消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜中島輝士(前編)

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「本当は、高校からすぐプロに行きたかったんです。プリンスじゃなくて」

 1988年のソウル五輪で全日本の4番を任され、日本の銀メダル獲得に大きく貢献した中島輝士。プリンスホテルでも打線の中軸として活躍し、88年のドラフト1位で日本ハムに入団した。だが中島自身、福岡・柳川高のエースだった当時からプロ志望で、実際にある球団からは指名順位まで伝えられていたという。


1988年のソウル五輪で全日本の4番を任された中島輝士

【シャツから下着までクリーニング】

「でも、親父が高校2年の時に亡くなっていて。おふくろとしては『母子家庭で息子がプロに行くのは怖い』っていうイメージがあったみたいで。それで安定した社会人に行くことになったんですけど、地元の佐賀の知人に、堤義明さんのお父さんである堤康次郎さんの鞄持ちだった方がいて。その方が東京プリンスに勤めていた関係でお世話になったんです」

 身長187センチの大型本格派右腕。英国の未確認生物"ネッシー"にちなんで"テルシー"と呼ばれ、柳川高では1年時に神宮大会優勝投手。80年、3年時の春にセンバツで甲子園大会に出場した。翌81年にプリンスに入社した時、高校出では泉州の藤井康雄(元オリックス)、秋田商の高山郁夫(元西武ほか)、松商学園の川村一明(元西武ほか)らが同期の3期生だった。

「入社して、まず寮の環境面に驚きました。シェフがつくる食事もそうですけど、ユニフォームは練習着まで全部クリーニングなんです。洗濯機がいっぱいあるのに、みんなシャツから下着まで出しちゃう。それが、81年、82年と都市対抗に出られなくて、『自分で洗濯しろ』に変わったんですけどね(笑)」

 都市対抗に出られないとなると、7月から8月は公式戦がない。そこで社業に専念することとなり、新高輪プリンスホテル所属だった中島と藤井はまずルームボーイになって部屋の掃除。その後、宴会係になってテーブルのセッティングをしたり、食器を拭いたり。しかし、とりかかろうとするたびに担当者に制された。

「結局、野球部はね、テーブル動かそうとしたら『おまえら、指挟んだらいかんから見とけ』って言われる。グラスを拭こうとしたら『割れたら大変だ』って止められる。『野球やることがいちばん大事なんだから』って。都市対抗予選で負けたからって、ホテルで働いている皆さん、冷たい目で見るんじゃなくて、優しくしてくれる。過保護なぐらいでしたね」

【右肩の故障により野手転向】

 社業の現場では特別扱いの野球部員だったが、中島自身、3年目の飛躍を目指していた83年、右肩を故障。肩鎖関節下の静脈に血行障害を発症し、長野の病院に4カ月入院する。セ・パ両リーグでチームドクターを務めた整形外科医、吉松俊一に治療を受けていたが、最終的に手術をしても2年間は投球不能と診断された。

「その時、監督の稲葉誠治さんに相談したら、『テル、おまえ、1年だけ野手やってみろ』って言われたんです。当時の社会人はまだDH制じゃなくて、ピッチャーが打席に入ってたんですが、そこで僕がけっこう打っていたこともあったんでしょう。ピッチャー出身の監督さんだったので、投手陣をよく見てくれていたのもあったと思います」

 稲葉は1917年生まれで当時66歳。愛知・旧制岡崎中時代から投手で、東京六大学の慶應義塾大では39年春、40年春のリーグ優勝に貢献した。56年には慶大監督に就任し、同年秋にリーグ優勝。60年から社会人の日通浦和の監督を務め、64年の都市対抗で優勝に導いた。そうした実績を買われてプリンスに招聘されたが、編成面と采配は助監督の石山建一に任せていた。

 だが、その石山が81年途中に辞任。都市対抗予選敗退の責任をとった形だったが、会社とのトラブルで別会社に左遷された。その影響もあって翌82年、都市対抗は予選で敗退。それでも、「投手育成の名人」と呼ばれた稲葉の指導で投手力が改善。83年から2年連続、第一代表で都市対抗に導くことになる。そんな指揮官からの助言で、84年、中島は野手転向を目指した。

