始まったことだけは確かであろう。だからこそ、トッド以外に多くの同種の西欧没落論が今あちこちで出版されているのかもしれない。コロナそしてウクライナ、そしてガザ以降、西欧の没落は必然化してきたのかもしれない。
(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)