鎌倉時代からの名門・武田を信玄から継いだ勝頼にとって、天下はどう見えていたのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第25回「はるかに遠い夢」では、家康と静かに暮らしたいという夢を追い武田と繋がった瀬名(築山殿)と、信康が自刃する、いわゆる「築山殿事件」が描かれ大いに話題となりました。第26回「ぶらり富士遊覧」では、信長に従順になった家康が武田を討ち信長を接待することに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が、武田滅亡までの道のりを解説します。

設楽原の戦いで壊滅的な敗北を喫した武田勝頼でしたが、武田氏滅亡まで、じつに7年の年月がかかりました。

信長は一気に武田領に侵攻したわけではなかったのです。

長篠(設楽原)の戦い以降の勝頼

武田勢に追い打ちをかけたのは徳川家康でした。

家康は、まず勝頼に攻め込まれた遠江と三河領の奪還、さらにはその地域から武田勢力の一掃を試みます。勝頼もこれに反攻したものの、三河領に関しては、ほぼ撤退を余儀なくされました。

この武田の動きを受けて信長は、嫡子・信忠に命じて長らく武田に奪われていた東美濃の要衝である岩村城を奪還し、城主・秋山虎繁を逆さはりつけという残虐な処刑で見せしめを行います。勝頼が岩村城を見捨てたことを印象づける、一種のプロパガンダ行為でした。

このあたりから勝頼は、遠江における徳川家康との攻防に主眼を置き始めます。その重要な戦略拠点が高天神城でした。家康は高天神城攻略のために二俣城を落とし、高天神城を孤立させることに成功します。勝頼はたびたび高天神城救援のために出陣し、家康と交戦しました。

設楽原で惨敗したとはいえ、いまだ遠征して徳川と対峙できるだけの軍事力を持っていたわけです。そして、そこには、さらに外交上の成功もありました。

信長が一気に攻めきれなかった背景には、暗躍する足利義昭の存在がありました。義昭は、信長に対抗する反織田包囲網の再構築を画策していたのです。そこで、信玄亡きあと最強の武将ともいえる上杉謙信を軸に、武田、北条、毛利の同盟を考えます。

これは弱体化している武田にとっても渡りに船の案でした。

父・信玄とは何度も戦ったことのある謙信ですが、いまや信長が恐れるのは謙信だけとも言ってよく、勝頼からすれば謙信の後ろ盾があれば信長を抑えられるため、徳川戦に集中できます。ただ上杉と北条の関係がよくはなく、謙信は勝頼との和睦には賛成したものの北条との和睦には応じませんでした。これがのちに大きく響くことになります。

勝頼は、さらに毛利とも和睦をするなど一定の外交的成果をあげ、目論見通り信長の脅威を防ぐことに成功しました。しかし、これは義昭の力ありきで、勝頼の外交手腕によるものではありません。このとき勝頼は、最も大事にしなければならない北条氏へのケアを怠りました。

もし北条氏が敵に回れば、武田は徳川・北条の両面攻撃にさらされ一気に苦境に陥ることになるのですが、勝頼は謙信に気を遣うあまり北条氏をないがしろにします。

北条にとって上杉は敵です。その敵に対して勝手に和睦を進めた勝頼に当然、いい気はしていませんでした。

そして決定的な事件が起こります。

大局が見えない勝頼の「おせっかい」

勝頼や義昭が頼りにした謙信が病死し、その後継者を巡って内紛が起きたのです。謙信は実子がいなかったため、養子ふたりがその跡目を巡って対立します。ひとりは、謙信の甥である景勝、もうひとりは北条氏政の弟で上杉に養子に出されていた景虎です。

勝頼は両者の調停に入ります。

明確な態度は示しませんでしたが、景勝が有利になるように動いたようです。

結果的に、この内紛は「御館の乱」と呼ばれ、景勝が勝利。景虎は自害に追い込まれます。そもそも勝頼は北条氏と同盟を結んでいるのですから、当然、景虎側につかねばならぬところを、余計な調停をしたばかりに北条氏の激怒を買いました。景虎の自害の直接的な原因ではなかったにせよ、勝頼が同盟関係を無視した行動をとったと思われても仕方のないことでした。

御館の乱は1579年の3月の出来事ですが、同年9月には北条氏は正式に武田との同盟を解消し、領地の隣接する駿河、伊豆、上野方面で戦闘状態に突入します。この機を家康が逃すはずがありません。家康は北条氏政と同盟を結び、共闘して武田領を攻め始めます。武田にとって最悪のシナリオとなりました。

