渋沢栄一は晩年何をしていたのか(撮影:今井康一)

歴史に名を残した偉人たちは「定年後」に何をしていたのでしょうか。新紙幣の図柄に採用される渋沢栄一の「第二の人生」について、書籍『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』より一部抜粋・再構成してお届けします。

大実業家・渋沢栄一の実績

渋沢栄一は、言わずとしれた近代日本における大実業家である。

渋沢氏は、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に根付いた一族で、栄一の生家(中ノ家)はその本家筋にあたり、領主から苗字帯刀を許されていた。

天保11(1840)年に生まれた栄一は、幕末になると尊王攘夷運動にのめり込むが、縁あって一橋慶喜(のちの将軍)の家臣(御用談所下役)に取り立てられた。一橋家では見事な財政救済策を提言したので勘定組頭に抜擢され、慶応3(1867)年、慶喜の弟・徳川昭武がパリ万博へ赴く際、会計係として同行。万博終了後、フランスに留学する昭武の後見役として留まり、西欧の進んだ制度を積極的に学んだ。

戊辰戦争により徳川家は静岡70万石の大名に縮小されたが、栄一は妻子を伴い、旧主慶喜のいる静岡へ移住し、ここに骨を埋めようとした。しかしその後、新政府に請われて大蔵省・民部租税正として明治政府に出仕することになった。

栄一は上司の大隈重信のもとで「改正掛」という政策立案組織を立ち上げ、新暦への転換、鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡(どりょうこう)の統一、租税制度の改革、新貨幣制度の設置などを矢継ぎ早に手掛けた。よく知られているように、国立銀行条例を制定したのも栄一で、明治3(1870)年には大蔵権大丞にスピード出世する。

しかし明治6(1873)年、軍備拡張を主張する大久保利通と対立して下野。その後、三井組、小野組、島田組とともに第一国立銀行を設立して頭取に就任。さらに王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸会社、日本鉄道会社、札幌麦酒会社、東洋硝子、帝国ホテル、東京株式取引所など、五百社近い企業の設立や経営に参画した。

ただ、会社をワンマン経営したり、大量の株式を保有したりせず、経営が軌道に乗るとサッと身を引いた。栄一が好んだのは、多くの人が出資してつくる合本会社(株式会社)だった。だが、将来性があり、社会に有益だと思えば、会社の形態にこだわらず、損を覚悟で資金を出した。また、東京商法会議所など経済団体の組織に尽力し、会頭として政府に実業界の要望を伝えた。

社会への還元を心がけ、福祉事業に注力

そんな大実業家である栄一は、69歳を機に経営の第一線から身を引き、さらに数え年の77歳(大正5年)、つまり喜寿をもって完全に引退し、以後は社会事業や公共事業に専念すると公言した。ここからが栄一の、いわゆる第二の人生といえよう。

後年、栄一は次のように語っている。

「自宅へも皆さんが種々なことを云つて見えますが、それが必ずしも善いことばかりではありません、否(いな)、寄附をしろの、資本を貸せの、学費を貸与してくれのと、随分理不尽なことを言つて来る人もありますが、私は夫(それ)等(ら)らの人々に悉(ことごと)く会つてゐます、世の中は広いから随分賢者も居れば偉い人も居る、それを五月蠅(うるさ)い善くない人が来るからと云つて、玉石混淆して一様に断り、門戸を閉鎖して了(しま)うやうでは、単り賢者に対して礼を失するのみならず、社会に対する義務を完全に遂行することが出来ません、だから私は何誰に対しても城壁を設けず、充分誠意と礼譲とを以てお目にかかる」(渋沢栄一著『論語と算盤』忠誠堂 昭和2年)

晩年の栄一は、誰とでも会って有為な人々を積極的に支援したのであり、それが富豪としての社会的責任だと考えていた。

「自分の斯(か)く分限者になれたのも、一つは社会の恩だといふことを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいふものに対し、常に率先して尽すやうにすれば、社会は倍々健全になる、(略)若し富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持し得るが如く考へ、公共事業社会事業の如きを捨てゝ顧みなかつたならば、茲に富豪と社会民人との衝突が起る、(略)だから富を造るといふ一面には、常に社会的恩(おん)誼(ぎ)あるを思ひ、徳義上の義務として社会に尽すことを忘れてはならぬ」(『前掲書』)

