ブッフォン「なぜエコノミー? 安いからさ」 現役を引退した「史上最高のGK」の素顔
試合は終わった。ジャンルイジ・ブッフォンはいつものように一瞬頭を下げると、グローブをはめた手で高く拍手をし、そして新しい人生へと向かっていった。45歳。ゴールポストの間を飛翔し、ダイブし、ボールをパンチする「時間」は終わった。
8月2日、ブッフォンは自身のSNSにこんなメッセージを載せた。
「ここで終わる。君はすべてを与え、俺はすべてを与えた。我々はともに勝利した」
1991年にパルマのユースチームで選手としてのキャリアを歩み初めてから、2023年にセリエBの同じくパルマで終わるまでの32年間、ジジ(ブッフォン)は永遠のピーター・パンだった。
「年をとる」ということを知りたくない「永遠の少年」。IDカードの生年月日は彼にとっては無意味なものだった。しかしタイムアップの笛は誰にでもいつかは訪れる。たとえそれがサッカー史上最高のGKであったとしても。
パルマ(セリエB)で現役生活に別れを告げたジャンルイジ・ブッフォン photo by Maurizio Borsari/AFLO
「史上最高のGK」の称号に異を唱える者は少ないだろう。もちろん先達にはGKで唯一バロンドールに輝いたロシアのレフ・ヤシンもいるし、もうひとりの偉大なイタリア人GKディノ・ゾフもいる。しかし彼らでさえ、長きにわたりブッフォンが見せてきた功績の前には及ばないだろう。
反応のすばらしさ、フィジカル、ダッシュ、ジャンプ力、そして粘り強さ。これらすべてが相まって、ブッフォンを唯一無二のザ・ゴールキーパーにした。だからこそ彼の現役引退は多くの人に惜しまれた。
ユベントス、パルマ(そして1シーズンだけパリ・サンジェルマン)でプレー。イタリア代表のゴールマウスを176回守り、そのうちの80試合はキャプテンマークを巻いていた。ちなみにセリエAでは657試合でプレーし、スクデットを10回獲得、974分間の無失点記録を持つ。リオネル・メッシやローター・マテウスなどとともに、W杯に5回出場した数少ない選手でもある。国際サッカー歴史統計連盟が発表した「21世紀のベストGK」では1位に選出されている。
だが、「ジジの一番の資質とはなんだったのか?」と問うた時に、真っ先に思い浮かぶのは「人間性」だ。いや、それ以外は浮かばないと言っていい。
【誰かの力になりたいと思っている】
彼はいつも、自分はただ運がいいだけの人間で、だからこそ他人を助けなくてはいけないと思っていた。自分を神のように思っているズラタン・イブラヒモビッチとは真逆だ。誰にでも気さくに接し、笑って肩を叩き、いつも相手に知られることなく、誰かの力になりたいと思っている。
彼がどんな人間であるのかを理解してもらうために、僭越ながら、私の個人的なジジとの思い出を披露したいと思う。私が『ガゼッタ・デロ・スポルト』紙のユベントス番記者として毎日チームに張りつき、選手たちのことはほぼ何でも知っていた頃の話だ。
練習が休みのある月曜日、私はジジが個人的にマルタ島に行くという情報を掴んだ。デスクに連絡すると、すぐに後を追えと言う。こうしてトリノからマルタに飛ぶ唯一の飛行機の上で私はジジと顔を突き合わせることになった。
「ここでいったい何しているんだ?」
驚きと、多少怒りの混じった声で彼は私に尋ねてきた。私は冗談交じりにこう答えた。
「マルタ島の君の彼女はどんな顔をしているのか、見てみたいと思ってね」
するとジジは破顔し、私の近くの席に腰をかけた。ここである事実が判明した。私が予約していた席はビジネスクラスだったが、ジジの席はエコノミーだったのだ。それを指摘すると彼は笑ってこう説明した。