勝頼は、徳川と北条の両面から攻撃にさらされます。

北条というカードを捨ててまで手に入れた上杉との同盟でしたが、肝心の景勝は御舘の乱の処理でそれどころではなく、まったく勝頼の助けになりません。

どういうつもりで勝頼が上杉の後継者争いに手を突っ込んだのかは謎ですが、その代償はあまりにも大きいものでした。勝頼は徳川・北条の両面戦線での戦いに翻弄されます。つねに自ら出撃し、徳川・北条軍を撃退することで武将としての有能さは見せますが、戦に明け暮れるうちに人心が離れ始めます。

名門である武田氏が朝敵の汚名を着せられた瞬間

このころになって勝頼は、ついに宿敵・信長との和睦を目指します。もしも成功すれば、事実上織田に従属している徳川を抑えられると考えたのでしょう。これが勝頼に、さらなる判断ミスを起こさせます。信長を刺激することを恐れ、孤立し徳川に攻められていた高天神城に援軍を送らず見殺しにしてしまったのです。

これによって勝頼の信用が大きく失墜し、家康は勝頼が味方を見殺しにしたことを大きく喧伝。信長もこれに呼応し、武田の家臣団の切り崩しにかかります。このあいだも勝頼は北条氏と戦い、北条水軍を打ち破るなど戦闘における強さは見せるものの、もはや勢いはありませんでした。

1581年12月に、勝頼は側近と協議し信長との和睦に望みをかけます。武田家に人質として残されていた織田信房を織田家に返還し、和睦の交渉を行いました。しかし信長はすでに勝頼を見切っており、朝廷に働きかけて将軍・義昭を飛び越え、武田氏討伐の勅命を手に入れたのです。

これによって信長は、武田氏討伐の大義名分を得ます。鎌倉時代からの名門である武田氏が朝敵の汚名を着せられた瞬間です。そして信長は正式に、翌年1582年に武田氏討伐を家臣に通達しました。

信長は嫡子・信忠を総大将に攻め入ります。これに先立ち信玄の娘婿・木曽義昌が織田方に寝返り、さらにその木曽軍に鳥居坂の戦いで敗れたことから、武田勢は一気に戦意を喪失して組織だった抵抗がほぼできなくなりました。唯一、高遠城の仁科盛信が激しい抵抗したのみでした。

高遠城が落城すると信長が満を持して安土から出発します。このころには重臣の穴山梅雪が徳川に寝返るなど、一門衆までもが勝頼を見捨てました。勝頼自身の本軍も1万あまりだったのが、またたくまに200人程度まで激減します。さらに勝頼は重臣の小山田信茂に裏切られ、わずかな供廻りだけで落ち延びていくことに。その途中、ついに織田方の滝川一益の部隊に追いつかれ、勝頼は嫡男の信勝や正室とともに自害しました。


判断ミスを重ね家臣の心が離れた勝頼は、戦のなかでしか生きられない将だったのかもしれません(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

勝頼の誤算はなんだったのか

設楽原の戦いでの惨敗を除くと、勝頼はかなり優秀な戦績をおさめています。その勇猛さは家康や信長を相手にしても発揮されていましたし、徳川・北条を相手にしなければならないという最悪な状況下でも自ら出陣しては敵を撃退することに成功していました。

しかしながら、結局は、戦うことだけで、政治力や外交力が劣っていたことは否めません。何をおいても最大のミスは北条を敵に回してしまったことでしょう。

もしも上杉の後継者争いで北条氏政の弟・景虎を支持していれば、北条・上杉・毛利の反織田包囲網は維持され、信長も容易には攻め込めず、家康の反撃も限定的に終わるおそれもありました。また万にひとつかもしれませんが、そのタイミングなら信長との和睦も成功したかもしれません。


しかし北条を敵に回し、徳川・北条の同盟が締結された状態で信長が和睦を呑むなどということは成功するはずもなく、その和睦にすがるあまり高天神城を見殺しにするという最悪の状況を招き、ほぼ自滅の形で滅んでしまいます。

ただ勝頼がここまで追い込まれてしまったのは、長篠(設楽原)の戦いのあと、息をもつかせぬ攻撃を続けた家康の力によるところが大きいでしょう。設楽原の戦いでは信長に主導権を握られてしまった家康でしたが、それ以降はつねに武田戦線の主導権を握り、勝頼に休む間を与えず戦いを強いることに成功しました。

劇的な敗北はなかったものの、家康との戦いで勝頼が疲弊したのは間違いなく、その結果いくつもの判断ミスを犯すことに。それを信長は理解していたのでしょう。武田滅亡後、家康には駿河を与えます。

この功績は、一度従属的扱いであった徳川家を再び同盟者の位置に戻したともいえます。おそらく、信長ほど家康の恐ろしさと有能さを知っている武将はいなかったのではないでしょうか。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)