山梨県甲州市にある武田勝頼像(写真:ジョー/PIXTA)

戦国時代の同盟には、政略結婚がつきもの。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信といえば、宿命のライバルですが、実はその後、武田信玄の娘である菊姫は、謙信の養子である上杉景勝に嫁いでいます。この縁談がいかにして成立したかについて、歴史家の乃至政彦氏が解説します。

※乃至氏の新著『戦国大変 決断を迫られた武将たち』から一部抜粋・再構成したものです。

上洛戦の準備中に急死した上杉謙信

天正5(1577)年9月、上杉軍が手取川合戦で天下の織田軍を追い払い、上杉謙信は越後から越中・能登・加賀半国までの北陸制圧を果たした。そして「(織田信長は)案外手弱いようだ。この分なら天下までの道に不安もなかろう」と豪語した。最晩年の謙信は「天下までの道」すなわち率兵上洛を考えていたようである。

しかし、謙信に残された時間は残りわずかだった。天正6(1578)年3月、上杉軍が上洛戦の準備を整えている最中、急病に倒れるなり、そのまま帰らぬ人となったのだ。享年49であった。

もし謙信があと数年ほど健康であったなら、天下はどのような運命を迎えたであろうか。ここではそれを想像してみたい。そのためにまずは史実の上杉家を見てみよう。キーマンは、上杉景勝と菊姫である。

謙信が病没すると、養子の上杉景虎と上杉景勝は、跡目をめぐって争った。「御館(おたて)の乱」である。


出所:『戦国大変 決断を迫られた武将たち』

はじめ景虎は会津の蘆名家、実家である関東の北条家、ならびにその同盟国である甲斐の武田家らを味方につけ、景勝を孤立無援の窮地に追い込んだ。ここまで戦略は優秀で、まさに一級だった。

だが、景勝はなりふり構わない動きで、軍事・調略・外交の逆境を覆していく。翌年3月、追い詰められた景虎は自害。景勝の辛勝に終わったのだ。

その勝因を2つほど挙げるなら、北条からの援軍が越後に迫るのを食い止めたことと、武田軍を味方に引き入れたことにあろう。

景勝は、最前線の武将たちに的確な指示を飛ばして、北条軍の侵攻を食い止めた。さらに途方もない外交努力によって、敵となるはずの武田勝頼と「甲越(こうえつ)同盟」を結んだ。尋常ならざる離れ業である。景勝の力量と武運は破格級だった。

なぜ武田勝頼は上杉景勝に妹を嫁がせたのか

ところで勝頼は、景勝と交渉した際に、自らの妹を景勝の正室とする約束を結んでいる。親しい身内を相手に嫁がせるのはある意味、人質を差し出すのに等しい。これでは景勝優位の関係とすらいえる。

なぜこんな交渉ができたのか?

そもそも勝頼は、同盟国の氏政の要請で、越後の景勝を攻め、景虎を救援するため越後介入に動いた。しかし同年6月、勝頼の先手を担う武田信豊の陣中に、景勝からの使者が訪れる。ここで和睦交渉が進められた。普通ならこんな使者は斬り捨てられてもおかしくない。武田家に出陣を要請した北条氏政は、景勝の討滅を望んでいたからである。

だが、信豊は使者を受け入れ、対話に応じた。一応その交渉は「景虎・景勝」の「和親」を目的に進められた。同月下旬までに事態を聞いた勝頼は、信豊の判断を「勝手なことを!」と叱ったりせず、それどころか景勝の家臣に返書を送り、交渉を順調に進ませた。

景虎にも景勝と仲よくするよう使者を派遣したが返事はなかった。そこで勝頼は景勝とだけ交渉することにして、8月19日、景勝に最終的な結論を記す起請文を書き送った。

そこでは、景勝が景虎と和平を結ぶことを約束してくれたら、北条軍の越後侵攻を目的とする信濃入りを阻止することと、景勝と「縁段(談)」を進めることと、景勝を最優先に考えて関係を深めていくことが誓約されていた。

ここで、景勝と勝頼の「甲越同盟」および菊姫の縁談が固められたのである。ただし、もし景勝が景虎に理由もなく攻撃すれば、どちらにも味方しないとも書いている。念入りの一文だが、これを見たら北条も激怒しかねないぐらい景勝に有利な誓いであった。

しかもこの後、勝頼は、北条が越後に入るため信濃へ進むのを妨害するような動きを見せており、景勝支援といって差し支えない態度を示した。

これらの不可解な動きは、勝頼を愚将と評する一因となっている。しかしどれも、それほど突飛な判断ではない。

武田勝頼が上杉家に期待したこと

勝頼は謙信生前に上杉家と和睦していた。この関係をこれからも保とうとしたにすぎない。また、勝頼は、双方の実力を照らし合わせ、今後政権を運用する能力は景勝のほうが秀でていると判断したのだろう。