「小児がんの子どもたちを助けているマルタ島の団体から、『子どもたちはみな俺のファンだからぜひ会いに来てほしい』って言われたんだ。なぜエコノミーなのか? そりゃ安いからさ。子どもたちのためにチャリティーに行くのに、お金をかけるわけにはいかないだろう」
マルタに着いたジジを、人々は大きな喜びで迎えた。子どもたちとの試合ではもちろんジジはゴールマウスに立ち、誤った方向にわざと飛んではゴールを許していた。ジジからゴールを奪った子どもは歓喜の声を上げ、それを見ていた彼らの親たちは涙を流していた。その夜、トリノに戻る機上のジジは、まるでチャンピオンズリーグのカップを手にしているみたいに満足げだった。
【イタリア代表のチームマネージャーに】
考えてもみてほしい。選手として絶頂期にあるGKが、唯一の休日を返上して子どもたちの笑顔のために長旅をしたのである。こんな選手が他にいるだろうか。
もうひとつ別のエピソードも語っておきたい。2006年の夏のことだ。ユベントスは「カルチョポリ」と呼ばれる八百長事件のペナルティとして、翌2006−2007シーズンはセリエBでプレーしなければならなかった。監督のファビオ・カペッロを筆頭に、多くの選手がチームを後にしたが、残った選手もいた。そのなかにドイツW杯で優勝したばかりのアレッサンドロ・デル・ピエロとジジ・ブッフォンがいた。
そのシーズン、ジジが信じられないようなスーパ−セーブを見せ、チームを救った試合があった。試合後、話を聞こうとした私に、彼はこう言ってきた。
「セリエBのGKってのも、悪くないもんだな!」
これこそがジジだった。
彼に、生涯で一番難しかった試合はどれかと聞いたことがある。彼はクラブ、代表を含め1175の公式戦に出場している。即答するのは難しいかと思われたが、彼は迷うことなくこう答えた。
「ユベントス対ミランのチャンピオンズの決勝(2003年5月28日)だ。右サイドからそれほど高くないクロスがゴール前に上がった。俺の前にはふたりのDFがいて、そのひとりはチロ・フェッラーラだった。俺はとっさに動くが、ボールが見えない。ゴール前にはミランの選手も詰めてきていて、そいつが思いきりゴールの隅を狙ってボールをヘッドで叩きこんだ。そう、ピッポ(フィリッポ)・インザーギだ。どうやったのかわからないが、俺は本能のままに飛んで、どうにかそれを止めた。ピッポは今でも俺に会うと、『どうやってあのシュートを止めたんだ』って聞いてくるよ」
ブッフォンの人生はきれいな円を描いている。キャリアはパルマで始め、パルマで終えた。そしてキーパーグローブを外したところで、また別の大きな円を描くことになった。イタリアサッカー協会は、彼にアッズーリ(イタリア代表)のチームマネージャーのポストをオファーしてきたのだ。それはつい最近、永遠に我々の元を去ってしまったジャンルカ・ヴィアリが務めていたポストであった。
ジジは考えることもなく即座に「SI(イエス)」と答えた。まさに彼にはぴったりの役職だ。彼の膨大な経験はチームの大いなる助けとなるだろう。特にW杯を2回逃がし、肌でその大会を知る選手が少なくなってきているイタリアにとっては重要となるだろう。
ジジのアッズーリ入りは多くのイタリア人にとって朗報だった。今でも多くの国民にとってジジはイタリア代表と同義語だからだ。ただ、ジジ自身はいつもと変わらず謙虚だ。
「自分はチームを助けるためにここにいる。選手時代にいったいいくつタイトルを取ったかなどは関係ない。ただ仲間たちの役に立ち、力になりたいだけだ」
彼は「選手たち」の力になりたいではなく「仲間たち」と言った。まるで今でも自分がチームの一員であるかのように。どうやら彼の心は今でもピーター・パンであり続けているようだ。