現存する世界最古のモノレール営業路線、ドイツ・ヴッパータール空中鉄道(写真:enomoto/PIXTA)

2022年は日本の「鉄道開業150年」ということで大いに盛り上がった。しかし、間もなく鉄道に関するもっと大きな節目が訪れる。イギリスのストックトンとダーリントン間で、蒸気機関車の牽引による世界初の実用的な鉄道が走ったのが1825年。それから200年目の2025年は、鉄道にとって大きな記念すべき年なのだ。

さらに、2024年も、ある乗り物が歴史に登場してから200年目ということで注目すべきだ。なにかといえば、モノレールである。モノレールとは1本レールの鉄道を意味し、技術的には大きく2種類に分類される。1本レールにまたがって走行する跨座(こざ)型モノレールと1本レールにぶら下がって走る懸垂型モノレールである。

モノレールは約200年前に誕生し、その後どのように発展したのか。その歴史を紹介しよう。

世界初のモノレール、動力は?

記録に残っている中で、世界で最初のモノレールとされるのは、1824年、イギリス人のヘンリー・パーマーという人物が、木材のレールと馬力を用いた貨物運搬用のモノレールをロンドンのテムズ川畔にあったデトフォード造船所に敷設したものである。レール上の車輪から左右に吊るした籠をいくつか連結し、地上を走る馬に牽引させる、非常に原始的なモノレールだった。

1888年には、アイルランドにリストール・バリーバニオン鉄道(Listowel and Ballybunion Railway)という蒸気機関車が牽引する延長約15kmの跨座型モノレール(フランス人技師のラルティグが開発したラルティグ式モノレール)が登場している。

同鉄道は1888年3月から1924年10月まで36年間にわたって運行され、海岸から内陸地へ砂を輸送するとともに旅客営業も行い、動力付きモノレールを用いた公共交通の先駆けとなった。しかし、乗心地の悪さや、軌道桁(線路)を支える支柱の構造上、通常の踏切を設置できないなどの難点があった。


ラルティグ式モノレールのリストール・バリーバニオン鉄道(写真出典:『機械の研究〜モノレールの技術的諸問題』)

モノレールの営業線で現存する最古の路線は、1901年3月に営業開始したドイツのヴッパータール空中鉄道(Wuppertaler Schwebebahn)であり、ドイツ人技師のカール・オイゲン・ランゲンが開発した鋼鉄レール・鋼鉄車輪の懸垂型モノレールの技術(ランゲン式)を採用している。

ヴッパータールという、国際的にはそれほど名の知られていない都市にモノレールが建設された主な理由は、地形上の制約にあった。同市はルール工業地帯に属し、19世紀末には道路交通がかなり混雑するようになっていたため、これと分離した高速交通機関の建設が望まれた。しかし、ヴッパータールの市街地は、ライン川の一支流であるヴッパー川沿いの狭い谷間に広がっており、新たな鉄道用地を確保するのが困難だった。そこで活用することになったのが、ヴッパー川上空の空間である。ヴッパータール空中鉄道は、その路線の大部分がヴッパー川の上空に建設されている。


西側の終点・フォーヴィンケル駅付近でカイザー通り上を行くヴッパータール空中鉄道の車両=1925年撮影(写真提供:ヴッパータール空中鉄道)

そのほか、ユニークなものとして、1907年頃にはイギリス人のブレナン氏の発案により、相反する方向に高速回転する2個のジャイロスコープ(回転儀)を用いて1本のレール上に車両を自立させる(ごくわかりやすく言えば、回転するコマが直立する原理の応用による)ブレナン式モノレールシステムも登場した。しかし、いざ実用化という話になると安全面等に難があり、試験線がつくられるにとどまった。

日本のモノレール第1号は?