勝頼が何より期待するのは、上杉家が謙信以来の対織田路線を継承してくれることで、この点から景勝に見込みアリと見たに違いない。

結局、景勝は景虎と和睦するどころか、交戦を再開することになる。やがて冬が来て、それまで景勝の家臣に足止めされていた北条軍は作戦遂行を中止。こうして兵数の少ない景虎は孤立して、追い詰められていく。

翌(1579)年3月、景勝は景虎を攻め滅ぼした。この前後で北条家と武田家の関係は急速に悪化し、武田は北条と手切れを覚悟して、国境に多数の要害を構築し始める。

それから半年ほど経過した9月から10月、勝頼は自身の妹・菊姫を景勝に嫁がせた。景勝25歳、菊姫22歳。ここに「甲越同盟」は内実を得たのだ。縁組の話し合いが進められてから1年以上経過しての祝言であった。

なぜこんなに時間が延びたのかは不明である。景勝は3月に上杉景虎が自害する形で御館の乱を乗り切っており、それから約半年後のことなので、上杉家の都合であろう。一方、武田家はこの8月に北条家との対立関係が深刻化し、9月に全面戦争と化している。

同じころ、三河では徳川家康が嫡男・信康を自害させる事件が起きた。菊姫の祝言は、このように東国情勢が切迫する最中に行なわれた。

それにしても景勝と菊姫──こんな適齢期のふたりが都合よく未婚のままでいたものだ。菊姫の婚姻が決まったのは21歳で、上級武士の娘としては少し遅い婚姻である。

元亀元(1570)年秋すぎ、13歳の菊姫は、実は伊勢一向一揆を主導する願証寺(がんしょうじ)の幼い僧侶・佐堯顕心(さぎょうけんしん/顕忍[けんにん]とも。証意[しょうに]幼息との説あり)と婚約していたとも言われている。だが、信玄生前中にこの婚約は破談となった。

また、その後佐堯は、織田軍に殺害あるいは自害を余儀なくされた。まだ少女だった菊姫はここに元婚約者を失ったのである。勝頼と菊姫は、兄妹揃って織田に対する鬱屈の感情を抱いていたことであろう。それは武田家臣たちも同じである。だから、勝頼の外交判断に異を唱えて諫める者は現れなかったのだろう。

謙信が長年抱き続けてきた宿願

さて、ここで考えられることがある。ひょっとすると、生前の謙信はまだ独身である景勝と、当時の適齢期を過ぎようとする勝頼の妹をめあわせる秘策を考えていたのではないか。

手取川以後の謙信は、すべてを上洛作戦に費やすつもりでいただろう。率兵上洛を挙行して京都に足利幕府の秩序を回復させるのは、謙信が長年抱き続けてきた宿願である。若いころ、同様の方針で動いたことがあったが、準備と実力の不足から戦略が破綻してしまった。

今回の敵は、あの織田信長である。万全の態勢で挑まなければ、どこで足を引っ張られるかわからない。実際、信長はすでに本庄繁長や伊達輝宗(てるむね)に、謙信を裏切ってその動きを妨害することを期待していた。信長は謙信上洛を阻止するためなら、何でもやるに違いない。また、関東管領名代でもある謙信は、関東の武将たちから援軍を請われれば、立場上これを見捨てることができない。

まずは足元を固めなければならない。そこで東国の大名を見渡すと、武田勝頼がいた。勝頼と謙信は和睦を果たしていたため、ここ数年は平穏である。武田家と北条家は堅固な同盟関係にある。謙信にすれば、勝頼と協調しない理由はない。

北条家も関東の領土がほしいというより、敵対する大名の駆除のために抗争を繰り返している。武田を通して、話し合いの機会を設けてもらえれば、越後と甲斐と相模の三家和合も可能だと考えたのではないだろうか。

そして、そのためには「天下一之軍士(ぐんし)」を擁する上杉家と武田家の関係を明確な軍事同盟に更新するのが理想であり、親類家族の仲となるのが望ましい。

謙信は北条家と断交して久しいが、武田家と北条家は親密な同盟関係にある。武田と和すれば、北条とも交渉の余地が生まれる。上杉家には北条出身の景虎もいるのだ。

これらを複合的に見るならば、謙信が武田家に景勝と菊姫の婚姻を打診していたとしても不自然ではない。むしろそう考えることで、勝頼の偏った動きに相応の合理性があったものと理解することもできる。

つまり景勝と菊姫の婚姻は、謙信生前からの既定路線で、謙信亡き後も武田家中では、甲相越の三国同盟を理想のシナリオとして認めていたと仮定できるのである。それならば、景勝の使者を武田信豊が受け入れたこと、武田が上杉に過剰な肩入れをしていたこと、また菊姫の輿入れが1年以上延長することになっても破綻しなかったことが理解できてくる。

越後・甲斐・相模の軍事同盟を考えていた?