このように「自分は社会から儲けさせてもらっているのだから、それを社会還元すべきだ」というのが栄一の口癖だった。

ただ、栄一が関わった公共事業・社会事業は、引退してはじめたものばかりではない。すでに現役時代からさまざまな活動を展開している。

とくに長い間、関わり続けてきたのが、東京市養育院である。明治3年にロシアの王族が東京に来た際、ホームレスが多いことを指摘されたため、自活できない路上生活者を一箇所に収容したことから養育院がはじまった。明治5(1872)年のことである。

この施設は東京府の管轄となり、その運営費は江戸時代の町費の一部(七分積金)が使用されたが、これを管理していたのが栄一だったことから、必然的に関わるようになった。

渋沢栄一が驚いた養育院の現場

当時は上野の護持院の建物が養育院となっていたが、栄一はその施設を初めて訪れて非常に驚いた。老人も子供も病人も乱雑に詰め込まれていたからだ。とくに子供にまったく元気がなく、笑いも泣きもしない。それが衝撃だった。その多くが捨て子だったが、こうした状況が子供に悪影響を与えているのだと考えた栄一は、彼らを老人や病人とは別にして生活させることにした。しかも単に収容するという考え方を改めさせたのである。

「笑ふのも啼(な)くのも、自分の欲望を父母に訴へて充たし、或(あるい)は満たさんとするの一の楽みがある。然(しか)し棄児即ち養育院の子供には夫等の愉快がない、自由もない。亦毫(ごう)も依頼心がなく常に淋しい面影が存する。故に私は(略)家族的の親しみと楽しみを享(う)けさするのが、最大幸福であると自信し、子供に親爺を与へる工夫をした」(渋沢青淵著『雨夜物語―青淵先生世路日記』択善社 大正2年)

つまり、施設の職員に子供たちの本当の親になってやれと指導したのである。「子供には依頼心を起こさせるのが、却って其発育に効能がある」(『前掲書』)と信じたからだ。これにより、子供たちの表情もみるみる変わっていった。栄一は野に下ったあとも、この施設に関わり続けた。

ところが明治15(1882)年、東京府会が養育院の費用を廃止する動きを見せたのである。「慈善事業は、自然に懶惰(らんだ)民を作る様になるからいけない」(『前掲書』)という理由からだった。勘違いも甚だしい。栄一はこれに強く反対したので、その年は廃止されなかったが、翌16年になると、廃止が決議されてしまった。

そこで栄一は、東京府知事・芳川顕正と相談し、今後も養育院を存続させることに決め、その運営のための基本財産づくりに奔走した。東京府の共有財産であった和泉橋の地所の売却代金、栄一をはじめとする有志の寄付金などをかき集め、明治17、8年からは一般にも寄付金の募集をおこなった。女性たちにも協力してもらい、どうにか運営のメドが立った。さらに明治十八年から栄一が東京府養育院の院長となり、事務を総轄することになった。

明治22(1889)年、養育院の施設は東京市に付属することになったが、栄一は院長として養育院の分院を千葉県安房郡、東京府の巣鴨、井の頭などへ次々と拡大していき、実業界からの引退を決意した翌明治43(1910)年の収容人数は1800人を超えるまでになった。

栄一は「養育院の事業は一層の拡張を要するのであるから、世の博愛なる仁人君子が、華を去り実に就き勤倹の余力を割いて、救済事業の為めに援助せられんことを期待する」(『前掲書』)と述べているが、多くの会社を経営するなかで、このような社会福祉事業を進めてきたことには、まさに頭が下がる思いだ。

また、栄一は、これからの日本は子供の教育にかかっていると考え、東京高等商業学校、高千穂学校、岩倉鉄道学校の創立・支援など、教育分野で精力的な活動を続けていった。

明治神宮の造営を提案

明治45(1912)年、明治天皇は持病の糖尿病が悪化して慢性腎炎から尿毒症に陥り、7月29日に崩御した。その遺体は、生前の遺言に従って京都の桃山に山陵をつくって葬られた。ただ、皇居のある東京の人びとは、陵墓は東京近郊につくられるものと信じており、御陵建設請願運動もはじまっていただけに大いにがっかりした。

