傾斜地には棚田が広がっている(筆者撮影)

鉄道が通っていないのにもかかわらず、山梨県の南アルプス市は年間400人以上の転入超過となっている。今後、化粧品大手のコーセーや会員制量販店のコストコも市内で開業を予定。甲府盆地の中央部から南アルプス山麓にかけて細長く伸びるエリアに、何が起きているのか。

南アルプス市(人口6万9516人=山梨県常住人口調査)は2003年に中巨摩郡の櫛形町、若草町、白根町、甲西町、八田村、芦安村の4町2村が合併して誕生した。市内ではモモ、サクランボ、ブドウなどの果樹地帯や、田園地帯が広がっている。

山間部は南アルプスの主峰・北岳(標高3193メートル)をはじめ、間ノ岳、仙丈ヶ岳など南アルプスの高峰が連なり、高山植物やライチョウなどの貴重な自然が残っている。


南アルプスの主峰・北岳(筆者撮影)

また、市内には武田信玄の母・大井夫人の菩提寺「古長禅寺」などの文化財、さまざまな温泉施設が点在する。同市を含む約30万ヘクタールが南アルプスユネスコエコパークに登録されていて、豊かな生態系や生物多様性の保全を図る取り組みが行われている。

【2023年7月5日16時40分追記:初出時、南アルプス市内の文化財に誤りがあり一部削除しました】

南アルプス市までは、中央自動車道(中央道)の調布IC―双葉JCT―中部横断自動車道(中部横断道)白根ICまで1時間40分程度。市の中心部にある市役所からクルマで坂道を進むと10分ほどで中野地区に着く。昭和の郷愁を感じさせる棚田が広がっている。眼下に市街地、晴れていれば遠くに富士山がクッキリと眺められる場所だ。

そこからさらに20分ほどクルマを走らせるとエコパ伊奈ヶ湖に。森に囲まれた静かな山の小さな湖で、一羽のコハクチョウが悠然と泳いでいた。街からほんの30分で豊かな大自然の懐に飛び込むことができる環境だ。

そんなのどかな田園のまちの人口移動に変化がみられる。総人口は出生数の低下による自然減の影響で2010年の7万2000人台から漸減傾向が続いていたが、この数年は少しずつ増加傾向にある。かつての転出超過トレンドから一転、2021年以降は数百人単位の転入超過に転じてきているのだ。

2021年は日本人だけで392人、2022年は261人の転入超過(総務省の住民基本台帳人口移動報告)。そして2023年、山梨県の常住人口調査の最新版(6月1日時点)では、前年同月に比べ421人(外国人含む)の転入超過となっている。

2022年の状況を詳しく見ると、転入超過は0歳から14歳までの子ども世代が154人で、その親の世代である25歳から39歳までの子育て世代が202人となっている。人口減少に悩んできた自治体としては喜ばしい傾向だ。

転入超過の要因の1つは、豊かな自然環境と移住促進政策、そして充実した子育て支援にあるようだ。その内容を市のサイトからチェックしてみた。

移住支援金 

世帯で移住の場合は、1世帯当たり100万円(18歳未満の子どもを帯同する場合は1人につき100万円加算)。ただ、東京圏からの移住、5年以上定住などの条件あり。

若者世帯定住支援奨励金 

市内に住宅及び土地を購入する人への奨励金(夫婦それぞれ満39歳以下が対象)。夫婦のみの世帯は20万円。夫婦またはひとり親と同居する子が1人または2人の世帯は30万円。同3人以上の世帯は50万円。

子育て関連

子育て世帯生活支援特別給付金を児童1人当たり一律10万円。子育て支援センターを6カ所設置。18歳までの子どもの保険診療分の医療費は無料。市立小中学校の給食費は無償。保育料や一時預かり保育の無償。

コロナ禍でリモートワークが一般化し、首都圏に近く自然環境に恵まれ、子育て支援策が充実している南アルプス市を移住先として選んだ子育て世帯が一定数いたということだろう。

