団塊ジュニア世代の自他ともに認めるエリートが、出世とともに経験した「2度の限界」とはーー(写真:mits/PIXTA)

1971〜1974年に生まれ、現在、働き盛り真っただ中の49〜52歳の「団塊ジュニア世代」。その数800万人、現役世代の中で人口ボリュームとして突出した層が今、大きな「岐路」に立たされています。

そのリアルに迫るこの連載。2回目の今回は、有名私大を卒業後に就職した会社で出世街道を突っ走るものの「2度、ぶっ壊れた」という49歳男性の人生を追います。

すべてが順調だった。倍率数十倍、慶應の付属中に合格し、そのままストレートで大学を卒業した。周囲の友人は金融や商社に目が向く中、「ノルマを達成すれば給料が上がる成果主義に憧れて」、大手自動車メーカーの販売会社にトップ内定で就職した。

トップ内定で就職、メーカー本社に出向、34歳で課長に

団塊ジュニア世代で最も人数が多い、1973年生まれの澤村昭吾(49歳、仮名)。110人を超える営業職の大卒同期の中でも、自他ともに認めるエリート、幹部候補生として行く末を嘱望されてきた。配属された営業所長から、時には顧客名簿の片っ端から200件電話するまで帰宅しないよう命じられたこともあった。


団塊ジュニア連載、2回目です

電話ローラー作戦に気乗りがせず、やりたくないと思ったことは何度もあった。ただ、会社を辞めようと思ったことはなかった。「みんなやってるんだから、しょうがない」。就職して数年で転職する若手社員が目立つ現在とは、時代背景が異なっていた。定年まで働くつもりで入社するのは、ごく普通で自然だった。

入社6年目の28歳で、これまで例がなかったメーカー本社に出向。2年間の出向中は、本社仕込みの経営イロハを学び、帝王学を吸収した。

出向から戻って数年後、会社史上最年少となる34歳で課長に就任。「超特急コースに乗ったノリで、いっちょ暴れ回ってやるか」と息巻いていた。部下は全員が年上だったが、いっさい気にならなかった。課長を1つの踏み台として、出世階段を爆速で駆け上がるはずだった。今の俺なら、何でもできると思っていた。夢の将来が訪れることを確信していた。

しかし、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。

「激しくぶっ壊れました。それも、一度じゃなく二度。心が完全にパンクしました」

澤村は、当時の状況を努めて冷静に振り返る。心の病である適応障害に2回見舞われ、長期の休養を余儀なくされた。50歳を目前にした今、再び管理職に返り咲いたものの、2回の不調は想定外の経験となった。

飛ぶ鳥を落とす勢いだった澤村に何が起きたのか。

「慶応卒で年下、お偉いさんぶったヤツが言うことを、何で俺たちが聞かなきゃいけないんだと思われていました。もう理屈じゃなく、感情論みたいなものです」

要求に従わない部下、ほぼすべての仕事を自分で抱えた

大抜擢された史上最年少課長が直面したのは、当時の日本社会ではまだ珍しかった「年下上司・年上部下」の環境だった。「本社出向という留学で、外の空気を吸って帰ってきた」(澤村)上司に対し、自らよりも入社年次が上の部下たちは、表面上は普通に接していた。ただ、夕方6時ぐらいになると、一斉に姿を消す。澤村抜きで夜な夜な飲みに行き、「ボロクソに悪口」(澤村)を言っていた。中には、15歳も離れた部下もいた。

澤村が何を言っても、どんな要求を出しても、従わない。指示をすると「はい、はい」とは応じるものの、1週間経っても、2週間経っても、何のリアクションもない。けんかを売ってくるわけでもなく、殴りかかってくるわけでもない。無視するのでなく、表向きは会話に応じる。ただただ、むなしかった。つらかった。どうしたらいいか、途方に暮れた。結果、ほぼすべての仕事を澤村が抱えざるをえなかった。

