世界で2台のみ タイに残る旧軍「一〇〇式鉄道牽引車」は、魔改造で凄まじい出で立ちに
旧日本陸軍には鉄道に特化した部隊「鉄道連隊」が存在しました。装備は装甲車から貨車まで幾多ありましたが、そのひとつに現代の軌陸車を連想させる一〇〇式鉄道牽引車も含まれていました。それは今でも、日本とタイで保存されています。
太平洋戦争開戦後は軌間1000mmへ対応
旧日本陸軍の鉄道連隊は、鉄道の敷設や運行、撤去などを行う、鉄道に特化した部隊で、明治中期に編成され、中国大陸から南方戦線まで活躍しました。演習用路線の一部が新京成電鉄となったのは、有名な話です。鉄道連隊は第一連隊から第二十連隊まで組織され、戦地を点々とする部隊もあれば、1か所に留まる部隊もありました。
そして部隊は実に様々な作戦に特化した車両を所有しました。そのうちの一〇〇式鉄道牽引車は、現代における軌陸車といえる乗りもので、ベースはトラック。6輪のタイヤを鉄車輪に交換することで、線路を走行できる牽引車両です。見た目は角ばったデザインのボンネットトラックであり、路上では後輪の4輪駆動、鉄軌道上では前輪も含めて6輪駆動となりました。
陸上自衛隊 朝霞駐屯地の輸送学校前庭に展示された「一〇〇式鉄道牽引車」(2012年2月、柘植優介撮影)。
心臓部は空冷式直列6気筒、排気量7980cc、馬力90hpのディーゼルエンジン、最高速度は路上で60km/h、鉄軌道上で牽引するときは25km/h〜30km/h。全長6100mm、全幅2440mm、全高2450mmは、現代の小型〜中型トラックに相当する大きさといえましょう。
開発製造は、いすゞ自動車の前身である東京自動車工業(1942〈昭和17〉年にヂーゼル自動車工業へ改称)です。一〇〇式の名称は、日本独自の紀元である皇紀2600年に制式化されたことから名付けられたものです。なお、これを西暦で記すと1940年、すなわち昭和15年になります。当時対応できた軌間は、日本国内の狭軌(1067mm)と中国大陸の標準軌(1435mm)、ソ連の広軌(1524mm)でした。
1941(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦後は東南アジアへと進出するため、南方用にメーターゲージ(1000mm)に対応する工事が施され、このタイプを一式鉄道牽引車としました。形状も性能も一〇〇式と同じです。なお現代の軌陸車とは異なり、タイヤと鉄車輪のモードチェンジは自動化されておらず、台枠に直結されたジャッキを使用してタイヤを外し、鉄車輪をはめるという「全手動」でした。
リバー・クワイ・ブリッジ駅そばの広場で保存
終戦後、国内に残された一〇〇式鉄道牽引車は、使い勝手の良さから西武鉄道や国鉄など、様々な鉄道会社で使用されました。そのうちの1台は、東京都と埼玉県の都県境にまたがる朝霞駐屯地内の陸上自衛隊輸送科学校で保存されています。これは日本で唯一現存する車体で、2011(平成23)年にレストアされましたが、駐屯地内のため一般公開はされていません。
これとは別に、もう1台がタイ王国に現存しています。場所はカンチャナブリ県。タイ国鉄南本線のノンプラドック駅から分岐するナムトック線に乗り、クワイ川鉄橋に隣接した観光用の駅、リバー・クワイ・ブリッジで下車すると、すぐ目の前の広場にあります。ナムトック線は、1943(昭和18)年に開通した泰緬鉄道の一部を使用しています。
朝日を浴びてリバー・クワイ・ブリッジ駅南側の広場に保存される車両群。C56 23号機の奥にグレー色を纏う一〇〇式鉄道牽引車が保存されている(2023年2月、吉永陽一撮影)。
泰緬鉄道はタイとビルマ(現・ミャンマー)の密林地帯を結ぶ目的で建設された軍用鉄道で、旧日本陸軍の鉄道連隊第五連隊と同第九連隊が従事しました。保存されている一〇〇式鉄道牽引車はメーターゲージ仕様のため、おそらくどちらかの連隊に属した車両で、一式鉄道牽引車であると推測できます。ただ、一〇〇式鉄道牽引車も後年にメーターゲージへ対応した可能性も否定できないため、この記事では「一〇〇式」に統一して話を進めます。