その後まもなくして、明治天皇をお祀りできる神社をつくろうという運動が盛り上がる。その中心になったのが渋沢栄一だった。

天皇崩御の2日後、東京市長の阪谷芳郎(さかたによしろう)、東京商業会議所会頭の中野武営(たけなか)と栄一の三人が集まり、明治天皇の陵墓を東京につくるため陳情をおこなおうと話し合ったのがきっかけだった。
ただ、先述のとおり天皇の遺志で陵墓が京都につくられると知ると、彼らは天皇を祀る神社を創建する運動へと舵を切った。

8月9日、栄一らは東京の有力者百人以上に呼びかけて、神社を創建するための有志委員会を立ち上げた。そして8月20日、「覚書」と題する具体的な神社建設案を全員一致で可決した。

その計画によれば、明治天皇をお祀りする神社は内苑と外苑からなり、内苑の場所は代々木御料地として国費で造営し、それとは別に、外苑は青山練兵場を候補地とするというものだった。外苑には、明治天皇の記念館などを建設することも記されており、このときの青写真がそのまま採用されることになる。

栄一らはこの「覚書」をもとに西園寺公望総理大臣、原敬内務大臣など閣僚だけでなく、大隈重信、山県有朋、桂太郎など政府の実力者たちにも面会を求めて協力をあおいだ。

政府を動かすマスコミ戦略

この動きは新聞で逐一報道され、国民的な関心を誘った。どうやらこれも栄一らの、政府を動かすマスコミ戦略だったらしい。さらに、栄一をリーダーとする有志委員会に属する代議士たちが中心になって、衆議院に明治天皇の神社を建設する請願・建議を提出、万場一致で可決された。同じく貴族院でも可決された。

こうして政府にプレッシャーを与えた結果、ついに大正2(1913)年8月、原敬内務大臣は「明治天皇奉祀ノ神宮ニ関スル件」を閣議に提出して十月に決定され、原敬内務大臣を長とする「神社奉祀調査会」がつくられ、当然、その委員として栄一も選ばれた。

そして翌年2月、鎮座の地が栄一らの「覚書」のとおり代々木の地に決まり、大正4年、内務省に明治神宮造営局が設置された。

栄一も造営局の評議員として、その後も明治神宮の造営に関わることになった。社殿の建築を担当したのは、社寺建築の第一人者だった伊東忠太である。伊東は最終的にもっとも日本に普及している素(しら)木造(きづくり)の銅板葺(ぶき)、その形式は流造(ながれづくり)を採用した。

現在、明治神宮内苑には、社殿を中心に72ヘクタールの広大な森林が広がっている。東京ドーム15個分にあたるこの森林は、驚くべきことに、何もないところに一から人工的につくり上げたものなのだ。

神宮の森は、林学者の本多静六が中心になって「天然更新」をキーワードに、人の手を離れて永遠に繁栄する森をイメージしてつくった。東京の気候に適した常緑広葉樹が植林されていったが、十万本が国民からの献納であった。

社殿と内苑の造営はちょうど大戦景気の最中で、物価が高騰したため、人件費が急増してしまった。そこで献木を募ったり、労働力については青年団に依存したりしたのである。そんな青年団の中心メンバー・田澤義鋪(よしはる)によれば、280近い青年団体から一日に1万5000人が神宮造営に奉仕したという。

1924年に完成した神宮外苑


いっぽう外苑だが、関東大震災などもあって、大正13(1924)年にようやく完成したのだった。

神宮外苑といえば、銀杏並木で有名だ。並木路は青山通り沿いから真っすぐに軟式野球場の噴水まで延び、球場の先には聖徳記念絵画館がそびえ立つ。現在、外苑の銀杏は146本、樹齢は100年以上を数え、最大樹高24メートルに及ぶ。

この街路は、折下吉延博士によるもので、博士の工夫が隠されている。青山通りに近づくほど樹の背が高くなっているのだ。その差は最大7メートル。つまり、樹木を下り勾配に配置するという遠近法を用いて、路に奥行きと広がりを与え、見事な景観をつくりあげていたのだ。

(河合 敦 : 歴史研究家)