では、日本のモノレール第1号は、いつ誕生したのだろうか。我が国でも明治時代から、モノレールは「単軌鉄道」「懸垂鉄道」といった名称で、科学誌や少年向け雑誌等で紹介されている。このうち、「単軌鉄道」として紹介されたのは前述したラルティグ式やブレナン式モノレールである。

一方、「懸垂鉄道」の名で紹介されたのが、ランゲン式のヴッパータール空中鉄道だった。ラルティグ式やブレナン式が、都市交通として実用化するには技術的に未成熟だったのに対し、ランゲン式は、すでに都市交通としての実績のあるものだったから、我が国でも、これを参考にしたモノレール路線免許の申請が盛んに行われた。1913年以降、わかっているだけでも十指にあまる「懸垂鉄道」「飛行鉄道」の計画があった。

この中で、戦前において唯一、地方鉄道法による免許の交付にまで至ったのが、江ノ島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)による片瀬―江ノ島間の懸垂電気鉄道計画である。1927年3月28日付で免許申請が行われ、翌年7月3日付で敷設免許が交付されている。

しかし、この計画は地元漁業組合の反対や、江の島を国の名勝・史蹟に指定する動き等がある中で、建設に至らないまま、1935年9月12日付で鉄道起業廃止(敷設を断念)された。

また、ほぼ同じ時期に、地方鉄道法によらない遊戯施設扱いではあるが、懸垂型モノレールらしきものが実際に建設され、ごく短期間ながら運行された例もあった。1928年に大阪市の天王寺公園で開催された「大礼奉祝交通電気博覧会」の各会場間を結ぶ目的で敷設された「空中電車(懸垂飛行鉄道)」がそれである。この空中電車は、わずか5日間のみ運行され、博覧会閉幕とともに撤去されるという、まさに幻のような運命をたどったモノレールだった。


大阪電気博の「空中電車」(出典:1928年11月29日付大阪朝日新聞)

戦後になると、1951年に、豊島園に懸垂型モノレールが登場している。このモノレールは直径60mの円形線路を平均時速7.5kmで走行するもので、やはり子ども用の遊戯物として設置されたものだったが、「空飛ぶ電車」として報道され、人気を博したという。


豊島園の「空飛ぶ電車」(写真提供:株式会社西武園ゆうえんち)

モノレールが日本で注目された理由

前述したヴッパータールのモノレールが建設された後、その後の半世紀の間は、ブレナン式のような実験的なものや遊戯物を除けば、世界中のどこにも本格的な交通機関としてのモノレールが建設されることはなかった。その理由としては、1本レールのモノレールよりも、より安定性の高い2本レールの通常の鉄道が敷設できるのであれば、あえてモノレールを建設する必要性がなかったことや、自動車輸送の隆盛などが挙げられる。

ところが、戦後の高度経済成長期に、諸外国と比べて道路の許容量の面で十分とは言いがたい我が国において、自動車の激増によって麻痺寸前に追い込まれた都市交通の解決策として、モノレールが再び脚光を浴びるようになったのである。他の選択肢として地下鉄もあったが、地下鉄建設には巨額の費用(浅草線は1kmあたり当時の金額で45.3億円)を必要とすることから、その対象を幹線交通路に絞らざるを得ず、地下鉄を建設するほどの需要が見込めない路線の新たな交通手段として、建設費が低廉なモノレールが期待されたのである。

こうした中、1957年12月にいわゆる上野動物園モノレール(正式名「上野懸垂線」)が運行開始した。同モノレールは、地方鉄道法に基づく「鉄道路線」として最初に建設されたモノレールだった。

上野懸垂線が建設された経緯について、『東京都交通局50年史』(東京都交通局 1961年)には、「都内の路面交通の緩和策として懸垂電車の試験的建設が昭和31年7月3日庁議によって決定され、上野動物園内に建設されることになった」と記されている。上野懸垂線が、単なる動物園の遊戯施設ではなく、都市交通の問題解決のための実験線という使命を帯びて地方鉄道免許により建設されたことは、注目に値しよう。


上野懸垂線開業時の出発式(写真提供:東京都交通局)

上野懸垂線は、ヴッパータールのランゲン式をモデルとしつつ、騒音低減の観点からゴムタイヤを採用するなどの改良を加えたもので、一般に上野式と呼ばれる。この上野式は、都交通局のほか、日本車輛、東京芝浦電気(現・東芝)が技術開発にあたった国産技術に基づくモノレールだったが、その後、日本の各メーカーは海外のモノレール先進企業と技術提携することにより、モノレールの技術導入と開発を図るようになる。