それでも、2人ほどの部下は、澤村を手伝ってくれようとしたが、彼らはそれほど仕事ができず「何の貢献もないどころか、かえって足手まといになった」(澤村)。ただ、彼らから間接的に悪口の内容を聞かされた。「慶応卒でエリート扱いされて、調子に乗るんじゃねえよ」「外の世界を知ってるからって、あいつは何なんだ」。自動車セールスを長年続けてきたベテランにとって、突然上にやってきた年下上司の存在はとにかく面白くなかった。

仕事の成果を打ち出せない澤村に対し、上司は「お前、何のためにそのポストに就けてやったかわかってるのか」と厳しく追及した。追い込まれた澤村は、朝から夜遅くまで休みなく働き続け、目の前の仕事をとにかく処理し続けた。厳しい就職戦線を共に勝ち抜いた同期たちは、味方にはなってくれたが、自分を助ける力にはなり得なかった。

そして、ついに限界が訪れた。

「まずカラダが不調になりました。その後、精神的に不安定になり、ある朝、起き上がれず、立ち上がれずの状態になりました」

課長に就任してから半年後、心と体がバラバラになり、出社できなくなったのだ。張り切りすぎる自分に対し、冷ややかな対応を取る部下たちにどう接したらいいかわからなくなり、心身は空回り。とっくに自分の容量を超えていた。

上司に洗いざらい話すと、懇意にしていた人事部長に精神科へ連れて行かれた。適応障害と診断され、部長からは休養を命じられた。言われるがまま、毎日薬を飲みながら、自宅に引きこもる日々が続いた。

何とか3カ月後、職場に復帰した。以前と異なる部署に配置転換となり、ヒラ社員に降格となった。与えられた現実を受け入れ、腐ることなく、目の前の仕事を着実にこなしていると、「元エリート」に再び光が当たり始めるようになる。40歳を超えたころ、上司に呼び出され、2度目の課長に挑戦するチャンスに恵まれた。

絶対に失敗できないと思い詰め、半年後

「1回くたばったので、何とかして這い上がりたかったんです。とにかく必死で働く意欲にあふれていました」と澤村。新たなポストを得て、捲土重来を目指していた。職場は、営業の販売促進などディーラーの基幹業務を担う看板部署。出世コースに位置付けられていた。澤村は、引き上げてくれた上司のためにも、数年前自分を追い込んだ周囲を見返すためにも、絶対に失敗できないと思い詰めていた。

半年後、またしても体が悲鳴を上げた。多忙で激務な職場は「上下の人間関係が十分に機能していた」。その真ん中に入った澤村は、いわば邪魔者扱いされた。澤村が何も知らないうちに、知らされないうちに物事が動いていく。下からも報告がなく、上からも説明がない。今は鳴りを潜めた社外接待が当時は頻繁に行われており、幹部候補の澤村は役員のカバン持ちで帯同することも多かった。かたや、同じ職場の社員は夜遅くまで会社で働いていた。「あいつ、遊んでばかりいるよな」。そんな陰口をたたかれるようになった。

「最初に課長になったときと違って、部下は年下ばかりでした。年上上司と、彼らとの間で、もう少しうまく立ち居振る舞えたらよかったんですが、そこまで器用じゃなかったんですよね。周りは全員敵としか思えないようになりました。今思えば、被害者意識の中にいました。そして、朝、ベッドから出られなくなりました」

起床すると、まずアルコールに手が届く。一人暮らしの部屋には、飲みかけのビール缶やウイスキーボトルが散乱した。ふとしたときに、会社のことを考え始めると、体の震えが止まらなくなった。

外出するのは近所のコンビニだけ。同じスウェットを5日間着続け、ひげは生やしっぱなし。酒代に加えて、発散するための風俗代がかさみ、貯金は右肩下がりで減っていく。朝と昼と夜の区別が付かなくなり、つねに酩酊し、突然自分に怒り始めたり、泣き始めたり……。

