全日本強化合宿に参加した世界女王の坂本花織 photo by Noto Sunao(a presto)

●フィギュアスケートの基礎

 今年7月、大阪。フィギュアスケートの全日本強化合宿で、コーチとして招へいされていたザカリー・ダナヒューが、氷上の選手たちを高揚させていた。世界トップクラスのアイスダンサーとして活躍した滑りは伊達ではない。

「滑る」。ダナヒューコーチは、それを体現していた。下半身の使い方だけで、自在に速度が上がる。そのスケーティングの基本があるからこそ、演技が深淵に達するのだろう。制御が難しい氷上で、むしろ摩擦が最小限なことを利用し、地上ではできない変幻の動きができる。

「No, Noisy!」(うるさく音を立てないで!)。その声が会場に響いた。ダナヒューコーチはわざと格好をつけたような大げさな滑りで耳障りな音を立て、悪い例を実演する。その後、相反する軽快さとダイナミズムで、模範的スケーティングを披露した。

 選手たちから小さな感嘆の声が上がる。ゆったりとした体の重心移動だけで優雅に滑るのは、じつは簡単ではないのだ。

「滑る」。それはあらためてフィギュアスケートの基礎だ。

●「滑る」で「日本人初」を連発した高橋大輔

 世界のフィギュアスケート史上、「もっとも滑れる選手」のひとりに、高橋大輔の名前が挙げられる。

 高橋は日本の男子フィギュアスケートのパイオニアのひとりと言えるだろう。先人たちがつくってきた道を大きく広げ、人気スポーツのひとつに押し上げた。そのおかげで、日本フィギュアスケート界は新時代を迎えている。


7月下旬、『THE ICE 2023』愛知公演に出演した高橋大輔と村本哉中 ©︎THE ICE 2023

「世界一のステップ」。海外のメディアから絶賛されたスケーティングは、ひとつの伝説だ。

 2010年バンクーバー五輪では日本男子初のメダリストになり、同年の世界選手権では日本男子で初めて優勝を遂げた。2012年のグランプリ(GP)ファイナルでも、日本男子で初めて頂点に立った。「日本人初」の金字塔を立て続けに打ち立てた。

 全日本選手権では6度の優勝で、10度も表彰台に上がった。2018年には4年ぶりの復帰で、全日本で2位になっている。記録も記憶も残した「不世出の選手」と言えるだろう。

 そして、そのキャリアはシングルに収まらない。アイスダンスに転向し、村元哉中と3シーズンに渡って「超進化」を遂げた。識者たちの予想も華麗に覆していった。全日本選手権で優勝、世界選手権でも11位とトップテンにあと一歩まで迫ったのだ。

 その原動力となったのは、何より「フィギュアスケートの申し子」と言えるスケーティングの技量にあった。

●二人三脚で歩んだ長光歌子コーチの証言

「初めて指導した時、『ワルソー・コンチェルト』を振り付けしたら、当時中学2年だった大輔はすぐに滑れて驚きました。それも内面からの表現で、頭より体で理解できて」

 高橋のコーチを長年務め、二人三脚で栄光の時代を築いた長光歌子コーチはそう説明している。

「頭で考えるよりも、体で理解しているっていうか。『ちょっとこんな感じで』とさりげなく振り付けをして見せると、すぐに(感覚を)つかめる。多くの人は見て、聞いて、それで体を動かそうってするじゃないですか? 大輔は感覚的っていうか、(曲を伝えた時に)細胞が勝手に反応するところがある気がしました」

 天賦の才があったが、それに甘んじなかったという。

「大輔は、自分がどういうスケーターになりたいかっていうのが、中2の頃からありました。スケーティングへのこだわりというか、たとえば、体が硬いのに柔らかく見せられるように、自分が理想とするスケートをイメージし、それに近づいていった気がします。彼なりの世界観があって、それを実現する天性も努力もありましたね」

 長光コーチが振り返ったように、滑りを極めたことでたどり着いた領域なのだろう。


©︎THE ICE 2023

●受け継がれる「滑る」伝統

 全日本強化合宿も、まさにそうしたプロセスの一部だった。ダナヒューコーチの熱烈な指導を受け、選手たちが目を輝かせていた。滑りが上達する感覚が手応えとしてあるのだろう。

「呼吸、そのタイミングが大事!」

 かみ砕いた端的な指導で、熱量が上がる。エッジワークの違いで、スケーティングに変化が出た。

 世界女王の坂本花織は能力の高さゆえか、短時間でも吸収力が高く、滑りのクオリティが上がった印象を与えた。

 また、坂本に追随する三原舞依は、少しも指示を漏らすまいと耳を立て、「先生はすごくパワーを感じられる人で、自分に足りない強さやパワーを学んで活かしたい。『エレガンスだけど、そこに強いメリハリを』と言ってもらって」とまっすぐな目で語っていた。

「滑らせるために、上半身を曲げるのではなく膝とか下半身を曲げ、力強く押し出す、という教えを先生から受けています」

 競技に復帰後に合宿に参加した樋口新葉も、高揚した表情でダナヒューコーチの指導について語っていた。

 当然、合宿に参加した男子選手も友野一希、島田高志郎、山本草太、佐藤駿、三浦佳生、そして北京五輪メダリストの鍵山優真が「滑り」と向き合っていた。

 わかりやすくハイスコアが狙えるジャンプだけに没入せず、カウンターひとつ、ブラケットひとつで、どれだけ印象が変わるのか。ダナヒューコーチは終始ユーモアで笑顔も交えながら、濃密な練習を続けた。

 高橋はアイスダンスを経て、競技者としてはリンクから去った。しかし、「滑る」伝統は受け継がれる。今シーズンも、氷上の舞は華やかだ。