なお、『泰緬鉄道建設記』(泰緬鉄道建設記編纂委員会/1955年 花園書房)によると、「連絡用の軽列車(鉄道牽引車による列車)やモーターカーが運転されていて、…」との記述があるため、具体的な形式名こそ記されていないものの、鉄道牽引車による列車は運行されていたといえそうです。筆者(吉永陽一:写真作家)は2023年2月、現地を訪問しました。
前出の南側広場には、泰緬鉄道で活躍したといわれで、C56形蒸気機関車23号機と英国製蒸気機関車も一緒に保存されています。
魔改造された姿に驚愕
一〇〇式鉄道牽引車は無蓋貨車2両を従えた格好で保存されており、貨車にはこれまた鉄道連隊が用いていた九七式軽貨車の台車が確認できます。この軽貨車は台車2台で1組。日本でも一部の鉄道会社が所有しており、車両工場の傍らにひっそりと佇んでいるのを見かけることがあります。車軸はスペーサーを用いて簡単に改軌できる仕組みで、鉄道連隊が駐留した各地で活躍した貨車です。
一〇〇式鉄道牽引車が後ろに従えているのは九七式軽貨車。台車2台で1組となり、輸送目的によって上部の荷台が変更できる。これは無蓋車の状態である(2023年2月、吉永陽一撮影)。
肝心の一〇〇式鉄道牽引車はというと、保存状態は決して良好ではありません。見るからに凄まじい出で立ちとなっているのです。後軸4輪が、鉄車輪を履いた鉄道モードの状態で保存されているのは本来の姿といえますが、前輪が車軸ごと存在せず、タイヤもありません。その代わりに九七式軽貨車の台車が1台、フロントシャシーに直付けされています。前輪があることが当たり前だと思っていただけに、初見したときは思わず「え!? ナニコレ?」と声をあげてしまいました。
ということは、すでに車軸ごと前輪を紛失して遺棄状態だったのを保存したのだろうか――でも、よくよくフロント部分の車台を見ると、取付台座のように改造されている様子。台車がきちんと回転するような構造に見えます。線路の曲線もクリアできそうです。
想像するに、クルマとして路上を走ることをやめ、鉄道車両としての役割を果たすため、あえて前輪を外して軽貨車を移植したと考えられます。もしそうなら、なんという魔改造ぶりでしょう。ちなみに日本で戦後に使用された一〇〇式鉄道牽引車は、世に出回っている古写真を見る限り、しっかりと前輪も存在していました。
説明看板もなし… この状態になったワケを推測
ただ、いつからこの状態なのか、現地に説明看板もなければ泰緬鉄道の資料でも見たことがないので、いまいち判然としません。鉄道連隊の車両として活躍していたときは、作戦行動のためにデュアルモードを活用したはずですから、このような魔改造をして永久的に鉄道モードにするくらいなら、ほかの車両を当てがうでしょう。車両不足のためにやむなくとは考えられますが。
おそらく終戦後、タイに放置されたものを同国国鉄が転用し、いつの頃かに鉄道車両として前輪部を改造した――そう考えるのが妥当です。保存するためだけに、わざわざしっかりとした軸受けを施すのは現実的ではありません。
運転室部分は木製である。朝霞駐屯地に保存される車両も木製で復原されている。一方タイではドアなどが欠損し、屋根も腐っている(2023年2月、吉永陽一撮影)。
台車以外だと、フロントガラスが完全に欠損して窓枠が辛うじて残るほかは、ハンドルが欠損しメーター類も存在せず、シートもありません。直6エンジンや後輪のクランクシャフトといった駆動系は残っていました。
さらにボンネットの側板もなくエンジンが露出。これは側板の紛失かと思われます。ただ、一〇〇式鉄道牽引車は中国大陸の寒冷地での使用を想定して、凍結防止のために空冷式ディーゼルエンジンを搭載しましたが、これが仇となり厳しい暑さの南方ではオーバーヒート気味であったとか。そのため、南国の炎天下には、ボンネットを開け放して強制冷却しながら走行したともいわれています。ゆえに、あえて側板を外したのかもしれません。
さて2023年は、泰緬鉄道開通から80年の節目です。タイの一〇〇式鉄道牽引車が泰緬鉄道で活躍したか否か、軍用車両ゆえに資料が乏しく詳(つまび)らかではありませんが、沿線に保存されているのは何かの縁があってのことです。ナムトック線へ訪れた際は、歴史の一幕に思いをはせてもよいでしょう。