「それでやってみたら、何も苦労しなくて打てたんです。肩を壊した時はこれも運命だなと思って、プロも断念せざるを得ないのかなと、あきらめかけていたんです。それが稲葉さんのひと言でバッターに転向して、何か自分が生まれ変わったような気がしましたよね」

 当然ながら、バッターとしては同期の藤井らに後れをとったぶん、中島はバットを振り続けた。寮で「よく振るなあ」と言われたこともあったが、少年時代からバットを振ることは楽しかった。誰よりも打ちたいという気持ちが強かったから、まったく苦ではなかった。ただ、中藤義雄(倉敷工高/元近鉄)を筆頭に高校出の野手が成長。都市対抗のメンバーには入れなかった。

【都市対抗ベスト4に貢献】

 一方、84年を前に7名がプロ入りしたプリンスは、他社からふたりのベテランを迎え入れている。34歳の右腕・鈴木政明(岡山・勝山高)と32歳の外野手・中本龍児(近畿大)。いずれも最初は大昭和製紙でプレーし、80年に都市対抗で優勝したが、81年に同社が休部となってヤマハ発動機に移籍。83年にヤマハ発動機も休部となり、同社から揃って加入した。

 鈴木は68年から16年連続で都市対抗に出場中で、2度のドラフト指名も入団は拒否。87年には史上初の20年連続出場を達成し、投手陣を支えた。中本は3番・右翼で活躍しつつ、それまでいなかったまとめ役として貢献。84年限りで現役引退も、同年秋に監督で復帰した石山からコーチに任命された。チームが新体制となり、石山が中島を見る目も変わっていた。

「石山さんとしては、『ピッチャーとして難しいなら社業に』と思われていたみたいです。でも、復帰された時に『テルシーはバッターになってよかった』と喜んでくれて。実際に試合で打ち出したら、『コイツはちょっと違うぞ』みたいなことを言って、周りに広めてくれる。監督であり、勝負師でありながら、何か宣伝部長のようなところがあったと思います。

 やっぱり、早稲田の監督の時に岡田(彰布/元阪神ほか)さんをはじめ、いろんないいバッターを見てきて、目はたしかな方だと思うんです。藤井をいきなり4番で使ったのもそうだし。"ひよっこ"だった僕が全日本に選ばれるとか、石山さんが世に送り出してくれたのかなと。だから、バッターに転向させた稲葉さん、宣伝してくれた石山さん、ふたりとも間違いなく恩師です」

 86年、都市対抗初出場時は8番・左翼だった中島だが、翌87年はプロ入りした藤井のあとを継いで4番・一塁。都市対抗予選で打率3割5分、3本塁打とパワーを発揮すると、第一代表で出場した本大会、日本IBM野洲との1回戦で2本塁打を放ち、4打数3安打3打点。準決勝までの全4試合でヒットを打ち、16打数7安打で打率.438、4打点と打ちまくった。

 この大会では、85年入社の小川博文(千葉・拓大紅陵高/元オリックスほか)も2本塁打を放ち、19打数9安打で打率.474、6打点と打棒爆発。中島とともに優秀選手として表彰され、ふたり揃って初めて全日本に選出。8月開催の第14回アジア野球選手権大会に出場する。

 社会人と大学生の連合メンバーが都内で集結した初日。中島は全日本監督の鈴木義信に声をかけられ、驚愕の言葉を聞くこととなった。

後編につづく>>

(=敬称略)

中島輝士(なかじま・てるし)/1962年7月27日、佐賀県出身。柳川高、プリンスホテルを経て、1988年ドラフト1位で日本ハムに入団。 92年は115試合に出場し、打率.290、13本塁打、66打点の成績を残し、オールスターにも出場。96年に近鉄へ移籍。 98年に現役を引退したあとは近鉄、日本ハムでコーチ、スカウトを経験。その後も台湾、韓国、四国アイランドリーグplusで指導者として活躍し、20年から京都先端科学大学の野球部の監督に就任