何もかも、収拾が付かなくなった。前回もかかった医師の診断は適応障害。今度は重症との判断のもと、許可するまでの出社を禁じられたうえ、療養期間は少なくとも半年かかると言われた。2週間に1度、面談のために必ず来院することも命じられた。

黙って話を聞き続けてくれた医師に対し「当初は、周りがすべて悪いだのグダグダ言ってましたが、通い続けるうちに、自分が勝手に暴走したのではないかと思うようになりました」(澤村)。

自分にも非があったのではないか、と冷静に考えられるようになった。通院から約4カ月経つと、会社に復帰するための術を考え始められるぐらいにまで回復した。

最初の適応障害から復帰した後、サードプレイスとして新たに開拓していたスキューバダイビングを通じた知人たちが、心配して時々家を訪れてくれたことも有り難かった。家と職場の往復になりがちな30〜40代。利害関係がなく、同じ趣味を持つ老若男女の知り合いは、アルコール臭が漂う部屋を片付けてくれたり、チキンを買ってきてくれたりした。会社の人間や大学の同級生には、話せないことも彼ら、彼女らには自然と話せた。

「あの仲間には本当に助けられました。仕事盛りになると、どうしても大学の同級生とも疎遠になり、周囲は仕事関係の人間ばかりになりがちです。たまに同級生と会っても『収入がいくらで、どこに住んで、何の車乗って、どんな女と付き合ってるか』など、競い合うような会話ばかり。スキューバを始めたのは『女性にモテるから』との動機もありましたが、外に居場所を作ることは大事だと思います」

半年後、雑巾がけからやり直す覚悟で職場に復帰。平社員で再起動した後、肩の力を抜き、自然体で働けるようになった。1回目の課長職は「イキり全快でぶっ飛ばし」(澤村)、再チャレンジとなった2度目の課長職は、リベンジを果たそうと張り切りすぎていた。同期が多い団塊ジュニア世代の1人として、勝負どころで何とかして勝たないとという焦りばかりが先走っていた。

昨春、3度目の課長職に返り咲いた。トップ内定だったはずの自分よりも評価が下だった入社同期が、今や役員に就いているが、昔の競争意識はもはやどこにもない。15人の部下と各々1時間かけて、定期的に1ON1ミーティングを丁寧に繰り返す。褒めないと動いてくれない反面、承認欲求が強い世代に対するギャップは否めない。自分の経験を踏まえ、精神的な面にも細やかに目を配る。

澤村は「昔は、メンタルヘルスなんていう言葉もなかったですよね。根性論が中心で『あいつ終わった』で済まされていた。弱いヤツ、負けた人扱いでした。今の自分なら、壊れ予備軍は、話をすれば感覚でわかります。やばくなる前に、救えた部下も何人かいます」と強調する。

「2度もくたばり、辞めることなく何とか復活しました。あまりほかの人が経験していないことを『履修済みです』みたいな感じでしょうか」。定年後は嘱託でも働き続け「出ていってくれ」と言われるまで会社にいるつもりだ。 

苛烈だった団塊ジュニアたちの出世競争

澤村さんの話を通じて、彼が就職した約30年前と現在の状況を比べると、あまりにも実情が異なっていることに、あらためて気付かされる。同期との激烈な出世競争をはじめ、定年まで1つの企業で数十年間働き続けるのが美徳とされていた価値観。「年下上司・年上部下」への違和感減少や、当時は「うつ」で片付けられていたメンタルヘルスに対する理解も同様だ。

2度にわたる適応障害を乗り越え、力むことなく自然体で「以前の自分」を振り返る澤村さん。誰もが再チャレンジできる職場環境が広がってほしいと思うと同時に、彼のような自らに意識変革する覚悟もますます必要になってくるのだろうと感じる。

本連載、『団塊ジュニアたちの「岐路」』では、自らの経験について、お話いただける「1971(昭和46)年〜1974(昭和49)年に生まれた方」を募集しております。取材に伺い、詳しくお聞きします。こちらのフォームよりご記入ください。

(小西 一禎 : ジャーナリスト・作家)