またがるか、ぶら下がるか

日立製作所はコンクリートの軌道桁上をゴムタイヤで走行するアルヴェーグ式(西独ALWEG社)を導入(東京モノレールなどで採用)。川崎航空機(現・川崎重工業)は鋼鉄レール上を鋼鉄の車輪で走るロッキード式(米ロッキード社)を導入した(姫路モノレールなどで採用)。いずれも跨座型モノレールである。跨座型にはほかに、アルヴェーグ式をベースに、車体と台車を完全に分離したボギー連接台車構造にするなど、独自の改良を加えた東芝式もある(横浜ドリームランドモノレールで採用)。

一方、フランスのサフェージュ社が開発したサフェージュ式懸垂型モノレールの技術を導入したのは、三菱重工業、三菱電機、三菱商事の三菱3社を中心に、国内の有力企業10社が出資し、1961(昭和36)年3月に設立された日本エアウェイ開発だった。

このサフェージュ式モノレールは、ヴッパータール空中鉄道や上野モノレールと同じ懸垂型モノレールだが、パリ地下鉄で1956年に実用化したゴムタイヤ車両の応用と、フランス国鉄が研究試作した振子車両の理論をもとに、ルノー、ミシュランなどフランスを代表する企業の協力の下、当時のフランスの技術の粋を集めて開発された新方式だった。サフェージュ式は湘南モノレール、千葉都市モノレールで採用されている。

こうして、モノレールの規格が次々と登場すると、これを統一しようという動きが出てくる。日本モノレール協会は、1967年度に運輸省船舶技術研究所より委託を受けて「都市交通に適したモノレールの開発研究」に取り組んだ。同研究は、都市交通機関としてモノレールを採用する際の諸条件の決定と、これに適合する軌道、車両、電気および関連施設の基本設計を行うことを目的とし、さまざまな型式のモノレール技術の中から、跨座型に関しては、日立アルヴェーグ式の改良型である日本跨座式、懸垂型に関してはサフェージュ式を都市モノレールの標準仕様として採択した。

そして、この研究成果の活用と検証の意味も含めて建設されることになったのが、1970年3月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)会場を周回するモノレール(日本跨座式)と、湘南モノレール(サフェージュ式)だった(2023年6月16日付記事「湘南モノレールは『海岸』まで延びる予定だった」)。

こうした動きと並行して、日本モノレール協会は、モノレール関連立法を進めるために国会への働きかけを行い、1969年11月11日に都市モノレール建設促進議員懇談会が発足した。翌1970年4月9日には、同懇談会における意見の取りまとめとして、運輸、建設、自治、大蔵の4大臣に対し、都市モノレール建設の促進方を要望した。その結果、当時、建設省に新設された政策課において、モノレールを都市交通機関として採用することの是非が検討されることとなり、これまでモノレールに対して消極的だった建設省の姿勢が、モノレール問題に前向きに取り組む方向へと変わっていったのである。

モノレールの建設は「頭打ち」に

こうした霞ヶ関における情勢の変化や、万博モノレールと湘南モノレールの運行実績(安全性や都市交通としての実用性)、各地でのモノレール法制化へ向けた要望の高まり等を受けて、1972年11月に、都市モノレール整備の円滑化のための財政措置、道路管理者の責任等を定めた「都市モノレールの整備の促進に関する法律(都市モノレール法)」が制定された。


「都市モノレール」の第1号、北九州高速鉄道(北九州モノレール)(写真:kamekichi/PIXTA)

そして、法律制定から13年後の1985年1月には、北九州高速鉄道(北九州モノレール、または小倉モノレール)が開業し、都市モノレールの第1号になった。その後も、千葉、大阪、多摩、沖縄など各地でモノレール路線の建設が進められた。しかし、新交通システムやLRT(次世代型の路面電車システム)、BRT(バス高速輸送システム)など、都市交通の他の選択肢が台頭したことから、既設路線の延伸をのぞけば、現在、モノレールの建設は頭打ちとなっている。


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(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)