2021年に中部横断自動車道が開通

南アルプス市に大きな転機が訪れたのは2021年のことだ。中部横断道の山梨―静岡間が全線開通し、中央道と接続して首都圏に直結したほか、静岡県への移動時間が50分も短縮された。この道路の開通で物流、特産物の海外輸出、インバウンド観光促進など大きな効果が見込まれていた。あいにく開通時はコロナ禍の真っ最中だったため、これまでは想定通りとはならなかったかもしれないが、その分今後に期待がかかるところだ。

この幹線道路の開通により、同市には早くも目に見える形で効果があらわれている。大企業の進出だ。


中部横断道の開通がまちを変えた(筆者撮影)

中央道双葉JCTと中部横断道白根ICの中間あたりに位置する野牛島地区に、新拠点を構えるのはコーセーだ。同社は中部横断道開通前の2019年に同市に南アルプス工場(仮称)を建設するとのリリースを公表している。敷地面積は約11万平方メートルで投資額は150億〜250億円。その後コロナ禍で稼働予定が延期されてきたが、改めてコーセーに確認すると「稼働は2025年以降になります」とのこと。

南アルプス市を新たな生産拠点建設地に選んだのは、清冽な水と豊かな自然環境に加え、中部横断道開通による交通アクセスの向上もあった。

「当社は埼玉、群馬にも工場があり、中部横断道の開通で南アルプス工場との物流ネットワークが広がります」(コーセー広報担当者)


コーセーも南アルプス市に進出予定(筆者撮影)

再開発に名乗りを上げたコストコ

大きな動きはもうひとつある。南アルプスICに隣接する約12ヘクタールの広大な敷地にコストコが進出を決めたのだ。この土地はもともと第3セクターが運営する「南アルプス完熟農園」(2016年に事業停止)の跡地。2021年に「南アルプスIC新産業拠点整備事業用地」に参入する事業者の公募を開始し、山梨県内の企業が出資した株式会社ヒカレヤマナシとコストコホールセールジャパンの2社を選定した。

ヒカレヤマナシは「山と暮らす街」をコンセプトにした地域交流エリアを開発運営する企業で、雑貨店や飲食店などを出店する。2024年夏の開業予定だという。

コストコは山梨県初出店となる。こちらは2024年11月に開業予定で、売り場面積は1万5000平方メートル、850台分の駐車場やガソリンスタンドが併設される。8月から造成工事が始まると報じられている。

市によると、コストコは地元で400人の雇用計画を打ち出している。コーセーも数百人規模を雇用するという情報があったが、こちらは「地元雇用は重要なテーマなので今後さらに検討していく」(広報担当者)とのこと。いずれにしても大きな雇用機会が生まれることは間違いない。

ある市関係者は「若者の地元定着を図るうえでありがたい。ただ、就業人口規模からいって、それだけの労働力をただちに確保できるかどうか」と嬉しい悩みを口にする。

市内にはこのほかにも工業団地が整備されていて、3区画のうち1区画は進出企業が決定済み。「交通アクセスが良くなったことで引き合いが増えている」(市関係者)という。

外から人々を引き寄せる「道」に

かつて著名な脚本家を取材した際、こんな言葉が印象に残っている。

「泥道だった道が砂利道に代わり、やがて立派な舗装道路になる。でも、立派な道ができたら村が潤うかというと逆でね、その舗装された道を通って若者が村を出て行ってしまい、村には年寄りしか残らなくなる」

立派な道の開通がむしろ過疎化を進行させてしまったという昭和の時代の教訓だ。時代は令和になり、相変わらず東京一極集中は進んでいるが、それでもコロナ禍を経験して人々の意識や働き方に大きな変化が訪れた。企業や商業施設も地方に目を向け始めている。

中部横断道という一本の道の開通が、小さな地方のまちに大きな可能性をもたらそうとしている。南アルプス市が地方活性化の新たなモデルになるのか、注目したい。

(山田 稔 : ジャーナリスト)