これらの推測は、実はある文献にある記述に基づいている。

近世前期に成立した『管窺武鑑(かんきぶかん)』という軍記がある。謙信・景勝家臣の息子が書いたもので、その内容は実否不明の伝聞や誤記も多いが、元禄ごろに増産された軍記類より参考となるもので、また不正確な情報についても、なぜそうした記録が書き残されたのかを考える余地がある。この第1巻に、次の記述がある。

【意訳】天正5(1577)年、上杉謙信公は越前北庄(きたのしょう)まで焼き払い、来年、天下へ遠征するので計画を打ち合わせする時、謙信公より勝頼公との和睦が進められ、翌(1578)年正月に話が整い、勝頼の妹を景勝の室にすることが約束された。

その3月謙信公が逝去された後、景虎殿と景勝の間に抗争が起こったので(縁談は)延引し、その翌7(1579)年7月に油川(あぶらかわ)殿の娘・御菊御料人(ごりょうにん/仁科五郎殿と同母)が越後へ御輿入れとなった

【原文】天正五年輝虎公越前北庄まで焼詰め、来年貴下発向御内試の時、又輝虎公より勝頼公への繕あつて、翌年正月相調ひ、勝頼の妹を景勝の室にと約束、其三月謙信公逝去の後、三郎殿と景勝取合起り候故延引し、其翌年天正七卯七月、油川殿腹の御菊御料人[仁科五郎殿と一腹]越後へ御輿入なり。

この記述は、独自の情報源に取材した記録として一考の余地がある。もしこのとおり景勝と菊姫の縁談が謙信の意向によるものなら、このとき上杉謙信が何を考えていたのかを想像することができる。

おそらくこの婚姻をもって、謙信は武田との軍事同盟を締結して、北条との和睦を取り持ってもらい、「真・三国同盟」とも呼ぶべき越後・甲斐・相模の軍事同盟を形成し、関東の争乱を落ち着けて、一挙に上洛するつもりでいたのだろう。

天正3(1575)年の謙信書状で「越・甲可被遂御和内々落着」と記されているように、謙信と勝頼は秘密裏に講和していた(『上越市史』1272号文書)。しかも勝頼はほどなくして氏政の妹を娶っており、「三和」の道が開けていた。武田軍と上杉軍が共同して西上作戦を実行すれば、織田政権の瓦解も起こりうる。

無事に京都を占領できたら、謙信は進撃を停止するだろう。そして「二条御所に足利義昭公をお迎えする」と宣言して、毛利家にいる将軍の帰洛を求めるに違いない。

信長が降伏するか自害するかはわからないが、狭量な義昭が許すはずもないのは見えているので、華々しく散る道を選ぶのではなかろうか。その後謙信と義昭は、天下再興と称して、幕政の立て直しを図るであろう。

しかし、謙信は義昭が信玄の挙兵に乗って、信長と争った時は、盟友・信長に味方して将軍と距離を置いた。佞臣(ねいしん)に乗せられる将軍の器量には首を傾げる思いがあったのだ。

差し迫る死を前にして、果たせぬ夢に未練

かつて謙信は義昭の兄である足利義輝にも「(将軍様の)御側近には、その身に相応しくない不義の方もたくさんいます」と苦言を申し上げたことがある(『上越市史』193号文書)。


こんな直情型の謙信と、非寛容な義昭が果たして上手くやっていけるだろうか。この点、微妙に疑問である。

それでも計画が万事順調にいけば、50歳を過ぎた謙信は折を見て、かねてからの願いどおり隠居したことだろう。その際、上杉景勝は越後の大名として菊姫と在京。上杉景虎は上杉憲政と上野へ移り、そこで新たな関東管領として上杉・武田・北条の関係を調整。そして謙信当人は越後に帰り、景虎の嫡男・道満丸を膝に抱きながら、読経と座禅の日々を過ごす──。

こうした未来を思い描いていたのではないだろうか。

史実の謙信は、天正6(1578)年3月に倒れた。差し迫る死を前にして、果たせぬ夢に未練を覚え、「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」と、辞世の詩を詠み残したのかもしれない。

(乃至 政彦 : 歴史家)